箱の中でぐちゃぐちゃに崩れてしまったケーキは、家へ戻ってから三人で食べた。最初ケーキを見たとき、マットさんが怪訝な表情をして『何これ』と尋ねてきたけれど、あたしが落としてしまったのだと説明すると、彼はそれ以上何も言わなかった。 ケーキを片付け、日付が変わるちょっと前に、二人はそろそろ帰ろうか、と立ち上がった。 「こんな時間までごめんな」 二人を見送るために玄関先までついて来たあたしに、マットさんがそう言ったから、あたしは軽く手を振って、 「気にしないで下さい。寧ろ、今日はありがとうございました。楽しかったです」 「そう?こちらこそ、どうもありがとうございました」 靴を履き終えたマットさんは立ち上がるとこちらに振り向いてニコリと笑う。するとすでにドアを開けて外に出て、あたしとマットさんのやり取りを見ていたメロさんがいつものように言った。 「俺たちがドア閉めたら、鍵かけろよ」 それにあたしがコクリと頷いてみせると、マットさんが一言あたしに耳打ちした。 「仲直りできたみたいで良かったね」 その言葉にあたしはなんと返して良いのかわからなくて曖昧に笑うことしかできなかったけれど、どうやらマットさんもそれには気がつかなかったようで、メロさんに急かされて『おやすみ』の挨拶を残してドアを閉めた。あたしはメロさんに言われた通りドアの鍵をかける。そして、あたしが鍵をかけたのを確認してドアから離れていく二人の足音を聞きながら、自分で自分の体を抱きしめた。 Story 揺らぐ 「仲直りできたんだ」 オーダーを取りに行って戻って来たあたしに、唐突に先輩は言った。あたしは一瞬何のことを言っているのかわからなかったけれど、さっきメロさんがお店へ来て帰って行ったことを思い出して、先輩が言っていることがメロさんについてのことなのだとすぐに気付いた。 そしてやっぱりあたしは、マットさんに言われた時と同じで、なんと返して良いのかわからなくて曖昧に笑った。そしてやっぱり先輩もマットさんと同じでそれには気がつかないようで、『良かったねー』と笑うと、あたしの取ったオーダーのコーヒー二つを持ってお客さんのところへ行ってしまった。 一人取り残されたあたしは、お店があまり混んでいないのをいいことにカウンターに寄りかかって物思いに耽る。 あたしはメロさんとこれといって”仲直り”できてはいなかった。 勢いで告白紛いなことを言ったら、今でも信じられないけれど、抱きしめられた。家へ向かう道中は無言だったけれど、家についてからマットさんと三人でケーキを食べ始めた頃には、まるでさっきの出来事も、この前の出来事もなかったみたいにメロさんはあたしに接した。もちろん今日も同じ様子。 マットさんや先輩の言うとおりこれで良かったのだろうか。あたしにはわからなかった。 確かに今までみたいにまたメロさんがお店に来てくれるようになった。また話ができるようになった。 だけど、メロさんに抱きしめられた時に聞こえた彼の言葉を考えるとあたしは不安になる。あたしの思っているような人間じゃない、ってどういう意味なのだろう。 仕事を終えると、あたしはいつものように家に帰って三人分の食事の準備をした。三人分の食事を準備するのも、もうすっかり慣れてしまって、前ほど支度に時間がかからなくなった。それは今日も例外ではなくて、早々に食事の準備が済んでしまったからなんとなくテレビをつけて、二人が来るのを待つことにした。 この時間帯はどのチャンネルもニュースしかやっていない。そうわかっていながらも、とりあえず順番にチャンネルを回していく。一周回して、やっぱり想像したとおりだったから最初に見ていたチャンネルに戻した。 『今晩はこの冬一番の冷え込みとなるでしょう。東京都の―…』 ”この冬一番の冷え込み”だというのにわざわざ外に出て予報を伝えなければならないお天気キャスターのお姉さんに同情しながらも、自分は温かいお茶を一口。寒いのだから仕方ない。 そうこうしているうちに、テレビの画面はいつの間にかニュース番組からバラエティ番組へと切り替わっていた。たくさんのタレントがひな壇に並んで座っていて、司会者らしき人物が番組の趣旨を説明している。どうやら年末年始特有の長時間特番のようだった。タレントさんも大変だなぁ、なんてそんなことを考えながらしばらくの間ぼんやりとその番組を見ていたけれど、年末の特番をこうして一人で見ていることが急に虚しくなって、あたしはテレビを消した。 