やさしい温もりを、知っているから。
その手を振り払うことなんて、私にはできるはずもないんだ。





「・・・逃げない・・・、のか・・・」

端正な顔立ちの男が眼下に横たわる女性に、無感情に声をかけた。無機質な言葉は彼の冷淡で残忍な性格を表しているように感じられる。けれども、女性は現在進行形で男に押し倒されているというのに、怯えた様子をみせることもなければ、泣き叫ぶことも手足をじたばたさせ、抵抗することさえもしない。ただ男性に押し倒されたまま、じっと男性の瞳を見つめ続けていた。一瞬たりとも揺らぐことのない、男がよく知る女性だけの強さがあらわれたその黒曜石の瞳に、男が遠い昔、忘れようと心に決めた記憶が呼び起こされそうになり男は小さく舌打ちをする。言いようのない不快感が男の心を支配していた。

「ごうえんじくん」

まさに鈴のなるような声音で女性は男の名を呼んだ。呼ばれたその名に男は顔をゆがめる。

「・・・その名で俺を呼ぶなと何度言えばわかる。俺は、」
「“イシドシュウジ”?」
「・・・わかっているのなら、そう呼べ」

淡々とした事務的な声音。けれどその中にほんの一瞬だとしても苦悩や苦痛、絶望、そして諦観にも似た色が混じっていたことに女性は気がついていた。・・・否、女性だから気がつけたのかもしれない。長く男・・・、“豪炎寺修也”という人間の傍にいた女性だからこそ。再び、女性の唇が彼のその名を形どる。

「しゅうやくん」

彼女とともにいた時間の長さからか。長年培ってきた、“イシドシュウジ”としての顔が崩れ、何年か前に自ら心の奥底に封印した“豪炎寺修也”が表に出てくる。最早、反射的に彼女の名を舌にのせたところで、理性が引き戻した“イシドシュウジ”が舌に乗せた彼女の名を外に出すことを止めさせた。

女性はそんな彼の様子に安心したかのようにほのかに微笑む。不自然に開かれ閉じられた唇が、確かに己の名を形どっていたことが女性は嬉しかった。例え、その名が言葉として出てはこずとも、昔のように彼の形のよい唇が自身の名を紡ごうとしてくれたことが、女性は何よりも嬉しかったのだ。『木野秋』という、己をあらわす、彼が綺麗だといってくれたその名を。

木野はゆっくりとした動作で片手を持ち上げ、豪炎寺の頬を包み込むように撫でていく。愛おしくてたまらないというかのように、愛情が溢れるようなその仕種に豪炎寺はさらにその端整な顔を嫌悪に歪ませていく。

「やっぱり、修也君は修也君ね。なにも、かわらない」
「・・・何が言いたい」
「不器用だけど、とってもやさしい。私が好きな修也君のままってこと」

にっこりと美しく微笑んだ木野に豪炎寺は降り積もっていた不快感を爆発させたかのように、舌打ちを一つすると木野の両腕を彼女の頭の上に持ち上げ、その白く細い手首を片手で押さえつけた。そしてそのまま唇を彼女の首筋に持っていき、噛み付くようにキスを落とす。触れた箇所を吸い上げ、赤い花を肌触りのよい白い肌に咲かせる。
声にならない短い悲鳴が木野からあがった。初めて耳に届いた悲鳴といってもよい音に豪炎寺はほっとしたように息をつき、彼女の体に滑らせていた唇を離し彼女と視線を合わせる。今度こそ怯えたような彼女の表情が見られるのだろうと思っていた豪炎寺は緩やかに微笑む木野を見て小さく息を呑んだ。どうしてこの状況でそんなにも穏やかに、慈愛に満ちた顔で微笑むことができるのか、彼にはわからなかった。

