明らかにチャンスだ。
 気を落ち着けるためにくわえタバコを深く一吸いする。一本線に吐いた煙が先日改装工事をされたA市ヒーロー協会の真新しい天井に広がって消える。
 いつだって顔色なんか白と言うよりか青いくせに、このときばかりは赤くなる熱さを自覚できていた。

 よたよた歩く背中に背後から近づく。話しかけろ。行け。もう一歩も離れてない。

 覚悟を決めろ。
 通り過ぎるな、ほら! 行け!! 今だろ!!

 勢い余って肩をつかんだ。

 後ろから急に襲いかかられて名前がたたらを踏む。コケるすんでのところで踏みとどまった。
 誰だという目で振り返られた。


「すごい荷物だな」
「……」


 うわっ、やな奴に会っちまった。
 そんな顔をされた。

 ふかーくタバコの煙をのんで、なが――――く吐いた。

 怯むな。
 警戒されるのもしかたがないことだ。

 今やるべくはその両手で抱えたでっかいダンボール箱を持ってやることだ。タバコの一本分でもいい、とにかく株を上げないことにはどうしようもない。
 もう吐く息など残っちゃいない。さあ言え。重たそうだな持つぞ。
 いい、そんなに長くなくていい。
 貸せの二文字だ。たったの一単語。
 唇は、思考より長く動いた。


「それ以上筋肉つけて、ゴリラにでもなる気か? おっと」


 いつもだったらほっぺた狙いのパーが来るところ、今日は自由のない手に代わって足がきた。案の定バランスを崩して「うわ」とよろめいてどうにか踏みとどまった。

 にらみ上げられて顔を逸らす。

 名前の腕を取ることもできなかった。知らぬ存ぜぬとコートポケットに引っ込んでいる手を恨んだところで、結局は自分が悪い。


「ついてこないでよ副流煙」
「俺もこっちに用があるんだよ別にお前と一緒に行ってるわけじゃねえ」

 勇気は遅れてやってきた。かなり外れたタイミングで。

「なあお前って彼氏とか居るのか」
「えっ」色を変えた名前のほっぺたに、つい馬鹿みたいな期待を持つ。「ななななに、いきなり。お付き合いとかは特にしてないけど」


 待てよ、重い荷物を運ばせっぱなしで放っておいている男になんのチャンスがあるって言うんだ。今でいい。タイミングなんて外しちまえ。
 取り上げろ。
 持て。
 運んでやれ!


「知り合いのゴリラがつがいを探してるんだが」
「ムツゴロウさんにでも相談しなさいよどカス」


 知らねえよ!!
 旧進化の家、現たこやき家のゴリラがメスに飢えているのかどうかも疑問だよ!!
 名前の歩く速度が上がる。とは言っても女でヒールで荷物まで持っているわけなので、ひっついて歩くなどわけない。
 しかしヒールで大荷物だ。そんな早さで歩いたら転ぶかもしれない。
 ゆっくり行けよ。
 早歩きにさせたのは他でもない自分なんだけれど。
 名前の負担を考えれば、さっさと荷物を持ってやるべきだ。
 じゃなければ早く離れてやるべきなのだ。
 そして自分の行動パターンを見れば、後者しか選択できないのは明らかだった。


「……」


 タバコを吸い込むフリで間を持たす自分は卑怯だ。
 でも離れるのがいやだった。
 無言になると名前の息が荒いのにいやでも気づく。ふるえる細腕が負担を軽減させる持ち方を探してなんどもダンボール箱を抱え直している。
 言えよ。いやいい。言わなくてもいい。持て。行動で示せ。

 ポケットから手を抜いた。
 伸ばした。

 ひょい。


「え」
「あ」


 名前と声がかぶる。
 名前のでかいはずの荷物をさもこともなげにつまんで、二人の後ろから伸びてきたマジックハンドの赤い手袋と、


「名前さんこれどこに運べばいいの?」
「童帝くん!」


 持ち主の小さい体が割り込んできた。マジックハンドをびよりとつきだすランドセルにどんと押された。
 完全につまはじき。
 わざとかこのガキ……!


「ありがと! もう手がびりびりしてて……一階下の新資料室に移すの。ね、お礼させて。ラウンジでお茶ごちそうするから」
「いいよー別に」


 三人並んで歩くことさえできなかった。そんな根性があったらとっくのとうに荷物くらい取り上げている。さっきまでのぶすくれた顔はどこに消えたのか、でれでれ笑う名前を見送るゾンビマンに、


「これくらいふつうだって」


 一瞬だけ振り向いた童帝の目が、刺さる。
 動けない。
 こっちに用なんてなかったゾンビマンに、そこから先へ進む理由なんてなにもなかった。
 煙に巻かれる自分だけが切り離されて、嘘みたいに明るく話す声が階下へ下っていく。





 チャンス、の、はずだ。
 先日とまったく同じ状況が眼前にある。ふらつく名前、やはり手にはでっかい荷物。


「おい名前」


 タバコのフィルターを噛み潰して舌を取り押さえた。口から出るのはどうせ皮肉だ。

 行動で示せ。

 背中に向かって歩みを早めて、内ポケットで手汗を握り拭いた。迷うな、がっと行け。さっと持ち上げろ。
 まったくの唐突に名前が振り向いた。
 差し出しかけた手はそれ以上進めなくなる。中途半端な場所で止まって、まるきり痴漢の直前だ。


「……」
「……」


 どちらともない言葉を待つ沈黙を破ったのは名前で、


「……なに、うっとおしい」


 今、胸を切り開いて心臓を見てみたい。命を賭けてもいいが、絶対に青い。
 顔面張り飛ばされるのの百倍は衝撃があった。


「だったら見苦しい歩き方すんな、ブス」
「ならこっち見なければいいでしょ」
「視界に入るなよ」
「どうせそこの階段下りたら見えなくなるんだからそれまで大好きなタバコでもちゅーちゅーしてていただけます?」