静かになった部屋には時計の音がやけに大きく響く。その音につられるように一度時計を見ると、あたしは立ち上がって台所へ戻った。いつもならもうそろそろ二人が来る時間だから、二人が来てすぐに食べられるようにしておこうと思った。鍋を再び火にかけ食器の準備をして、料理を盛り付けていく。出来上がったもの全てをテーブルに並べて、あたしもまたソファに座った。 「…早く来ないかな」 時計の音だけが響く中で、あたしのその呟きは虚しくさまよった。 俺とマットがななの家に着いたのはちょうど日付が変わった頃だった。こんなに遅くなる予定ではなかったのだが、所詮予定は予定だ。予定通りにならないことなんて山ほどある。 マットがドアをノックする。こんな夜分にインターホンを鳴らすのは迷惑だろうとのことでのその行動だが、そもそもこんな夜分にやってくること自体が迷惑だと俺は思うのだが、マット曰く『約束すっぽかして行かないのと、どんな遅くなっても行くのとでは後者の方がいくらかマシ』らしい。そもそも何故携帯の番号ひとつも聞いていないのか、とあきれられた。そう思うのなら自分が聞けばいい。 俺がそんなことを思いながらマットの背中を見ていると、しばらくぼーっとドアを見つめていた奴がこちらに振り向いた。 「メロ、ななちゃん出ない」 「見ればわかる」 俺がそう返すとマットは何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに再びドアをノックした。時間も時間だし、もしかしたらもう寝ているのかもしれない。そう俺が言いかけたその時。 「…鍵あいてる」 マットがそう言った。見ればわかる。 わずかに開いたドアから見ると、リビングの灯りがついていたから、いるのだろうと俺たちは勝手に家の中へ入った。あれほど女の一人暮らしは危険だと言って聞かせたというのに、ドアの鍵が開けっぱなしとは。それもこんな夜分に。 溜息をつきながら一応内側から鍵をかけてリビングへ向かうと、ちょうど入口の所でマットが突っ立っていた。 「マット、どうした―…」 奴の背後からそう声をかけた、途端に、マットはこちらに振り返り口の前に人差し指を突き出した。静かにしろ、という意味なのだろうが、理由がわからなくて、マットの横から身を乗り出すようにして様子を窺うと、家主であるなながソファで眠っていた。ああ、それでか。 マットの行動の意味を理解した俺は、視線を彼女から、テーブルの上に移した。そこには手つかずの三人分の夕食。 俺たちが来るのに待ちくたびれて眠ってしまったのだろう。ふと視線を感じてその方を見ると、マットが俺を見ていた。『どうする?』と目が訴えている。 俺は再び視線をソファで眠るななに移すと、ひとつ息を吐いて彼女の方へ歩み寄った。起こさないように気を配りながらななの体を抱き上げる。寝ているのを起こすのも忍びない。しかし、そのままソファに寝かせたままでは風邪をひくだろうと思った。 ベッドに寝かせて肩まで布団をかける。そして、そこから離れようとすると、弱い力で袖を引っ張られて、見ると、どういうわけか彼女の指が俺の服の袖を掴んでいた。起こしてしまったのかと少し慌てて彼女を見たけれど、相変わらず彼女は気持ちよさそうに眠っている。 『あたしじゃ、あなたの支えにはなれませんか?』 そんなななの顔を見ていたら、クリスマスのあの日に言われた彼女の言葉がよみがえった。 彼女のその言葉は俺には十分すぎる。もう十分すぎることをしてくれたのに、それでもまだ俺の為に何ができるか、なんて。俺はそんな風に気遣ってもらえるような人間じゃない。 彼女は俺を知らなかった。 俺がどこから来て、今までどんなことをしてきて、どうして今、日本にいるのか。それを知ったら彼女は俺を嫌うだろうか。 「メロ?」 その場からなかなか動かない俺を不思議に思ったのか、マットが声をかける。それで俺の思考は中断した。それから俺は、俺を捕まえているななの手をそっとはがした。 俺はこの手を掴んではならない。この手を掴むには、俺の手は汚れすぎていた。余計な荷物は置いていかなければならない。いつまでも抱えたままでいたならば決意が揺らぐかもしれない。 そんなことあってはならなかった。仮に、そんなことがあったならば、今までの自分がなかったことにされてしまう。今まで何のために生きてきたのかさえわからなくなってしまう。足元が揺らぐ。 だから、もう、十分だ。 100212 back |