夜空に浮かぶ真っ白な月を見上げて、深く息を吸い込んで吐き出した。この4月に高校生になって、受験勉強から解放されたかと思えば、まだ入学したばかりだというのに大学受験に向けての勉強が待っていた。腕時計に目をやり、時間を確認すると、時刻は夜の9時を回っていた。毎日、というわけではないけれど、週の半分程は学校が終わってそのまま予備校へ向かい遅くまで勉強。今日もそうだった。
勉強することは嫌いじゃない。だからといって特別好きなわけでもない。成績が下がれば、教育熱心な父親に怒られる。それが嫌だし、父には逆らえないから勉強している。高校進学をきっかけに、少しでも自分を変えられたら…と、思っていたのに、現状は全く変わっていない。そんな自分に溜息を吐きながら、テキストを開いた。


「ねえ、ちょっと」


歩きながらテキストに目を通していたら、突然前方から声が聞こえた。ハッとしてテキストから視線を上げると、すぐ目の前に二人組の男の人がいた。危うくぶつかるところだった。『すみません』と、ぶつかりそうだったことを男の人たちに謝って、二人の脇を抜けようとすると、片方の男の人が私の行く手を阻んだ。


「ちょっと君に話してるんだけど、無視しないでよ」


私を通せん坊している男の人は軽く笑いながらそう言った。状況がよくわからないまま私がその男の人を見つめていると、今度はもう片方の男の人が口を開く。


「君、高校生だよね?今帰り?」
「?そうですけど」
「良かったらさあ、今から俺たちと遊ばない?」
「え、でも私もう帰らないと…」
「そんなこと言わないでさあ、ね?」


もしかして、これってナンパというものだろうか。私はようやく自分の置かれた状況を理解した。どうしよう。誰かに助けを求めようにも、他の通行人はみんな面倒事に関わりたくないといった風に視線をそらして通り過ぎる。


「あの、すみません、ほんとに急いでるので」
「えー、いいじゃん。ちょっとだけ!」
「でも…っ」
「ほら、じゃご飯行こう!ご飯だけね!」


男の人たちは私の話をまったく聞いてくれない。それどころか、通せん坊していた男の人が私の手首を掴んで、私をどこかへ連れて行こうとした。予想もしない行動に驚き、そして恐怖を感じた。


「こ、困ります!ほんと、離して下さい…っ」


ずるずると引きずられながら、必死に訴えるものの、男の人たちはやっぱり全然聞いてくれなくて、楽しそうに二人で笑いながら話してる。どうしよう。早く帰らなくちゃ。こわい。こわい。誰か。振りほどこうにも、強い力で掴まれていてびくともしない。恐怖心はどんどん強くなり、混乱で頭の中がぐるぐるする。こわい。こわい。


「いや…っ!」


誰か、助けて。そう、大きな声で叫びたいのに、怖くて全然声が出ない。私は、それでもなんとか小さく叫ぶと、固く目を閉じた。




「その子に何か用?」


突然聞こえてきた誰かの声。目を開けると、そこには私の通う高校の学ランを着た男の子の姿があった。


「嫌がってるだろ。手、離せよ」


彼は一度、掴まれている私の手に目をやると、ゆっくりこちらへ近づいてきた。すると、私の手を掴んでいた男の人の手の力が少しだけ緩む。


「なんだお前、邪魔すんなよ」


私の手を掴んでいない方の男の人がそう言って、近づいてきた学ランの彼の正面に、行く手を阻むように立って、そのまま学ランの彼の胸倉を掴んだ。何やら険悪なムードに、見ているだけしかできない私。確かに”誰か、助けて”って、思ってけど、叫びたかったけど、でもそれで関係の無い人に迷惑をかけるのはダメ。
そう心配しながら様子を窺っていると、胸倉を掴んでいる男の人の手を、掴まれている学ランの彼の手が掴んだ。その瞬間。


「いてててっ、やめろ!折れる!折れる!!」


胸倉を掴んでいる男の人が悲鳴をあげた。その拍子に胸倉を掴む手がはずれ、それから学ランの彼が男の人の手を掴んでいた手をパッと離すと、そうされた男の人はよろけて二、三歩後ずさりした。


