― 籠の中の鳥 ―
〜 恋煩い。〜










恋という名の感情に縛られた女。
遊女という名の人形に成り下がった馬鹿な女。

誰か、この恋の止め方を教えて下さい。










衝撃の告白から、約六日間。

あの日は、さすがに返事をする事が出来なかった。
承諾も出来なければ拒否も出来ずに。


自分は遊女。
客人との本気の色恋沙汰は許されない。
屋敷の囚われの身。
女である前に遊女だという事だ。


この六日間は葛藤の連続だった。


どこにいても、
何をしていても、
ずっと彼が頭から離れない。

初めての恋はあまりにも知恵と経験不足で。

彼と恋人同士になりたいのに、遊女が邪魔をする。
客人相手をしていれば、彼に恋した女が邪魔をする。



ふぅ、と一つ深呼吸をした。

彼が来るのにこんな暗い顔をしていてはいけない。
パシッと両頬を叩くチチは気合を入れた。


程なくして、開かれる部屋の襖。
袴を着こなした彼は、いつも通りの彼…ではなかった。



「 悟空さっ?! 」

「 よっ! 」

「 なしただ!その傷?! 」



頬骨の位置には刃物で割かれた痕。
唇は僅かに切れた様な血痕。
唇の端は殴られた様な打撲した青痣。

パタンッと襖を閉じた悟空は呑気にも笑って見せた。



「 これな〜、ちーっとばかし油断してたらやられちまって。」

「 ここに来る時だか? 」

「 そうだけど あんま気にすんなって!そんな痛くねぇから 」



痛くないとは心配させない為の嘘だろう。
傷を負った方の口角が上がっていないのが証拠だ。

それに刃物を指先だけで受ける彼の事。
油断したとは言え、傷を負っているなんて相当大変な思いをしたのだろうと容易に察し付く。



「 まぁ、とりあえず風呂入ってくるだな。その後 手当てしてやるだ。」

「 相変わらずお人好しだなぁ。」

「 ほら、早くっ! 」

「 はいはい。」



脱衣所へと消えていく悟空の姿を見送った後。
棚にある救急箱を手に取った。

消毒液にガーゼ、テープ、ピンセット、全てある事を確認したチチはベッドへと腰掛けて待つ。


数十分も経たずしてやってきた悟空は顔を強く洗ったのか。
裂けた頬の瘡蓋が取れ、顎まで一つの線を描く様、出血していた。

手の掛かる子供の様でふっと笑みが溢れたチチは自分の膝の上をポンポンと叩く。



「 ほら、ここに寝転がってけれ。」



素直に応じた悟空は、身体を横に倒し、チチの太腿を枕に寝転がった。

真っ直ぐに見詰める悟空の瞳と目が合う。

こうもじっと見られると気恥ずかしいもので。
ササッと消毒液をガーゼに垂らすと痛々しい頬の傷に当てがった。



「 …っ、いってぇッ 」

「 我慢するだ。」

「 そんなんしなくたって治ると思うぞ? 」

「 そういう問題じゃねぇ! 痕残ったら嫌だべ? 」

「 オラは別に嫌じゃねぇけど、オラの顔に痕残ったら嫌いになるんか? 」



言葉を発する悟空の目を見てしまい、一瞬息が止まりそうになる。
おかげさまで作業する手も止まった。


“どんな悟空さでも好き”