「何故、・・何故そんな顔ができる?」

苦渋に満ちた、声だった。

「・・・じゃあ、逆に聞くわ。修也君は何をそんなに恐れているの?」

淡々とした言葉の中にも、木綿でやさしく包み込むようなあたたかな温もりの隠された声音。長く避け続けてきた其の声音に、豪炎寺は懐古を感じる前に畏敬にも似た畏怖を感じていた。ずっとずっと昔、目の前に横たわる彼女に出会ったその頃から何も変わらない強さという名の光を秘めた其の瞳は彼にとって長く憧れ続けると同時に恐れ続けてきたものだった。彼が必死の思いで隠しているものまで彼女の其の黒曜石の瞳は、容易く見透かしてしまいそうで彼には怖くて仕方がなかった。
其の恐怖心をないものとするかのように再び彼は彼女の白い肌に喰らいつく。聖母のように微笑む彼女を壊してしまえといわんばかりに。荒々しく其の肌に喰らいついた。
木野は短い悲鳴を上げるもやはり、先程と同じ様に抵抗はしない。ただ彼の行動を黙って受け入れているだけだ。

「怖く、ないのか・・・」
「どうして?」

喉の奥から思わずといったように零れ落ちた小さく痛々しい言葉に、木野はキョトンと不思議そうな顔をした。彼が怖くないのかと聞く理由が彼女には、わからなかった。
泣き出しそうなまでに酷く歪められた豪炎寺の顔を見て木野は小さく息を飲む。そして困ったように微笑むと、ゆったりとした動作で彼の端正な其の顔をやさしく温かく、いつの間にか彼の手から離れていた両の手で包み込んだ。そのまま片手を頭の上へと滑らせ、其の銀色の髪を梳くようにして彼の頭をゆっくりと撫でていく。そうして本当に穏やかに彼女は呟いた。恐怖など、微塵も感じさせない。そんな、声音で。

「怖いなんて、思わないよ。だって、私のよく知る修也君だもの」
「・・・」
「いつだって一生懸命で、不器用だけどやさしくて、鬼道君と一緒で妹思いで、意外に面倒見もよくて。ちょっと愛想がないこともあるけど仲間と認めた人にはどこまでも優しくて。有言実行派で何があっても決して諦めない、一度仲間と認めた人を、裏切ったりしない。―――――――――・・・・・どこまでも、どこまでも、やさしくて、あたたかい、私の大好きな、ひと」
「・・・・・」
「だから、怖いなんて、ありえないよ」

にっこりと其れは、其れは美しく、艶やかに、聖母にも女神にも見える、そんな一転の曇りもない笑顔で緩やかに木野は微笑んだ。
満面の笑みと称してよいだろう彼女の笑顔に豪炎寺は不機嫌をあらわに大きく舌打ちをする。そうして空いていた手を強引に彼女の服の中へと進入させた。それでも彼女は抵抗一つしない。ただ、彼のすべてを受け入れるとでも言うかのように其の瞳を閉じた。
彼が、ポツリと呟いた。

「お前が・・・、お前が愛した“豪炎寺修也”はもういない」

絶望に満ち溢れた、そんな声色だった。

「いいえ、そんなことない」

彼の言葉を木野はキッパリと否定する。そうして瞼を開き、其の黒曜石の瞳の奥に力強い輝きをたたえながら続けた。

「だって、私が愛した“豪炎寺修也”と言う人間は、」
「・・・」
「今此処に、・・・・・・・私の目の前にいるもの」

疑うことを知らないかのような真っ白な笑顔で、彼が彼女の愛した“豪炎寺修也”であると信じて疑わない彼女に豪炎寺は何故だかとても泣きたくなる。同時に純粋無垢な彼女を自身の色で塗りつぶし、ぐちゃぐちゃに壊してしまいたい衝動に駆られた。身体を襲う衝動のままに組み敷いた彼女に、獰猛な肉食獣の如く牙をむける。
時折零れる彼女の甘い啼き声を耳にしながら、豪炎寺はポツリと、けれどはっきりと覚悟に満ちた声音で、呟いた。

「・・・壊してやる。其の綺麗な微笑みも、真っ白なまでの心も身体も、すべて。そして証明しよう。もうどこにもお前、・・・木野が、秋が識る“豪炎寺修也”がいないことを。そうして後悔すれば良い。一人きりで俺のもとにやってきたことを」
「後悔なんてしないわ」
「何故」
「だって・・・、」

