雨に溺れていたいのです







金曜日の夜

終電が終わる頃になると

いつもその人は一人で来て

カウンターの端に座る

そしていつの間にか

消えるようにいなくなっていた


それに気づいたのは

このバーに立ち寄るようになって

半年ほど経った頃


最寄り駅から自分のマンションまでの帰路にあるそのバーは


外観は重苦しい扉で閉じられていて

他を寄せ付けない雰囲気を醸しつつ

扉を開けて中へ一歩足を踏み入れると

妙に居心地の良い空間が広がっている

なんとも不思議なバーだった


気にはなっていたが、中々その扉を開けられないまま1年が過ぎたある日


会社の飲み会の帰り、珍しく酔っ払って気分が良くなっていた私は、気が大きくなったままの勢いで重い扉を開けていた。

初めて入ったそのバーは、バーテンの接客といい、出される酒の味といい、極めつけは店内の雰囲気に居心地の良さを感じ、週末には必ず行くようになり……今では平日でも立ち寄るようになるほどだった。


そして彼女に出逢った


艶やかな漆黒の長い髪

闇に浮かび上がる白い肌

グラスに伸ばすしなやかな指

静かな時間を堪能するような横顔


まるで月の女神が人間に成りすまし

お忍びでこの世に降りて来たような……

そんな錯覚をしてしまうほど

美しい女性だった


彼女はいつも一人だったが、寂しそうなわけでもなく、逆に一人の時間を楽しんでいるように見えた。

飲み物をオーダーする時だけ、彼女はバーテンと言葉を一言、二言交わすだけだった。

何度か隣に座った男が彼女に声をかけるのを見かけたが、妖艶に微笑んでいるだけで、答える様子はなかった。

大抵の男はすぐに諦めて彼女に話し掛けるのをやめていたが、稀にしつこく話し続ける男には、二言、三言返し、バツが悪そうな顔をして男は飲み物を一気に飲み干し席を立って店を出ていった。

そんな彼女をカウンターから盗み見している私は、気軽に声をかける男達と一緒の扱いをされたくないと思いつつも、いつか彼女と言葉を交わしたい……できれば……と心の奥底で思っていた。


そして今夜は彼女の来る金曜の夜


私はいつものようにカウンターへ座り、いつものようにWild Turkeyの12年をロックでオーダーする。

彼女の来る1時になるまで、軽いつまみをつつきながら、ゆっくりとグラスに口をつけていた。

終電の時間になり、それまで静かだったバーが少しざわつき始める。

バーテンも涼しい顔をしながら、客の会計と空いたテーブルを丁寧に片付ける。

そんな様子を見ている間に、ふと気づくと彼女はいつものように空いてるカウンターの端の席に座って酒をオーダーしていた。

私の心臓が大きな音をたてる。

それでも何気なしに空いたグラスに気づいたバーテンに同じものをオーダーした。

彼女が来てからの時間は、何があるわけでもないのに、私は嬉しくなってしまう。

今まで、女性と付き合ったことがないわけではないが、自分が思う女性ではないと気づいてしまうと、自然に心は冷えていき、一人の時間を有意義に使いたいと思い始め……いつも別れていた。

三十路を過ぎてもまだ独り身なのは、そういった理由もあり、いつか自分に合う女性と巡り会えることを心のどこかで期待しているのだろうが、そんなに簡単に出逢うわけもなく、今に至る。

そんな私は今、彼女に惹かれている。

だから私は、毎週金曜日の夜になると、彼女に会う為にここに来ていると言っても過言ではなかった。

何か会話を交わすわけでもなく、ただ彼女と同じ空間にいられるだけで、私は充分だった。

いつものように彼女は、綺麗なカクテルを何杯か飲むと、席を立って帰ろうとしていた。

私のグラスもちょうど空いて、私も会計を済ませるが、私が席を立った時には既に彼女は店を出ていった後だった。


「いつもありがとうございます。先ほどお見送りをした際、雨が降り始めていましたので、もし傘をお持ちでなければ、店にある傘をお使いください」

「そうですか。それでは御言葉に甘えてお借りします」


こういった気配りに、ほんのりと心が暖かくなる。

バーテンから借りた黒い傘を手にして店を出た。

店に入る前に感じた嫌な湿気が一気に集まり、地上に降り注いぐ激しい雨に一瞬怯みながら、バサッと音をたてて傘を開く。

駅とは反対方向にある自分のマンションに向かって歩き出す。

そして…………車道の真ん中に、傘も挿さずに立つ人影を見つける。
よく見るとそれは私よりも先に店を出た彼女だった。

いくら車通りのない道とは言え、車道の真ん中にいるのは……と思い、つい声をかけてしまった。


「あの……危ないですよ?」


私の声に気づいた彼女は、私の方に顔を向け……小さく微笑む。


「それに……雨に濡れると風邪をひいてしまいます」


彼女は私に視線を向けながら、楽しそうに笑った。

その笑みは……雨が止んでしまったら消えてしまうような……楽しそうなのに儚い……そんな感じがして……

私は車道の左右を確認し、彼女の元へと走った。

傘の中に彼女を入れる。


「傘がないのでしたら、お送りしますよ?」


そう言う私の顔を見て、再び彼女は笑う。

そして静かに口を開いた。


「雨に溺れていたいのです」


この時の彼女は、今まで見た彼女の中で最も美しく、意図も簡単に私の理性を一瞬で壊したのだった。

気づいた時には傘を放り出し、私は彼女を抱きしめていた。


激しく降り続く雨

衣服に染み込む

徐々に奪われる体温

反抗するように

私と彼女の間にだけ

交わされる熱は

静かに躰を犯し始め

意識を壊していく


彼女は雨に溺れる

私は彼女に溺れる


そんな予感に

私の心は身震いをする

激しい雨の中

彼女を強く抱き締めた

腰に回される彼女の腕は

私を優しく捕らえていた


雨の中溺れていく

彼女に溺れていく


激しい雨の降る夜の

偶然の悪戯と奇跡に

私は感謝をしていた

彼女との触れ合いに

私は酔いしれていた


そんな運命的な夜を境に

私の世界は変わり始めていった





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