そう言えたら、どんなに楽なんだろう。

遊女ではない普通の少女だったら、きっと伝えられた想い。
遊女である事をこんなにも憎んだのは、きっと悪魔の手で抱かれた日以来だ。



「 んだな、嫌いになるだ。」

「 じゃあ、今は好きってことか? 」



その言葉に思い切り動揺してしまうチチ。
思わず手に持つピンセットに力が入ってしまった。



「 いってえええッ!!! 」

「 あっ、すまねぇだ。」



叫んだ悟空は思わず涙目だ。

今のは痛かっただろう。
なんたって傷口にガーゼが僅かでも食い込んでしまったのだから。

慎重に作業するチチに懲りたのか悟空も目を閉じ渋々という様に押し黙っていた。

唇も同様に切り口を消毒し、
頬には新しいガーゼを、唇の切れ端には絆創膏を貼る。



「 よしっ! 終わっただ。」

「 サンキューな。にしても怖かったなぁ。」

「 なっ!失礼だべっ! 」

「 あはは! 冗談。」



ひょいっと身軽に起き上がった悟空はチチの隣に腰掛けた。
そんな悟空を気にする事なく、使用した物は仕舞い戻し、血が付着したガーゼ類は立ち上がってゴミ箱へ捨てる。

救急箱も棚に片付けようとした所で声をかけてきたのは悟空だ。



「 なぁ、さっきの返事は? 」



カタンッと棚に置かれた救急箱の音がやけに響いた。

伸ばした手を元あるの位置に戻すと悟空に背を向けるチチ。
彼を視界に入れ、目を見て話す事は絶対に出来ない。

彼への嘘は絶対に暴露てしまう。
直感でそんな気がした。



「 おらは遊女なんだべ、悟空さ。」

「 知ってる。」

「 本気にはなっちゃなんねぇだよ。」

「 うん、それで? 」

「 おらは悟空さを好きになっちゃ、」

「 あのさ… 」



片腕の手首を取られた瞬間、
反転させられ、悟空と向き合う形で壁へと押し付けられた。

まるで逃げ場を与えないかのように。

それなのに手付きは優しくて。
掴まれている手首だって痛みはなくて。
顎に滑って来る指先も温かくて優しいものだった。

互いの視線が絡み合い、逸らす事は許されない空気感。



「 さっきっから遊女としてのチチの意見しか聞いてねぇんだけど? 」

「 …っ! 」

「 オラは遊女も屋敷も関係ねぇおめぇの答えが知りてぇんだ。」

「 …… 」

「 好きじゃねぇならそういえばいいだろ?
オラ諦めるつもりねぇけど、現時点でのチチの本心が聞きてぇ。」



なぜ彼は全て的を射抜いて来るのだろう。

まるで全てを見透かされているようで。
嘘をついたとしても暴露てしまいそうで。
この鼓動も全て彼に聞かれていそうで。


気付いたら、込み上げる愛情が一筋の涙となって零れ落ちていた。



「 おら、悟空さが好きだ。」

「 本当か? 」

「 うん、でもな… 」



嬉しそうに微笑んだ彼は一瞬だった。
涙で歪んでよく見えなくなった愛おしい人の顔。

止まる事を知らない涙は次々と流れていく。



「 おら汚ねぇだよ。」

「 …… うん。」

「 好きでもねぇ男と平気な顔して寝られるだ。」

「 ……っ、」

「 そんなおらでも悟空さは愛せる…ッ 」



言葉を最後まで繋げる事は叶わなかった。
声は飲まれるようにして、彼の唇が押し当てられたのだ。


とてもぎこちなくて、
とても優しい、
女慣れしていないのは明らかな口付け。

生娘でもないのに、リードが取れない。

