※色々捏造注意 土門には密かな楽しみがあった。 ほんの小さな事なのだが、子供の頃より恵まれた体躯は成長期をも順調に過ぎ、二十歳を過ぎてもそれは変わらず、人より僅かに高い視点を持つ事ができた。 待ち合わせをしても大抵相手より早くこちらが見つける事ができた。しかし土門はあえて知らないふりをする。そうして声を掛けられるのを待つ。 自分を見つけた時、声を掛けたその瞬間の相手の表情を見るのが好きだった。 嬉しそうに自分の名前を呼ぶ。笑いながら手を振る。反応は様々だが、自分と会う事を待っていたというその感情が表れた瞬間の顔が好きだったのだ。 もちろん今日、小さいスーツケースひとつを脇に置き、客や見送りの人たちの行き交うロビーで椅子にも座らず壁にもたれているのも、人混みを避けたというのもあるが、そうした理由からだった。 待ち合わせた相手は、きっと他の誰よりも早く見つけられるだろう。斜めに分けた前髪を留めたヘアピンの色が何色かなんて事まではわかりはしないが、いつもの様に真ん丸な目を更に大きくして、それから笑って自分の名前を呼ぶだろう。 そんな事を思いつつちらりと時間を気にし携帯に目を落とした一瞬、目当ての彼女は目の前にいた。 「土門くん、久しぶり」 「えっ、アキ?」 「やだ、しばらく会わなかったらもう忘れちゃった?」 くすくすと笑う彼女にまるで気がつかなかった。彼女が笑えば光を反射してキラリと光るヘアピンはもうすでにいつもの場所にはなく、軽く跳ねていた後ろ髪も僅かに短くなっていた。 見慣れていた中学の制服もとうに卒業し、写真だけで見た高校の制服でもない。時折アメリカへ来ていた際に見せた活動的な服装でもない。ふわりと揺れた長いスカートにドキリとする。 正直に言ってしまうと、自分の知らない彼女がそこにはいたのだ。 「あー、いや、はは」 気恥ずかしさで苦笑すれば、秋は不安げに土門の足元を見遣った。 「足、大丈夫なの?肉離れって聞いたけど」 「あ〜、まあそんなひどくないし、でも代表選考の時期にやっちゃったのはしょうがないっつうか?」 「日本に来てる余裕あるくらいだから大丈夫って事かな?」 「まあね。あっちだとあれこれうるさいから逃げてきたってのもあるけどさ。リハビリに休養に、アキの顔拝んで美味いもん食ってくわ。って事でしばらくよろしく」 「はいはい。荷物持つよ?」 くすくすと笑った秋は、土門が手を出すよりも先にスーツケースを手に取り、彼のあまり調子のよくない足を気遣いながら歩き出した。 タクシーでやってきた彼女が管理人を務めてる事になったというアパートをひと目見た時は、申し訳ないくらいに素直に思う事が顔に出てしまっていたようで、苦笑しながら秋はドアを開いた。 若い女性が住まうイメージとはほど遠い、よく言えば風格のある、悪く言えばおんぼろなそこ。促されるままに中へ入れば、古めかしいながらも綺麗に磨かれ、飾られた花などを目にしてやはり彼女らしいと感じ、懐かしい部室を思い出した。 使用されていなかった時代や、やる気が無気力へと変化していった時代は知らないが、活力を持て余した中学生男子たちの使う部室にしては整頓されていたあの古い建物。言うまでもなく彼女の陰ながらの努力の賜物だったのだろう。 お茶を淹れてくるまで待ってて、と通された、玄関脇の管理人室で、土門は小さく感激した。 「おー、こたつ」 アメリカからブラジルと温暖な地域で過ごしていた土門が日本に到着してすぐに感じたのは、ひやりとした空気だった。 まだ冬にも差し掛かっていないというのに、秋はどこへ行ったやら、肌の上を滑る冷たい空気にひとつ身震いした彼は、手に持っていたジャケットにすぐに袖を通したのだった。 外国では触れる事のなかったその物体に、部屋の主の許可も得ず勝手に足を入れ、スイッチを入れる。やんわりと小さな熱がもたらす温もりに頬を緩ませる。 あー、日本いいなー。 心の中で呟いて、それから部屋を見回した。 淡い色彩の壁紙。無垢材のタンス。小さなぬいぐるみに、料理の本。そして写真立て。複数の写真を入れて飾るそれに入っていたのは、土門の知っている時代のものも、そして知らない時代のものもある。 本当ならば手に取って見てみたい気もしたが、さっき点けてしまったこたつの暖かさが彼を放さなかった。 代わりに手に取ったこたつの上のみかんの皮をむき始めたところで、ドアを開いて秋が入ってきた。 「ごめんね、散らかしてて」 いやいや、と首を振る。これで散らかっているというなら、自分の部屋には一生彼女を入れる事はできないだろう。 トレーを置き、こたつ布団を捲った秋は、流れてきた熱に軽く驚き、それから深く体を潜り込ませた彼を見てふふっ、と笑った。 「日本、寒い?」 「寒いねぇ。こたつなんか久しぶりすぎて勝手にくつろいでてわりぃ」 「ううん。急に寒くなったから思い切って出しちゃったんだけど、土門くんが喜んでくれてよかった」 クッキーの乗った皿を目の前に差し出し、土門の前にはコーヒーを、自分の前には紅茶を置いて、何気なくふぅ、と一息つく。 