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朝のにおい






煙草もアルコールも香水も身支度の為の整髪剤も紳士たる者の嗜みで、ある種の武装でもあった。我が仕事場の混じり合う煙草のアルコールの香水の人間のにおいの気配の多い事、流動はすれど留まる時間の方が長いそれはまるで坩堝、その中で己が選び纏ったにおいが近すぎる誰彼との境界をふとした時の理性を保つ役目を果たしてくれると本気で考えているし実際そうだった、何度それで意識を取り戻したか解らない。しかし仕事場を後にする頃にはその境界は曖昧で全てが渾然一体となったと言えば聞こえはいいが身体中にまとわりついた様々な臭いの混じったそれは鼻を頭を麻痺させ何処か夢心地、朦朧とした気分に私は陥る、まるで自分を失った様に感じた儘誰もいない我が家に戻る。そんな気分の日は儘あるもので、その日は一晩の楽しみを共にする誰かのにおいすら許容出来ず泥の様に眠り憂鬱な目覚めを迎えるのが常だ。最早決まりきった事だったのに……
ふわふわ、嫌じゃない浮遊感に包まれているのを感じる。そろそろ目が覚めるんだろう何時どうやって寝たっけ?スーツの儘だったかな靴は脱いだかな、やだなゴミ溜めで起きたくないなー起きたらあの嫌な臭いが鼻を掠めるんだ起きたくないな嗚呼ほら日に暖められた部屋に埃と生ゴミとポケモンフードの……?
慣れてはいるが好んで嗅ぎたい訳ではない自宅の朝の空気を恐る恐る吸ったが実際に鼻を擽ったのはゴミでも埃でもポケモンフードのむわっとした臭いでもなく、清潔なシーツと風にのる草のにおいだった。
なんだ?ここは一体?
むくっと日頃よりうんと機敏な動作で起き上がったギーマはあきらかに自室ではない室内を見回した。
清潔で飾り気の無い部屋だ。ベッドサイドのテーブルに目覚まし時計、モンスターボールの台いくつかのメモに自分のジャケット、壁にはクローゼットが一つ、窓は開いており柔らかい色合いのカーテンが弱い風に揺れている。その風に部屋の空気に耳をそばだてると何処からか音がした、この殺風景な部屋の主だろうが果たして私はどんな彼女と一晩を共にしたのだろうか。そんなに飲んだ訳でも大負けした訳でも逆に大勝ちした訳でもない、唯唯平均的な勝ちを納め退屈なカジノの臭いに酔い嘔吐感に似た不快感を纏って帰路についたつもりだったが……全く思い出せない。
更に耳を澄ませれば音よりも先ににおいが届いた、油のにおいだ、何かを料理している様な音を更に聞く為ベッドから降り靴を履いてジャケットを手に扉に近づけば音は僅か大きくなり扉の隙間からふと、コーヒーの匂いも混じり鼻を擽った。コーヒーを淹れる相手は山程いたが料理も一緒にしていた相手はそんなにいない、まともな相手か?それとも相手の身内かそれとも正式なお相手か?くるくると多方向に回転する思考で様々な事を考えながらそれに備え扉を開けると一気ににおいが強まった、それに音もする。パチパチ、と焼けるにおいとなにか、卵か?油と他のものが弾ける音ーー朝食なのだろうか?人によっては郷愁を誘う音や匂いや光景にかもしれない、自分はそんな思い出は持っていないしドラマや映画で見るやつだななんて他人事の感想しか抱いていないのでなんとも現実味がないし特に感情も沸かない。寧ろ疑問や不安感が否応なく沸き、増し、ギーマの神経は研ぎ澄まされていく。玄関へ続く通路の途中の空間がキッチンなのだろう、そろりそろりと足音を殺し料理をしている人物の姿を確認しようと僅か壁の影から顔を覗かせるとそこには一夜を共にした艶めく女性の後ろ姿はなく、黙々と朝食の用意をしている同僚の逞しい背中があった。
え?なんで君がいるの?張りつめていた緊張が知人の存在で一気にたわんでしまったギーマは無防備に壁の影から姿を現し、ぼんやりと同僚の調理風景をを眺めているとポン、とトースターからパンが飛び上がって更に現実が近づいてきたものだから益々訳が解らなくなってきた。
声にならない声で背中に呼び掛けようと一歩踏み出すと私の存在に気付き起きたのか?と紛れもない同僚の声がキッチンに響き溶ける。何時もの険しい表情は浮かんでおらず欠伸を堪えているのか口許がむず痒そうに動いている。まぁ、早い時間ではあるなと先程の時計の盤面を思い出しながらつまり、どう言う事なのかをまた考えるが寝ぼけているし混乱もしているギーマの思考は日頃では有り得ない場所に不時着してしまった。