彼のせいなのだろうか。
キスの仕方や呼吸の仕方さえ忘れてしまった。


長い長い、ただ触れるだけのキス。

角度を変える事なく、温もりと柔らかさを感じるだけの口付けは、今まで感じたことがない味がした。
甘酸っぱくて僅かな消毒と鉄の香り。

胸はこのまま弾け飛んでしまうかのように高鳴った。


名残惜しく離れた唇は、ずっと彼に触れられていたからか、寒くなった気がする。



「 仕方ねぇじゃん。」



壊れ物でも扱う様にそっと抱き締めて来る彼の優しい腕。
鍛え上げられた筋肉を布越しにでも感じた。



「 なにが…? 」



悟空同様、そっと抱き締め返すチチ。
肩口に顔を埋められれば、悟空の呼吸を耳元で感じるようだった。



「 オラが好きになっちまったんはチチなんだから。」

「 うん。」

「 たまたま遊女だったってだけなんだ。」

「 …うん。」

「 確かに辛いかって聞かれたら辛ぇって言っちまうけど、」

「 ごめんな。」

「 それでも好きって気持ちの方が強ぇんだよ。」



抱き締められている腕と身体は僅かながらに震えていた。

きっと本当に辛いのは、自分じゃない。
他の男と寝る事を許さなければならない、彼自身なのだ。


そっと彼を宥めるように背を撫でるチチ。



「 おらも悟空さが好きだべ。」



耳元で囁くように告げた告白。

きっと傷付けてしまう事は多いだろう。
傷付けられてしまうこともそれなりにあるだろう。
けれど、そんな苦難以上に彼が好き。

それは彼と同じ気持ちだ。








秘密の交際が始まってから、
約一ヶ月が経過しようとしていた時だった。

突然の吐き気を催し、起床したチチはトイレへ駆け込み 戻してしまった。

それは人生で数回経験したことがある。



「 ……妊娠、」



この時代に避妊するものは幾つか存在した。

挿入時に詰める和紙。
月一度に飲むと効果があると言われる薬剤。

けれどどれも効果がないのでは?と思う程、もっと若い頃はよく妊娠したものだ。

18歳を迎えてから19歳に差し掛かろうとしている今まで一度もなかった。
もう妊娠出来ない身体になってしまったのかなと思っていた矢先の出来事。



「 …… 悟空さッ、」



約一ヶ月の交際をしているが、彼に触れられた事は今までに一度もない。
もちろん求められる事も皆無だ。

例えもし彼と身体を重ねていたとしても彼の子であるかなんて分かりはしない。


彼への罪悪感。
宿った子供への申し訳なさ。
計り知れない悲しみに涙が止まらずトイレで気が済むまで泣き腫らした。



それから程なくして、女将から中条丸を購入し、服用した。

この屋敷では妊娠しても絶対に産む事は許されない。
寧ろ中条丸の毒性で何度も流産させて妊娠しない身体を作れば一人前とされているのだ。



「 本当、操り人形だべな。」



子を宿しても子も産む事は許されない。
子を作れない身体作り。
客人との本気の色恋沙汰は許されない。
この牢獄の様な屋敷から一歩も出られない。

生きた心地がしないとは、まさにこの事だろう。



今宵の宴も終了し、自室へと戻る足取りは重かった。

しかしそんな事は関係なしに客人は来るだろう。
遊女にとっての休日は年に年末年始の二回しかないのだから。


自室の椅子へと腰掛けたチチは、夜空に輝く星々を見上げる。



( あのお星様の中に、今まで宿った子達がいるだかな。)