そこで言葉を切り、木野は其の唇を彼の白い頬へと持っていく。ちゅっと小さな可愛らしい音をたてて、彼の頬にキスを一つ落とした。
呆気に取られたかのように呆けている豪炎寺を見て、木野は飛び切りの悪戯が成功した子供のように無邪気に微笑む。

「豪炎寺君は、私が本当に嫌がることは決して、しないでしょう?」

今度こそ、豪炎寺は言葉を失った。此処まで己という最低の人間に、誰に聞いても皆口をそろえて最悪だと言い切れるであろう程、ひどいことをされておいて何故其処まで自身を信じれるのか、豪炎寺にはわからなかった。

否。

わかっていながら、わからないフリをしていた。彼女が己を信じられるのは、今もまだ、ただ一途に、もういない“豪炎寺修也”という人間を信じ、愛しているからなのだということに。ただ彼は、気付かないフリをしていた。
気付いてはいけなかったのだ。だって、気付いてしまえば彼が自身の手で “豪炎寺修也”という人間を抹消した意味がなくなってしまうのだから。
今の自分、“イシドシュウジ”という人間に眠る理性を総動員して、眼下に横たわる彼女を喰らうために、清らかな其の体に手にかける。

「其の虚勢が、」
「え?」
「其の虚勢が一体いつまで保つか、見物・・・、だな」
「ふふふ」

木野は笑った。其れは其れは楽しそうに。子供に還ったかのように、無邪気に笑った。だって、彼はきっと気づいていないのだ。普段、余裕たっぷりの彼が、余裕のないときだけにみせるクセが今現在、私の前ででていることに。彼は、彼だけが、気付いていないのだ。
きっと其れはつまり、今意地を、虚勢を張っているのは私ではなく、私を押し倒している彼だというアカシ。本当は、“イシドシュウジ”ではなく、私が愛した“豪炎寺修也”でありたいと、いうこと。

木野はただ、ただ、嬉しくて仕方ないというように笑った。先程からみせるそのクセが、彼女に“豪炎寺修也”はやはり消えてなどいないのだということを伝えていた。
木野にとって、何故彼が“豪炎寺修也”ではなく“イシドシュウジ”という名前を名乗り、仲間であった円堂や鬼道たちに剣を向けているのかなど対して重要なことではない。重要なのは、彼が彼のまま変わっていないのだということ。それさえわかれば、木野にとっては十分なことだった。其れさえわかれば、木野は優しくて不器用な彼を無条件に信じることができる。だって、彼は誰かを守るときでなければ、大切な何かを護るときでなければ、例え冗談でも絶対に仲間を裏切ったりはしないのだから。木野は其れをよく知っている。知りすぎているといっても可笑しくはないほどに、よく識っている。だから、だからこそ信じられる。他でもない彼のことなら。

きっと今も。

今こうして、私を傷つけることに自分自身傷つきながら、それでも私に牙をむけることを止めないのは、彼が私を護ろうとしているからだ。彼という人間を嫌うように仕向けることで、彼の周りにある危険から遠ざけようとしているのだ。
其れならば。
私は、私を傷つけようとする彼を、受け入れよう。あくまで別人だと言い切る彼を、受け入れよう。人を傷つけながら、人を傷つけていることに傷つく彼を受け入れよう。不器用な護り方しか出来ないやさしい彼を受け入れて、・・・あいしてあげよう。

其れは、豪炎寺修也というただ一人の男を長く想い続けてきた木野秋の、覚悟そのものといっても過言ではなかった。

木野は降り注ぐ彼からの不器用な愛を受け入れるため、其の瞳を閉じる。優しい彼が、今私という人間を抱くことで、どうか傷つかないでいてくれたら良いと願わずにはいられなかった。




どうか、信じて。
私はずっと、貴方の味方なんだよ。









『いつまで保つか見ものだな』

(あなたがやさしいこと)
(わたしはしってるよ)
(だから だいじょうぶだよ)





***

本当はいつだってこの温もりに包まれていたいと望んでいた。
(だけど君を裏切った俺にそんな資格はもうないんだ)



▼神夜空兎さん

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