騎士はひそかに願う | ナノ


 月の光は何故虹を生まないのだろう。フレンは男性陣が集ったテントの中、ブランケットを膝にかけながら座り、ランプの消えた天井を見据えながら取り留めのないことをぼんやりと考えていた。
 テントの外はすでに闇の中へ沈んでおり、就寝前のあいさつをしてから数刻は経過している。野営用の中では最高品質の結界に守られているおかげで、魔物に襲われる危険はない。だが、万が一の備えとしてフレンは甲冑こそ身に着けていないものの、すぐに戦いの場へと赴けるように最低限の防具を纏い、剣を傍らに置いていた。
 辺りを覆う結界の表面を激しく叩いていたはずの雨粒の音が聞こえない。どうやら微睡んでいた間に雨雲は去ったらしい。一刻も早く星喰みを倒すため、倒壊してしまったアスピオ上空へ浮かぶ古代の塔『タルカロン』へバウルに運んでもらっていた一行を止めたのは、パティだった。一流の航海士でもある彼女は、バウルでも飛翔が困難になるほどの水分を溜め込んだ厚い雨雲の存在にいち早く気付き、その危険性を皆に伝えた。そのため、ギルド『凛々の明星』と仲間たちは、雨を凌ぐために一番近くの開けた場所へ降ろしてもらい、そこで野営をすることにしたのだった。
 進路を阻んでいた豪雨も止んだようだが、今は夜も遅い。タルカロンへ向かうのは明日でよいだろう。フレンは静かな覚悟を胸に宿したまま立ち上がり、健やかな寝息を立てるカロルと、うっすらと緊張感を漂わせながら瞳を閉じているユーリの脇をそっと通り過ぎた。
 テントの出口で丸まっていたラピードが近づいてくる気配を察し、長い尾をふるりと震わせフレンを見上げる。異なる二つの青が交錯する一瞬の間にフレンの意図を読み取ったのか、ラピードは眠たげに瞼を閉じて尾をすいと出口の方へ向けた。
「ありがとう、ラピード」
 彼にしか聞こえないよう囁きながら出口を潜り、外へ出る。推測した通り、雨は止んでいた。
 設置された結界がテントの周囲に光の輪を描き、濡れた世界を淡く彩っている。実体のない表面に舞い降りた雨粒が、ぼんやりと発光する結界にあわせて闇の中に瞬く様は、真上に広がる星空によく似ていた。
 テント二つが余裕を持って入れるだけの広さはあるものの、結界の終わりは思ったよりも傍にあったようだ。真横に張り付いた水滴が光の尾を残しながら真下へと滑って守護の範囲を教える縁で、無造作に座り込む紫の羽織を纏った男をはっきりと捉えることができる。
 遠近双方に用いることができる変形弓の熟練した使い手にして、ギルドユニオンの中心『天を射る矢』の幹部。そんな立派な肩書きに反して、胡散臭く軽薄でつかみどころのない性格を持つ『おっさん』――レイヴン。それが旅を共にする仲間が知る彼で、仲間たちが親しみを込めて呼び、彼自身も名乗っている彼の名。
(そう、レイヴンさんだ。……レイヴン、さん)
 フレンは目当ての人物が簡単に見つかったことに安堵した。いつも明るく飄々と振る舞っているが、ふとした瞬間にあっけなく消え去ってしまうような危うさを彼から感じていたからだ。朽ち果てた神殿で彼の正体を知り、移動要塞で再会してからずっと。
 頭の中で呼ぶべき名前を繰り返しながら彼へ声をかけようとしたフレンは、その後ろ姿にかすかな違和感を感じて開きかけた唇を閉ざす。違和感の源を探るため、彼の後ろ姿をつぶさに観察していたフレンは、些細であるが大きな差異に気付き息を飲んだ。
 地面の上へ無造作に腰を下し、空を見上げるレイヴンの背中はピンと伸びており、いつも適当に結ばれていた蓬髪は解かれて肩口で揺れている。必要以上におどけた雰囲気は鳴りを潜め、ひんやりとした静けさが彼を包み込んでいた。
(――っ)
 用意していたはずの名が、舌に乗る前に溶けて消える。脳裏に浮かぶのは、鮮やかな夕暮れ色をした騎士の姿。
「……シュヴァーン、隊長」
 衝動的に呼び慣れた名を紡いでから、フレンは我に返って口を押えた。だが、言葉はすでに飛び出てしまった後だ。一度口に出してしまったそれを、消し去ることはできない。
 帝国騎士団隊長首席シュヴァーン・オルトレイン。それもまた彼の名前であることに違いはない。しかし、彼はその名で呼ばれる度に自分はレイヴンだと訂正し、シュヴァーンは崩れ落ちた神殿の下敷きとなって埋まっているのだと繰り返した。飄々とした笑みの奥に、凪いだ色を隠したまま。
