2人きりのワンダーランド




空と闇との境界線が曖昧になったかとおもうのと、それらが溶け合って深い紺色に変わるのにそう長い時間は要さない。
長々と尾ひれを引いていた夏はようやく終わりに近づき入れ替わるかのように訪れた秋の夕暮れのことだ。
わたしは部屋の大窓から体を乗り出して溶け合う境界線を視線でなぞる。

「ナマエ、何か面白いものでもあったか?」

「いいえ、何も。もうこんな空も見飽きてしまいました」


首をすくめて背後に立つ煌帝国の第一皇子でおられるこのお方、練紅炎様へと向き直った。

唯一、わたしの部屋に出入りすることができる紅炎さまは、わたしの髪の毛をそっと掬って何の感情も浮かべない、いつものぼんやりとした表情でそっけなく「そうか」とだけ返事を返す。

この部屋の扉にかけられた頑丈な鍵は紅炎さましか開けられない。
幽閉。それがわたしの生活を表すのに最も近い言葉だ。


「ねえ紅炎さま。あなたはとてもズルいお方ね」

いつもの調子でその言葉を口にする。
ゆうるりと暗さをました部屋の中、無言でカンテラに火を灯す紅炎さまはまたかと言った風にわたしに顔を向けた。
ジュワリと嫌な音がして、焼け焦げる匂いが部屋に充満する。


「あなたは本当にズルいわぁ。わたしを正室にも、ましてや側室にもしてくださらないもの。いい加減、この狭い部屋には飽きたのです」


窓から入る風が頬を撫で上げる。紅炎さまの瞳には彼の睫毛が落とす暗い影ができており表情の真意を見ることはできない。


「ナマエはここからでたいのか」

「ええ、もちろん」

「ここからでたら、どうしたいんだ」

「ここからでて、紅炎さまと、ずっと一緒に。あなたが例えわたしをいらないと仰っても片時も離れませんわ」


深く言葉は胸に染みる。わたしの願いはたったそれだけ。紅炎さまが一方的にしか会いにきてくれないこんな部屋に閉じ込められているのは苦しくて苦しくて仕方ないのだ。
分不相応だとは承知しているのだけれど、それでもやっぱり紅炎さまの近くにいたいのだ。誰よりも、何よりも。


「ナマエはどうしてそこまで俺に入れ込む」

「それは紅炎さまがわたしの世界の全てだからですよ」


どうして今まで、わたしたちはこんなにも窮屈な生活をしていたのだろうか。
もしも、わたしがただの農民で、紅炎さまがただの農民だったなら、こんなにも胸を締める思いなんてしなくてよかっただろう。
そう考えると、尚更だ。
尚更世界が憎くて仕方がない。

その世界の中に紅炎さまも含まれているとは、口が裂けても言えないのだけれど。


「……俺も、できるならナマエとずっと一緒にいたいんだがなあ…」


それは奇遇ですね、なんて言えれば幸せなのに。わたしは彼の本心がほんの少しでも顔を出してしまうと怖くて一歩が踏み出せないのだ。
現状に満足していないと言いながら、しかしその反面では今の生活がなくなってしまうことを極端に恐れている。それが、わたしという存在だ。


「ナマエ、もしも生まれてくる場所が違ったなら」

紅炎さまの声は驚くほどに静かだ。
噛み合った2人分の視線は、絡み合って当分ほどけそうにない。


「もっと純粋に、お前を愛せていたのにな」



生まれる場所が違ったなら。そんなことが可能なら、たった2人っきりの世界に生まれてみたかった。邪魔するものなんてなにも無い、2人だけの世界。


「ふふ、わたしは今だって紅炎さまのこと、愛してますわ」



死に遅れのセミの羽音と鈴虫の軽い音が混ざり合って、星がこぼれ落ちる夜空に声を響かせた。

(アークトゥルス様に提出させていただきました)