これは……あれか、新婚生活の初日と言うものだろうな。そうだ、だってレンブの家?で朝を迎えてレンブは朝食の支度してるなんて結婚でもしなければ有り得ないし
「シャワーを浴びてこい、変な臭いだ」
なんて素っ気ないが言ってる事は大体ドラマと一緒だパターンなんだろう、何時の間に私はOKのもらえたプロポーズをしただろうか式は上げたのか初夜なんてものは迎えていたのかどれかだけでも思い出したいものだが妄想の範疇を出ない。まだ夢でも見てるのだろうかそれとも今までの人生が夢でこれが現実かもしれない。互い指輪をはめていないのが些か気になるが疑問は早く解消しておくに限ると、ギーマはレンブに願望をやや多めに込めて問いかけた。
「おれ、きみと結婚したっけ?」
「寝惚けてるのか?真夜中に押し掛けてきただろ?」
心配も一、二割こめて殴ってやろうか?と申し出たのを少し悩んでから断ると言われて本当に大丈夫か?と心配してしまう。それに対しギーマは妙な顔をして俺を見上げてきた。
おいおい、即座に目覚めの拳を断らなかったからってなんだよ大体君だって有り得ない事してるじゃないか、だからこっちだって混乱してるんだよ。言いがかりの様にギーマは口を開く。
「だって君、朝はプロテインっていってただろ?なのに普通の食事の用意してるからさ」
「お前が体に悪いからトレーニングを見直せと言ったんだろ、普通の食事の回数を増やした」
「……え?」
まさか、否レンブは意外と素直な所はあるし身内と判断した人間や年長者実力を認めた相手の言う事は一応聞くって解ってはいたけどまさか本当に聞き入れてくれてるとは思わなかった。彼からそのわかった、を引き出すまでがとても長くかかる、何度も何度も重ねて重ねて漸く彼を頷かせる事が出来るつまり頑固者なのだ。そんなに数を重ねた言葉を最近口にしただろうか?ポケモンバトルと唇と抱擁と後夜のお楽しみ以外に繰り返した行いをギーマが頭の中で数えているとは露知らず
「お前だって何かしらは食べるだろ?」
とかなんとか言ってくるレンブをまじまじと見つめながら意識がしっかりとした覚醒に向かっているギーマはここ最近の出来事を数えるのを止め内心深い溜め息を吐きたくなった、嗚呼何故俺はこの人と結婚してないんだ。
結婚、と言う選択肢を先程から取り続けている自分に驚きもするが自分が胸の奥に秘めていた欲しくて仕方がないものの正体にも薄々勘づいてはいた、そんな絵に描かれた様なものが欲しいだなんてあまりにも古典的で恥ずかしいし寧ろ滑稽だ、このギーマがそんな夢物語や絵本やテレビで見た情景に世界に憧れがあるなんてーー滑稽を通り越して情けなくて認めたくなかった。
「本当に大丈夫か?熱計るか?あ、家には体温計ないな」
未だキッチンから離れた場所でなんとも言えない表情をしているギーマの元にレンブは数歩程の短い距離を進み青白い肌に覆われた綺麗な形の額にそっと掌を押し当てる。熱は、無いみたいだなの声の前に聞こえてきていたスリッパの音にあ、そうだ彼の家は土足禁止なんだったと今更知覚し緩慢な動きで、ギーマはレンブの暖かな手から逃れ靴を脱ぎながら君がおれのゆー事聞いてくれると思わなかったよと言葉を返せば俺だって人の意見くらい取り入れると真面目くさった顔で胸を張るもんだからどの口で言うんだよと自分を棚に上げ宗旨代えでもしたの?なんて茶化してしまう。ムッとするだろうなほらムッとした、ギーマの脳内の言葉の通りレンブはムッとしながら以前ギーマが口にした些細な言葉を諳じる。
「お前が言った、筋トレしすぎると逆に死ぬ可能性があると」
「君だって私に煙草やめろって言うだろ?」
「あれはどう考えても体に悪いし苦いからやめろ」
あれ、君吸ってたっけ?なんて思ったけどすぐに野暮だと気付いた、ちゃんと頭が働くようになって良かった折角の朝から喧嘩はごめんだ。
「止めたら結婚してくれるかい?」
「は?」
「止めたら苦くなくなるよ?」
「っお前と言う奴は!」
「俺は本気だよ」
心配してくれて有り難う、シャワー借りるね。眉間にシワを寄せるレンブの頬にギーマは顔を素早く近付け挨拶程度に触れまるで素通りでしたよと言わんばかりのスムーズさで何度か借りた事のあるバスルームを目指す。背後から何やら怒鳴り声が聞こえるけれどそれには答えずぺたりぺたりと足の裏に触れる清潔な床の感触を風に乗る朝の香りを今更の様に楽しみながら、ギーマは恋人への何度目かのプロポーズの言葉を考える事に頭を回し始める。夢なんてくそ食らえだがこんな未来なら目指してもいいかもしれないなと考えた珍しくいい朝だった。




16/12/4