そう思ったらまた涙が溢れ出てきた。
気が済むまで泣いた筈なのに。

まだお腹にいるであろう子が必死に中条丸の毒性と戦っているのかと思うと辛かった。
夜空の星に返してしまうと思うと、胸が引き裂かれるような痛みが走った。

枯れる事のない涙で濡れる頬はきっと化粧など剥がれてしまっただろう。



「 ……チチ? 」

「 …えっ? 」



聞き覚えのある声でハッと我に戻り、振り返る。
そこには悟空の姿があった。
忙しない一日で今日が逢瀬を交わせる日だという事をすっかり忘れていたチチ。

涙を見られた事は確実だろう。
もし見られていなかったとしても、振り返った今、涙を見せているようなものだ。

流れていた涙をゴシゴシッと拭い、ニコッと微笑むチチ。



「 会いたかっただよ、悟空さ。」



どうか会いたくて泣いていたのだと勘違いして欲しい。
そうすれば妊娠し流産させようとしている事は全て秘密でいられる。

彼に知られたくないのだ。
酷い事をする女である事を。


悟空に駆け寄り、抱き締めたチチは密かにそんな事を望んでいた。

けれど、やっぱり悟空は甘くないのだ。
抱き締められる事なく身体を引き離した悟空は、いつもの全てを見透かす様な目で顔を覗き込んでくる。



「 なんかあったんか? 」

「 ん? なんもねぇだよ? 」

「 泣いてたじゃねぇか。」



言葉に詰まるチチの頭を撫でる悟空。
壊れ物を扱う様にそっと横抱きされた身体は、ベッドへ腰掛けさせられた。

悟空はというと、チチの目の前に座布団を敷き、見上げる様な形で胡座を掻く。



「 オラが聞いてやるから何があったか話せよ。」

「 …悟空さに会いたくて泣いてただよ。」



朝の出来事で、今日会える事はすっかり忘れていた。
全ては嘘であるけれど、最後の頼みの綱だ。

じっと瞳を捉えた様に見つめてくる悟空は何も語る事はない。

けれど数分見つめた後。
何の合図もなしにそっと左手を握られ、愛おしそうに撫でられた。



「 チチはオラと過ごしてて、オラに嘘ついた事あるか? 」

「 ……ねぇだよ。」

「 んだな、多分オラの見立てでもねぇと思う。」

「 んだ。」

「 でも今のおめぇは嘘ついてると思う、違ぇか? 」



愛おしそうに撫でていた彼の指先はピタッと止まった。
代わりに痛い程の視線が注がれる。


どうして彼はこうも意図を見抜いてくるのだろうか。
人の心を読める能力でも備わっているのだろうか。

どちらにせよ、嘘を吐いている以上、心が押し潰されてしまいそうな程締め付けられていた。
握られていない方の手をグッと握るチチは視線を逸らさずに僅かな沈黙の後、口をゆっくりと開く。



