不良でこわい人だと噂に聞いていた彼は、本当は優しくて親切な人なのかもしれない。昨日の晩は、そんな彼に助けてもらった時に掴まれた自分の手がとても気になってしまって、その手に触れるたびにあの時の彼の優しい笑顔を思い出してしまって、なかなか寝付けなかった。
そして迎えた翌日。私はいつもより少しだけ早く起きて、少しだけ早く家を出た。朝起きた瞬間から、早くお礼を言わなくちゃ、とそればかりが気になって、気持ちが焦って学校へ着いたのはいつもより大分早かった。ローファーから上履きに履き替えて、階段を上り廊下を進む。廊下はシンと静まりかえっていて、他の生徒の姿は見えない。やっぱり、早く着きすぎてしまった。
自分のクラスに着く前に、7組の前を通るから、7組の教室の中をこっそり覗いてみた。水戸くんはまだ、来ていないみたいだった。水戸くんって、いつも何時くらいに学校来るのかな。そんなことを思いながら、とりあえず自分のクラスの教室へ入った。自分の席について、何をするわけでもなく、ぼーっと誰もいない教室を見渡す。無意識に自分の手に触れて、そうしたらやっぱり昨日の晩の出来事を思い出して、ドキドキしてしまった。早くお礼言わなきゃ。私の頭の中はそれでいっぱいだった。


10分くらい、そうしていただろうか。誰もいなかった教室に少しずつクラスメイトたちがやって来て、静かだった教室は少しだけ賑やかしくなっていた。なんとなく落ち着かなくなって、廊下へ出た。廊下では何人かの生徒がグループを作って集まっておしゃべりを楽しんでいた。そんな他の生徒たちを見ながら、私は一人廊下の窓を開けて外を眺めた。
それから5分くらいぼーっと窓の外を眺めていたけれど、いい加減同じ景色を見続ける事にも飽きてしまって、視線を外から廊下へ移した、その時だった。廊下の先の階段の方から、こっちへ向かってくる、水戸くんの姿を見つけた。いつもは桜木くんとか、他の友達と一緒にいるのに今日は一人みたい。なんて、いつも意識して見ていたわけじゃないから、もしかしたら今日みたいに一人の時もあったのかもしれない。ただ私の中で、いつも水戸くんは桜木くんたちと一緒にいるイメージってだけで。
だんだん、水戸くんが近くなる。それに比例するように胸がドキドキした。7組の教室の前の廊下で、私はただじっと立って、彼を待っていた。待っていたのに、いざ、彼がすぐそこまでやってくると、緊張してしまってなかなか声がかけられない。このままじゃ、水戸くんが教室へ入ってしまう。言わなくちゃ。お礼、言わなきゃ。勇気が出ない自分を勇気付けるように、昨日彼に掴まれていた自分の手に触れて、


「あの…っ」


声を、かけた。すると、水戸くんはふと視線をこちらに向け、それから『あ』と、少し驚いたようなそんな顔をした。


「昨日の」
「あ、はい。…えっと、」


私の前で立ち止まり、まっすぐ視線を私に向けている水戸くん。ものすごく視線を感じて、恥ずかしさやら、緊張やら、それらを誤魔化すように、指をもじもじと動かす。ドキドキする。でも、呼びとめておきながら、いつまでもこうしているわけにはいかない、と私は勢い良く頭を下げた。


「昨日はありがとうございました!」


やっと言えた、昨日家に着いてからずっと言わなきゃ言わなきゃ、と気になり続けていたお礼。けれど、私は頭を下げたまま、ふと思った。反応が無い。え、どうして?窺うように、顔を上げて、水戸くんを見ると、彼は不思議そうに私を見ていた。もしかして、何のお礼か分かってない、とか?


「…え、えっと、昨日、私、助けてもらったのに、お礼言うの忘れてたから、だから―…」


慌てて補足すると、突然。ぷ、と目の前の水戸くんが噴出した。


「もしかして、わざわざ礼言うためだけに待ってたの?ここで?」


水戸くんは口元に手の甲を押し当てながら、私にそう尋ねた。もしかして、水戸くん、笑ってる?なんて、戸惑いながら、私が頷く。すると、


「ハハッ!」


間違いなく、水戸くんは笑った。声を出して、笑った。昨日見たあの優しそうな笑顔とは少し違った、なんだか楽しそうな笑顔。その笑顔に、胸がドキドキした。


「律儀だね」


そう言いながら、笑う水戸くん。あまりに笑われているものだから、私はなんだか恥ずかしくなってしまって、視線をそらした。一頻り笑って、それから水戸くんは言った。


「俺、水戸洋平。7組。あんたは?」
「春川すみれです。8組」
「なんだ。となりか」


なんだか信じられない。私はただ、昨日のお礼を言おうと思っていただけで、だから、きっとお礼を言えたらそれでおしまいだと思ってたのに。なのに、こんなに会話が続いているなんて。


「よろしく、すみれちゃん」


水戸くんに、名前を呼ばれるなんて、嘘みたい。


+++


朝の出来事のインパクトが強すぎたのか、今日はまるで集中力の無い一日を過ごしてしまった。気がつけばもう放課後だった。帰り支度を済ませた私は教室を出た。今日は、予備校も無いからまっすぐ家に帰るだけなんだけど、確か今日は母がパートで帰りが遅くなる日だから母の代わりに私が夕食の準備をしなくちゃいけない。一度帰ってからまた出かけるのは面倒だし、夕食の買い物をしてから帰ろう。そんなことを考えながら、昇降口で上履きからローファーに履き替えて外へ出た。


「…あ」


外へ出ると、水戸くんがいつも一緒にいる人たちと体育館の方へ歩いて行くのが見えた。声をかけてみようかな、なんて一瞬考えたけれどやめにした。だって今朝まともに会話できたばっかりで、名前を知ってもらったのも、今朝のことで、だからそんな馴れ馴れしく声をかけられるような仲じゃない。以前に、声をかける勇気が無い。今朝は水戸くんが一人で居たからなんとか声がかけられたものの、普段男の子とまともに会話の出来ない私が、友達と一緒にいる彼に声をかけるのには今朝の時とは比べ物にならないくらい、相当の勇気が必要だった。
声がかけられない私は気を取り直して校門へ向かって歩き出した。


「すみれちゃん!」


突然、名前を呼ばれて立ち止まる。その声の方へ振り向くと、そこにはこちらに手を振る水戸くんが居た。


「帰るの?」


少し距離がある場所から、水戸くんがそう尋ねた。まさか、体育館の方へ向かっていた水戸くんが私に気づくとは思わなくて、声をかけられるなんて思わなくて、びっくりして、私は水戸くんの質問にただ頷くことしかできなかった。するとそれを見た水戸くんは、


「今日はよそ見して歩くなよ」


からかうようにそう言った。だけど、私は相変わらず声をかけられたことにびっくりしたまま何も言葉を返せなくて、ただただ頷くばかり。そんな私を見て、水戸くんが笑った。


「じゃ、また明日!」


笑って、そう言って、また手を振った。
今朝みたいに、水戸くんが私の名前を呼んだ。笑って、声をかけてくれた。昨日のことを踏まえて、心配してくれた。なんだか、嘘みたいだ。嘘じゃないんだけど、信じられない。
どうしていいのかわからなくなった私は、手を振る水戸くんにとりあえず、頭を下げた。顔を上げると、相変わらず笑顔の水戸くんが私を見ていた。



02 また明日


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