 思い切りのいいあっかんべえまで貰った。

 ああそうかよ。眉間が勝手にしわを刻んだ。
 どこにも行けない手をコートに戻して背を向けて、言われたとおりタバコを吸い込む。乾いたままでいてくれない視界は煙のせいに決まっていた。
 どうしてこうなるのか。
 背後、牛歩の歩みでヒールが遠ざかる。今にも転びそうなのが足音からでも察せられた。

 バカ女。
 意地張ってんじゃねえ。そんな足取りで階段なんか降りれるわけがねえだろうが。

 振り返った。
 老婆のように慎重に、どうにか階段を下りようとする名前の姿に胸が痛んだ。

 意地を張っているのは自分だって同じなのは重々に承知だ。
 もうなんでもいい、どうにかして手荷物さえ取り上げてしまえばこちらのものだ。
 一歩踏み出す直前、


「っ!!」



 がくん、と誰の目にも明らかに体制を崩した。

 ぶちまけられて宙を舞い上がるダンボールの中身は大量の紙だった。
 踏み外した名前の体にまとわりつきながら、長くて急な階段を白く薄い四角が埋め尽くす。

 飛び出した。





 回転する視界にいくつの段差が写ったのかはもちろん数えちゃなかったが、後頭部が軽くへこむぐらい強く手すりに打ったことと靴の裏が滑り止めにひかっかって足首がねじれたこと、ちゃんと名前の頭を抱え込めたことはしっかり覚えていた。
 医務室で目が覚めた時に目が入ったのは、心臓に悪いくらいの泣き顔だった。


「すっげーブス」


 締めつけを感じ、指を伸ばせば額には包帯が巻かれていた。
 身を起こせばタオルケットの下の手には特大の絆創膏、足首にも包帯が無意味に処置してある。


「……バカじゃねえか」


 名前からの反論はない。
 口を開くと言葉は端から嗚咽に変わる。うっくだのひっくだの、子どものように止まらない涙に苦しそうにあえぐ。


「おいなんだよそのマジ泣き。愛嬌もないブスなんか本当にただのブスだぞ」


 しくじった。
 丸イスに座って、うつむいたままどんどん身を縮め丸めて名前の涙が勢いを増す。
 どうせどこもげたって生えるじゃねえか。
 なんだよ。
 泣くなよ笑えよ。
 きまずい。口寂しい。タバコはどこだ。コートのポケットを探ろうとしてスカった。黒のタンクトップとジーンズしか身につけていない。

 ごめんね、と名前は言った。

 ものすごい嗚咽で、聞き取るのがやっとの細すぎる声で。

 言えばよかった。私から、持ってって言ってれば。
 かばってくれたせいで、頭からすごい、いっぱい、血が出てた。
 足も、へんな方に曲がってた。
 痛かったでしょ。
 ごめん、ごめんね、ごめんね――。

 しゃくりながらそんなこというな。
 間をつぶすすべがねえってのに。


「なに言ってるかぜんぜん聞き取れねえよ。これじゃゾンビじゃなくてミイラ男だ」


 あられもない音を立てて鼻をすすりあげて、べしょべしょの顔面をこする名前の腕。

 血が。

 何かを考えるより先に掴んでいた。肩をはねさせて名前が顔を上げる。

 ゾンビマンの腕にあるのとお揃いの特大絆創膏、肌色のコーティングフィルムの下でガーゼが赤く膨らんでいる。
 新鮮、できたてほやほや裂傷だった。


「切ったのか!?」
「――すっただけ。ゾンビマンの方が、」


 舌打ちしたくなる。
 顔に出てたのかもしれない。へしょへしょの泣き顔で名前がのぞき込んできた。
 イヤになる。
 自分のヘタレなんかなんの免罪符にもならない。名前は女で、生身なのだ。一分一秒ではこんなちっぽけな怪我さえ直らない。


「泣かないでよ」
「は、泣くかようぬぼれんな」


 つかんだ腕は抵抗しない。この下に骨や筋肉がつまっているとは信じがたいやわらかい肌の上から指を滑らせる。自分にできる範囲で、最上級の優しさで触れた。
 患部には触らないようにしないとと直前で思って、絆創膏にふれない位置から手のひらを覆わせる。
 腕を差し出して、注射におびえる子どもみたいに泣きはらした顔で名前が呟く。


「――痛いよ」
「我慢しろ、俺のおかげでこんだけですんだんだろ」
「そうだね、ありがとう」


 ありえない。
 素直な言葉がむずがゆくてとてつもなく気持ち悪い。
 そうじゃねえだろ、言い返せ。打ち返せ。マジになってへこんでんじゃねえ。

 無抵抗さが腹立たしい腕を引っぱった。力なく腰を浮かせて、名前が前のめりに倒れ込む。

 まつげの本数も数えられるくらい顔を寄せた。自分のにおいが気になったのは、鼻先を名前のにおいが掠めたからに他ならない。
 めちゃくちゃに緊張して口が渇いていた。その場しのぎに舌で唇を濡らす。


「礼ならこのままベッドでしてくれてもいいんだぜ」


 蚊をたたくようなビンタ一発。目がくらんだ。アコーディオンカーテンの後ろに身を隠した名前の、


「不健全! ばか! ぼけ!!」

 照れ隠しばればれの大声。

「いってえなゴリラ!」

 こっちだってそれは同じだ。
 ひっぱたかれた頬を押さえて、思わずにっと笑みが浮かぶ。



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