「 なして? 」

「 なんとなく、雰囲気と目見てっと嘘付いてんなって思うんだ。」



小さく微笑する彼は、寂しそうにも見えた。
嘘を見抜いているのに、嘘を吐き続ける自分のせいだとも思う。



「 ……そうだか。」

「 答えは? 」

「 ……… 」

「 嘘か本当かだけでも答えてくんねぇ?
話したくねぇってんならオラ、無理強いして聞くつもりとかねぇから。」



優しさを通り越して、きっと彼は甘いのだろう。

その甘過ぎる優しさは今、胸を鋭利なナイフで刺されている様だった。

きっと彼に嘘をついてしまっているから。
嘘に嘘を塗り重ねてしまっているから。


彼を騙そうとした弱い私。
傷付ける前に傷付きたくないと思っていた不甲斐ない私。

許してなんて言わないから、どうか嫌いにならないでほしい。



「 ごめんなさい、嘘だべ。」

「 やっぱりかっ! オラ、こーゆうの当たっちまうんだよな〜! 」



難問でも解いたかの様にすっきりとした笑顔を浮かべる悟空。

何故、嘘を吐いていたのに、怒らず笑っていられるのだろう。
荒れ狂う様な激情に呑まれる事はないのだろうか。

普段なら釣られる様に笑えるが、心身ともに笑える様な状況ではなかったチチ。



「 怒ってねぇだか? 」

「 怒る? なんか怒る様な事、今してたんか? 」



鈍感なのか、鋭感なのか、
本当によく分からなくて掴み所がない。

けれど、彼が嘘を吐く事はないだろうから、きっと本当に怒っていないのだろう。



「 次はきっと怒るだよ? 」

「 オラ、そう簡単に怒ることねぇぞ? 」

「 それでも怒るだ、もしかしたら嫌われるかもしんねぇだ。」

「 へぇ!やれるもんならやってみろよ! 」



わくわくした様に待ち構える悟空。
いつも通り、太陽の様な底抜けな明るさを持つ笑顔。

きっとそれもこの一言で、壊してしまう。


深く呼吸を吐いたチチは震えそうになる身体を必死に抑える。
気付かれたのか笑顔は変えないまま、繋いだままの手を力強く握り締められた。

オラは大丈夫、そう言うかの様に勇気付けてくれている行動にも思えた。



「 おら、人殺しなんだ。」

「 ……どういう事だ? 」



ほら、ね。
彼の顔からは一瞬で笑顔が消えた。
強く繋がれていた手も心なしか離れていくのではないかと思う程、弱いものになる。

動揺する彼をこの目で見たのはきっと初めての出来事だろう。

優しい彼だからきっと悪は許されない。
小さな命、何の抵抗も出来ない赤ん坊を毒薬で殺してしまうなんて最低だと自分でも思うのだから。



「 おら、今日妊娠してた事がわかっただよ。」

「 ……! 」

「 でもここじゃ産む事は許されねぇから、毒の入った薬飲んで赤ちゃんだけを殺すだ。
おらの体にはなんも起きねぇけんど、きっと赤ちゃんは苦しい思いして死んでくだよ。
人生でこれが5回目だ、5人も小さな赤ん坊を殺した最低女だべ?」



悟空は何も語る事はなかったが、
語る事がない代わりに彼の身体は僅かに震えていた。

震える程、怒っているのだろうか?

もしそうだとしたら、きっと嫌われた。
最低女だって、罵声を浴びせられてもなんら不思議じゃない。


あまりにも長過ぎる沈黙に堪え兼ね、口を開こうとした瞬間。



「 っ! 」



痛いくらいに抱き締められた。

これがいつもの彼とは思えない程、強い力で。
壊れ物を扱うような優しい腕は、そこにはなかった。

このまま絞め殺してくれるなら、それもそれでいいかもしれない。
この世で愛して止まない最愛の人に殺されるのだ。
この地獄の屋敷にずっといる位なら、彼の手にかけられた方がずっと幸せだと思う。