道すがらあれこれと近況を話したけれど、本当はまだまだ聞きたい事もあったし、話したい事もあった。しかしとりあえず彼女の淹れたコーヒーを飲み、再び部屋を見渡した。 「何か、あれだな」 「うん?」 「いや、えーと……どれくらいぶりだっけ?」 「うーん……一年くらい、かな?結構試合とか見てるから私はあんまり久しぶりって感じはしないんだけど」 海外の試合なんか、わざわざ視聴できるようにしなければ日本では見られないだろうに、それをしてまで見てくれているのかと少々感激した。へへっ、と照れ笑いを浮かべつつ、傍にあったマガジンラックからサッカー雑誌を取り出す。どうやら少し前のそれには、小さな折り目がつけられ、海外で活躍する友人や知り合った仲間たちの記事が目に入った。 何だ、別にオレだけチェックしてくれてた訳じゃねえんだな。 「あっ、ほらこれ見て」 一転して軽く落胆した土門の方へ身を乗り出し、秋はとあるページを指差す。ふわりと淡く柔らかい匂いがして、どきりと心臓が音を立てた。 「ここ。土門くん写ってるでしょ?」 「え?あー、ほんとだ」 FW同士の競り合いの写真の片隅に写っていたのは確かに自分で、相手チームのもうひとりのFWにチェックをかけていたところだった。よくもまあこんな小さな自分に気がついたもんだと眺めていると、秋は微笑みながらそれを見つめて口を開いた。 「この試合、すごくよかった。引き分けだったけど、土門くんのディフェンス、完璧だったよね。右サイドからの攻撃なんかほとんどなかったもの」 自分ではあまりよく覚えていない。そうだったっけ?と小首を傾げれば、くるりと上を向いて秋は笑う。 「ちゃんと見てるよ。土門くんの出てる試合だから」 驚きつつ、まじまじと秋の顔を見る。淡い彩りの口紅。アキのまつげってこんな長かったっけ?自分の知っていた彼女のおでこにぴたりと張り付いていたピンはないけれど、その代わりに薄く、薄く色づく頬。 あ、ヤバイ。 跳ね上がる感情に身を竦めると、秋はすっ、と体を元の位置へ戻す。ふたりの間に漂っていた空気がすり抜けていくが、内側から湧き出る熱が下がらない。 「あの、さ」 「なぁに?」 アキは、何とも思っていないのだろうか?こんなにも近くで、オレを見ていて。 期待しても構わないのだろうか? こんな小さな写真や、わざわざ夜中にあるだろう番組までチェックして、自分を見てくれているという事に対して。 急ぎすぎては失敗するかもしれない。だけど、もしかしたら、なんて思ってもいいのだろうか? ぐるぐると思考を廻らせれば、喉の奥がカラカラになりそうな感覚に陥る。 何を言えばいい?何て言えばいい? 「なんつーか……その」 「……うん」 戸惑いながら頷く秋を見れば、何かを察しているのだろうという事くらい予想はつく。ぱちりと合った視線が、彼女がはっと息を呑んだ瞬間に逸らされた。 一抹の不安が過ぎったその後に、彼女の横顔を見てそれは掻き消された。先程よりも赤みを増した頬を見て、ごくりと喉を鳴らし息を吸い込んだ。 「見にこいよ」 「……え?」 あっ、やべ、違う。そうじゃねえよ。 瞬時に脳内で否定するも、出してしまった言葉は取り消せない。代わりに新たな言葉が次々と流れ出す。 「いやっ、ほら、アキにもオレの活躍してるとこ生で見てもらえればなんてさ、そしたら夜中試合見たりとかこんな本なんかで見るよりゃ全然面白いし、それに」 「……」 「それに……オレの、かっこいいとこ?も、見れるし?」 「……」 「あと、は……オレのモチベーションも、上がったりなんか、したり……?」 違う、違うと否定しつつも止まらない台詞に自ら苦笑いを浮かべれば、横を向いていた秋の視線はゆっくりと戻され、ふふっ、と口角が上がる。 「あー……えーと……」 「それから?」 「んっ?」 「それから、他には?」 予想だにしなかった問いかけにぽかんと口を開いたまま彼女を見つめれば、くすくすと声を殺したまま笑い、またさっきの様に近づいた。 勇気だ度胸だ、そんなもの、試合以外で本気で出した事はあまりない。だけど、もしかしたら、今はそれを使う時なのかもしれない。 ぐい、と片手を引き寄せて、左腕で抱き締めた。勢いをつけすぎて痛かったかもしれないがそれを思う余裕はなかった。 「寂しくない、とか、かな……?」 早まる鼓動はおそらく彼女の耳に届いているだろうけれど。 頭ひとつ分の差を今この時程有難いと思った事はない。日に焼けた自分のみっともなく赤く染まった顔を見られる事はないだろうから。 帰国まで一週間──自分の隣に彼女はいてくれるだろうか。 もしそこに一緒にいなくとも、何らかの約束をしてくれるだろうか。 次こそは、ぼかさずに、素直な気持ちをつたえなければなるまいよと嘆息すれば、彼女は理由を知ってか知らずか笑っていた。 腕の中にいたままで。 ▼たかはしまさみさん |