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もういい。
雉島は立ち上がる。高くない鼻先から涙が伝って落ちる。鼻をすする。
烏間の顔を見ようともしないから、烏間がとんでもなく焦った顔を、ともすればすがるような目をしていることにも一切気づかない。
「雉島」
急ぐでもなく廊下へ向かう背中を、烏間は足早に追う。すぐさま追いついてしまったが、今度は手も伸ばせないしかける言葉もないことに気づいてしまう。
廊下は短かった。
短い廊下を歩き終えるまでに、雉島は一度涙を拭った。
胸が痛い。
だが、傷つけたのは他ならぬ自分なのだ。
「雉島」
傷つけたことに傷つくだなどムシがいいにもほどがある。
わかっている。だが、雉島の涙が辛い。泣かせたくなんてなかったのに。いつだって雉島は烏間を尊重して助力してくれた。その分、大事に愛しているつもりだったのに。
それなのに。
振り返らず靴を履いて、つま先をとんとんと打ち付けて、キャリーバッグをつかんだ。
行くな。
「織子、」
行かないでくれ。
副音声など、都合良く聞こえるはずがなかった。
ドアノブを押し下げて戸を開くと、熱気と夏の音が押し寄せて立ち入ってきた。
行くのか。
問いかけるまでもない、当たり前だ。
そうしない理由がない。
「すまない」
震えるかと思った声はいつも通りにかっちりとして響いた。
首を振ることもなく、言葉もなく、細い背は外へ滑り出た。烏間の視界から隠すように扉が閉まった。
涙が出そうだったしへたりこみたいほど寂しかった。
涙は出なかったしへたりこみはしなかった。
そんなことはできないと思った。
雉島が、出て行った。
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