 彼はレイヴンとしての生を選んだ。フレンが憧れ、尊敬の念を抱いた騎士はもういない。彼自身が騎士であることを望んでいないのだ。いつだったか彼は言っていた。生きるならシュヴァーンがやったことのけじめをつけなければならない、と。それは、完全に騎士として生きた自分と決別することを意味しているのではないだろうか。
 騎士の名で声をかけたことを後悔するフレンの前で、灰色がかった黒髪が揺れた。ゆるりと向けられた鮮やかな碧の瞳には、確かにフレンの姿が映り込んでいる。フレンの呼びかけに振り向いたレイヴンは、彼らしくない凛として落ち着いた顔をしていた。まるで、今フレンが呼んだ人物であるかのように。
 レイヴンは声に反応してしまってから、初めて騎士としての名を呼ばれたことに気が付いたのか、しまったとばかりに顔をしかめた。彼はすぐにいつもの笑みを浮かべようとしたが、フレンの食い入るような視線に気が付いてため息をつくと、表情を取り繕うことを止めた。
「――フレン・シーフォ」
 前髪に隠れていない右目が、彼の持っていた剣を思わせる鋭い光を宿してフレンを射抜く。フレンは思わず姿勢を正した。
「っ、はい」
「君は、いつまで俺をその名で呼ぶつもりだ」
 レイヴンでいるときより低く重みのある声は、まさしくシュヴァーンのものだ。服装こそ違うものの、いまフレンの目の前にいるのは帝国騎士団が誇る隊長首席に間違いなかった。
 その声に咎める響きはない。ただ問いかけているだけだというのに、静かな気迫に気圧されそうになる。フレンはそれを振り切って口を開いた。
「……あなたが、」
 言いかけて一息、間を置く。真っ直ぐに視線を返しながら、はっきりと言葉を紡いだ。
「あなたがあなたである限り、ずっとです。シュヴァーン隊長」
 シュヴァーンでいてほしいと願うのは、フレンの我儘だ。わかっている。それでも、願わずにはいられないのだ。
 偶像としての彼に憧れ、尊敬したわけではない。騎士団の門を叩いた頃はそうだったかもしれないが、今は違う。平民出だからとか、英雄だからではない。シュヴァーン隊に配属された同期の話であるとか、偶然見つけて食い入るように眺めていた訓練を指揮する姿だとか、すれ違った際に激励されたことだとか。出会いの欠片が集まって、フレンの中で大きな存在となっていただけ。
 旅の仲間たちがレイヴンを想うように、フレンはシュヴァーンを想っていた。レイヴンとしての彼を厭っているわけではない。未だレイヴンをシュヴァーンと結び付けられない仲間たちのように、フレンはシュヴァーンをレイヴンと上手く結び付けられないでいた。フレンにとっては、どんな名を名乗っていたとしても彼はシュヴァーンなのだ。シュヴァーンだとしか考えられない。今まで培われてきた、存在の大きさゆえに。
「……そうか」
 紫の羽織を纏った男は何度か瞬きをした後、吐息じみた笑い声を漏らす。そして森の方へ向き直り、自分の隣を叩いて示した。
 突然のことにフレンが目を丸くしながら固まっていると、浅黒い掌が促すようにもう一度地面に触れる。躊躇いつつ、フレンは彼の隣へ腰を下した。彼の影になっていて今までは見えなかった焚火が、フレンの目の前に現れる。赤々と燃える炎の仄かな温かさに安堵を得て、フレンはいつの間にか緊張で強張っていた口元を緩めた。
 隣を横目で盗み見れば、ひどく透明なまなざしで星喰み蠢く夜空を見つめる男の姿。彼はふと鮮やかな碧をまぶたの裏に隠しながら、小さく呟いた。
「ありがと、フレンちゃん」
 口調はレイヴンのものだが、落ち着いた声音はレイヴンのものより若干低い。それでも、隊長首席のものと完全には重ならないが。
 彼はシュヴァーンに生き続けてほしいフレンを肯定してくれたのだろうか。――そうであってほしい。

 フレンは祈る。声には出さず、密かに願う。

(消えないで、下さい)

 どんな振る舞いをしていてもいい、どんな格好をしてもいい、どんな名を名乗っていてもいい。でも、シュヴァーンとしての己を、どうか、

(――消さないで下さい)


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