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残る一滴






浜風は潮の臭いを運び、肌に馴染んだ着流しをすり抜け、昔より薄い材質のストールを靡かせる。風の噂に聞いていたが随分と真っ直ぐな眼差しを向けられたものだったな、彼は良いトレーナーになるだろう。己の勘は最大限信じる事にしているギーマがこれ以上日が高くならない内に塒に戻ろうと踵を上げかけた時、背後に砂を踏む足音が迫る。またか、今日は客が多い日だな。
「やれやれ、今日はなんだい?二人も私に用があるだなんて……!」
迂闊だった、ここに来て随分と別の方に気が緩んでいたようだ。それとも足音で気がつかない程に年月が経っていたと言うのだろうか?どれ程を此処で過ごしているかなんてもう解らない、数えていない興味なんか無かっただからこそ迂闊だったのだ。振り返った先にいる人物が旧知の人だと知り内心とても驚いているのが思わず態度にも現れてしまっている程に驚いているのだこのギーマが、目の前の人物に軽口の一言も叩けず唯、口を開いたり閉じたりを暫く繰り返していたのだ。
「……」
「……やあ、久し振りだねレンブ」
よく解ったね、どうしたの?何か用かい?呼び出しならごめんだよ
口から出そうな言葉はいくらでもあったのに、記憶にある彼から放たれたとは思えないくらい弱々しく掠れた声音が先に耳に触れその所為で何も言えなくなった。

やっと

「やっと見つけたぞ、ギーマ」

その言葉の重さが胸にずしりと入り込み、動けなくなると同時に覚悟しようと思った。殴られるのも罵られるのも疑問をぶつけられるのも胸ぐらを掴まれ脅しつけられるのも彼の怒りも全て、何もかも甘んじて受け入れようとしたのに……何のアクションも起こらない、唯唯波の音と異様な光景を目の当たりにし足早に去る釣り人やトレーナーの砂を蹴る音だけが響く浜辺に俯く彼と彼の挙動を見守る私だけが取り残される。アローラの陽射しは強く熱を帯び照してくる筈なのに二人の間だけ仄暗く薄寒い気すらしてくる程の沈黙が流れ続けた。
どれくらい経っただろうか、ふいにレンブの肩から鞄の持ち手がずり落ち鈍い音を立てて鞄が砂浜に埋もれた些細な動作を目で追っていた僅かな間にとんでもない変化が起こっていた事に、今度こそギーマは驚きを隠せず声を上げてしまった。
「……え?」
視線を戻した先、俯いていた筈のレンブは顔を上げていて目尻からはらはらと、頬をころりころりと、まるで真珠の様に転がり落ちる滴が顔を濡らしていた。
「な、なんで泣くの君、ねえ?!」
「泣いて等……?」
自覚していなかったのか驚きながら乱暴に手の甲で目尻を擦り止めようとしているが止めどなく溢れるそれにレンブは戸惑いつつも脈絡なく私へほろり、と言葉を漏らした。
「お前が……全然 違う」
全然違う?ああ髪の事かなそれとも不摂生の祟ったこの顔の事かな、確かに髪は伸びたしあの頃に比べたら随分と白いし体調は優れていないが生きるのにそこまで支障はない、だからそんなに驚く事じゃないよと口にする前に、そんなになってるとおもわなかったと呟くや否やレンブは一気に顔をくしゃくしゃにして泣き始めてしまった。
嗚呼、嗚呼!ちょっと待ってレンブ駄目だってば!
数々の女を男を何度泣かせたか最早覚えていないがそれでも彼のは駄目だ、彼に泣かれると心臓に悪くて堪らない。私の胸が潰れてしまいそうだ、未だに自分がこうなるなんて知らなかった……敗者には何も残らない、何もかも放り出してそれこそ捨てる勢いであの場所を国を出てきたのにこの現実は一体全体どう言う事なんだ?
「ああもう、泣かないでよねえ」
兎に角泣かせ続けたら本当に自分の方が倒れてしまいそうだからと言い聞かせ、目の前の両手で顔を覆い俯く自分より図体のでかい男を抱き締めよしよしとあやすように背中を軽く叩き優しく呼びかける。記憶よりも背中に回した腕の手の間隔が近い気がして君痩せたかい?なんて軽く聞こえる風に問えどお前程じゃないと返ってくる声はずっと元気がなく涙声でくぐもり途切れ途切れだ、記憶にある彼の声にはこんな声何処にもないのに……調子が狂う、狂いっぱなしだ。
「相変わらず泣き虫なんだから君って奴は」
己の不調の責任を押し付けんばかりの言葉に泣きながらレンブは反論してくる、説得力の欠片もない辿々しい言葉だが一つ一つがギーマの波音激しい心を突き刺し掻き回すのだ。
俺は泣き虫じゃない、おまえがいなくなるから さがしてたのにみつからなくて……あきらめたりひらきなお……ってもきに、なって やっとみつけた ら、おまえ そんな事になって しらなかった…………でも、ぎーま
「いきていてよかった」
「?!」
敗者には何も残らない、残っていないなら未練はない、自分一人消えても何の問題もない。だからそんなに気にする事ないじゃない?君の世界だって無事に回っていただろ?だから俺の為に泣く必要なんかないよ、心配しなくたってどうやったって生きていけるさ解るだろそうだろう?言葉は山程溢れ喉元に出かかるがそれ等の言葉はどれも口から飛び出す事はなく胸を圧迫していくばかり、苦しい胸の中から遂に飛び出した言葉は頭の中で錯綜したどの言葉よりも溢れんばかりにギーマの今の心境を物語った。
「そんなに心配してくれてたなんて、何も言えないじゃないか」
負けても、敗けても、手のひらの窪みに一滴の何かは残っていたらしい。そう考えながらギーマは男の背を力の限り抱き締める、まるでそこにあるのを確かめるかのように腕から触れた場所から伝わる熱を閉じ込めて離さないように。
泣かないでよ、大丈夫だよ、ちゃんといるよ
子供騙しな言葉を繰り返し彼に自分に言い聞かせてギーマはレンブが泣き止むのを待つ、寄せては返す細波が遠くに聞こえる程の小さな世界が手のひらに残っていた。





16/12/5