▼ overflow
真夏に比べ随分と柔らかくなった陽が、閉じられた瞼を撫でるように注がれる。
その柔らかさから逃れるように身をよじると、微睡みのなか階下から聞き慣れた声が聞こえた。
「琥一くん、おはよう。琉夏くん、起きてる?」
「おう。ルカのヤロー、昨日遅くまで起きてたみてえだから、まだじゃねえか?起こしてくっか?」
「んー、いいや、大丈夫。待ち合わせまでまだ時間あるし。時間までここで待たせてもらってもいいかな?」
その問いに対する琥一の返答は聞こえなかったが、琥一はいつものように飲み物を準備し、美奈子はいつものように窓際の席に座っているのだろう。
−−−いい加減、起きないと。
頭の中ではそう思いながらも、身体がいうことをきかない。
起きて、準備して、一刻も早く美奈子の笑顔が見たいのに。
最近、いつもこうだ。
すぐにでも会いたいのに、ずっと一緒にいたいのに、気持ちとは裏腹な行動をとってしまう。
一緒にいると楽しくて笑いが絶えなくて、この瞬間がずっと続けばいいのにと思う。
その反面、胸が苦しくて何でもないのに涙があふれそうになって、このまま全てが終わってしまえばいいのにと願ってしまう。
誰に対しても抱いたことのないこの気持ちをどう扱えばいいのか。
答えが見つからないまま今に至る。
「おい、バカルカ。てめえ、いい加減起きろや」
いつの間にか部屋に入ってきていた琥一にシーツを剥がされる。
てめえで起きれねえとかガキかよ、とぶつぶつ小言をいう琥一を傍目にいつものように軽口を叩くこともなく、ふらりと起き上がる。
「ルカ、具合悪ぃのか?」
「……悪くなかったけど、朝一で見ちゃったコウのしかめっ面で悪くなったかも?」
「ふざけんな」
軽い蹴りを入れられ必要以上に痛がると、ダメ押しの蹴りを入れられた。
理不尽だ。
「バカやってねえで、さっさとあいつんとこ行ってやれ」
ごつごつした親指で階下を指す琥一に、わかってるよと軽く頷き準備を終え、美奈子の元へと向かう。
「美奈子、おはよう。待たせてごめんね」
ううん、と首を振った美奈子は笑顔でおはよう、と返した。
その笑顔は、自然と同じ笑顔を返したくなるような、身体中の血が一気に駆け巡って一瞬息が詰まるような、幸せと苦しさが一気に襲ってくるものだった。
だけど不思議と辛くはない。むしろ、心地が良い。
苦しさから滲むものは、とても温かく幸せで、ずっとずっとこの瞬間を覚えておきたいと思わせるものだった。
−−−ああ、なんだ。そういうことだったのか。
自分でもわからなかったあの裏腹な行動の意味が、今はっきりとわかった。
こんなに単純でわかりやすくて、当たり前のものだったのに。
「琉夏くん?」
おはようを交わしたあと、動かない俺を心配そうに見上げる美奈子の手を取り笑顔を向ける。
「……待たせてごめん。もう大丈夫だから。行こう?」
繋いだその手から伝わるのは、美奈子の手の温もりと琥一が淹れたホットココアの温かさ。
その温もりに応えるようにぎゅっと強く握りしめ、刻み込むような足取りでドアの外へと向かう。
それはまるで、もう迷うことなどない、というような揺るぎない足取りだった。
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