「〜ってめー!」


それから逆上した男の人が彼に殴りかかる。危ない、とそう思ったのに、あまりに急展開すぎて声が出なかった。最悪の事態を想像して目を見張る。殴られる!
けれど、学ランの彼は殴りかかるその腕を難なく交わすと、今度は彼の方が先に殴りかかってきた男の人に殴りかかった。


「うわあっ!」


しかし、それを男の人もなんとかよけた。けれど、彼の拳の勢いは止まらず、その腕はそのままこちらまで伸びて来た。すると、殴られる、そう思って怯んだのか、私の手首を掴んでいた男の人の手が完全に離れた。と、同時に伸びてきていた学ランの彼の拳がふわ、と開いてあたしの手を掴む。


「走るぜ!」
「え?ひゃ…っ」


彼が掴んだ私の手を引っ張った。突然引っ張られたものだから、思わず躓きそうになりながらも、私は彼に手を引かれるまま走り出した。


+++


騒動があった駅前を大分離れた辺りまでやって来てようやく足を止めた。


「…ここまで来れば平気だろ」


ハアハアと肩で息をする私に、私より早く呼吸を整えた学ランの彼がそう言って、ニコリと笑う。その優しい笑顔に、私は胸が高鳴るのを感じた。たくさん走ったから体がぽかぽか熱くなっているけど、それの比じゃないくらい、顔が熱い。


「よそ見して歩いてちゃだめだよ。変なのに声掛けられるから」
「へ?あ!えっと…」
「一人で帰れる?」
「あ、はい!大丈夫です」
「そう」


そう言うと、彼は掴んでいた私の手を離した。それから離した手を私の頭へ伸ばす。


「じゃ、気をつけて」


ポンポン、と軽く私の頭を撫でて、そう言った。それからくるっと私に背を向けて歩き出し、次第に彼の背中は夜の闇に消えた。


彼に、私は見覚えがあった。
あの人は、隣のクラスの水戸洋平くんだ。和光中の出身で、けっこうなワルらしい、とクラスの子達が話しているのを聞いたことがある。同じく隣のクラスで赤い髪の桜木くんといつも一緒にいて、桜木くん以外にも彼とよく一緒にいる人たちはみんなこわそうな雰囲気があったから、今まで話したことなんてなかったけど。でも。
あたしはトボトボ歩いてようやく家の前までやって来た。


「ただいま」


玄関のドアを開け、中へ入ると、洗い物をしていたらしい母が濡れた手をエプロンで拭きながら、出迎えてくれた。


「お帰り、ずいぶん遅かったじゃない。何かあったの?」
「…ううん、何も」
「そう?…あ、お腹減ってるでしょ。ご飯冷めちゃったから、温めなおすから、座ってなさい」
「ありがとう。先、鞄置いてくるね」


パタパタ台所へ戻っていく母を見送って、私はそのまま玄関を上がってすぐにある階段を上がり、二階にある自分の部屋へ向かった。静かにドアを開けて、静かにドアを閉める。部屋の電気をつけて鞄を置いた。それから、先程まで水戸くんが掴んでいたあたしの手を見つめた。
人を見かけで判断してはいけないとは思いつつも、今までこわい人なんだろうなって、話したこともないのにそう思っていたけど、違うみたい。外見は確かに、少し、近寄りがたいけど。でも全然、こわいとかそんなことなくて、助けてくれた。それに、とても、優しい笑顔の人だった。
無意識に掴まれていたその手に触れる。それから私は大変な事に気がついた。


「…お礼!」


思わず独り言を言ってしまうくらい衝撃。私、お礼言ってない。助けてもらったのに、私ってば、なんて失礼なの。どうしよう!同じクラスだったなら、連絡網で電話番号くらいわかるのに隣のクラスだからそれも叶わない。
明日、学校でお礼を言おう。しばらく考えて、そう決意した私は、階下から聞こえる母の呼ぶ声に返事をしながら部屋を出た。



01 優しい人でした。


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