胸が締め付けられ、僅かな呼吸も止めてしまおうと思った時。



「 オラも最低な奴かもしんねぇ。」

「 ……えっ? 」



それはあまりにも意外な言葉だった。

彼のどこが最低だと言うのか。
優し過ぎる彼に最低な所なんて何一つない。
寧ろ私には勿体無い程、素敵な人だ。



「 オラ、今何考えてたと思う? 」

「 …おらに怒ってたんだべ? 五人も小さな赤ん坊殺したから… 」

「 違ぇ、オラが考えてたんは、もしチチが流産させてなかったらの事だ。」

「 ……どう言う事だべ? 」



痛いくらいに抱き締められていた身体は解放されて、隣に腰掛ける悟空。
自由に呼吸が効く身体を僅かに残念に思ったのは、衰弱した精神が齎した想いだろう。

指を絡める様にして、握られた手はいつも以上に温かく、優しい手だった。



「 もしその今まで出来た赤ん坊を産んでたとしたら、オラが殺してたかもしんねぇ。」

「 …! 」



呼吸が止まるかの様な言葉だった。

彼みたいな優しい心の持ち主でも殺意はあるのか。
激情に呑まれそうで恐怖を感じる事があったという事なのか。



「 むしろ今、まだその腹にいる子供も早く死ねって思っちまったし、まだ生きてんならチチの腹殴ってでも殺しちまおうか迷った。」

「 …うん。」

「 おめぇが最低なら、オラは好きな奴殴ってでも赤ん坊を殺そうと思ったんだからもっと最低かもな。」

「 そんな事ねぇだよ。」

「 やっぱ駄目だな〜、オラさ チチが他の男に抱かれてるのとか想像すると壊れそうになんだ。」



強く握られる手はその表れなのだろうか。
彼の爪が食い込んでキシキシと骨が鳴る様に痛む。

悟空の横顔を視界に入れれば、今にも泣き出しそうな悲哀な表情があった。


こんな表情をさせてしまっているのは私なんだ。

苦しませてしまっているのは私。
傷付けてしまっているのは私。

私がいなければきっと彼も楽になるんだろうけど、手放す事ができなくて。


遊女である事をこんなに悔やんだ事はあっただろうか。
初めてを奪われた時ですらこんなに恨めしい気持ちにはならなかっただろう。

きっと彼に恋をしてしまったから。
彼を悲しませ苦しませる自分自身が一番許せなかった。


顔を落としたチチは、痛い程握られる手で握り返した。



「 一つ、聞いてもいいか? 」

「 なんだべ? 」

「 チチって幾らすんだ? 」



これだけ通い続けていて、値段を把握していないのか。
寧ろ今までどうやって金を払っていたのか。

苦笑するチチは、指折り数えた。



「 二時間だと2000ゼニーくらいでねぇか?
宿泊だと多分、5000ゼニーだったと思うだよ。」

「 え…いや、そんな事は知ってるけど…。」

「 へっ? だっておらが幾らって… 」



値段を聞くから正直に答えた筈なのに、承知の上とはどういう事なのだろう。
疑問符が浮かぶ中、決定的な言葉を投げかけて来た悟空。



「 遊女屋敷からチチを買うのに幾ら必要かって意味だよ、分かっか? 」



心臓がドクンッと強く波打つ。
瞳孔を開かずには居られない状況のチチは悟空に振り返る様に見つめた。

その視線に気付いた悟空はニコッといつも通りの笑顔だ。

買うとはどういう事なのだろう。
寧ろその意味をちゃんと理解しているのだろうか?



「 悟空さ…何、言ってるか分かってるだか? 」



声は途切れ途切れでやっと紡いだ言葉。
僅かに声も低く掠れていた事だろう。

それほどまでに信じ難い言葉だったのだ。



「 へっ? オラが言った事理解してなかったら、相当バカだろ? 」



呑気にもそう返してくる冷静な悟空。
慌てているのは、チチだけのようだ。

真剣な面持ちで悟空を捉えたチチは、咄嗟に言葉を紡いだ。



「 おらを…買うつもりだか? 」

「 おう!その為に貯金してんだ!っつっても忙しいから使う暇もねぇだけなんだけどな。」

「 …いくらあるか聞いてもいいだか? 」

「 んー、あり過ぎて数えてねぇから正確にはわかんねぇけど、8000万ゼニーとかか? 」



これまた驚愕する金額だった。

幼い容姿からは想像できない高額な貯蓄額だ。

それに彼も同い年の18歳だと聞いた。
18歳にして裕福だなんてこの時代に貴族でない限りなかなか聞くものではない。


けれど8000万ゼニーでもきっと足りないだろう。

花魁ともなれば、相当な高額料金が発生する。
もし花魁じゃなかったらきっと足りていたんだろうななんて思ったら悲しくなった。



「 …おら、花魁っていって屋敷でもトップクラスなんだべさ。」

「 んだな〜。」

「 1億… 」

「 ん? 」

「 この屋敷の花魁クラスは1億って聞いてるだ。」



コツコツ稼いでは借金の返済に当てられるチチの身からすれば途方もない金額だ。

屋敷は闇の世界。
全て屋敷が得する様な仕組みで成り立っている。


与えられる一人部屋、豪華な食事、美しい装飾品。
これは花魁だけが与えられる身の上だ。

花魁以外の遊女は稼ぎも相当な違いで、屋敷の人間からは無碍な扱いを受ける日々。
あまりにも受け難い屈辱で、嫌悪感が増加する日々の中、
一刻も早く花魁という地位につき、見返してやろうと努力の結果が今にある。

けれど、それすらも今は残酷に感じた。



「 おっ!じゃあもう少しで届くなっ! 」

「 ……えっ? 」

「 1億だろ? あと2000万ゼニーだもんな、楽勝だっ! 」

「 …えっ、でも貯金 全部なくなっちまうだよっ?! 」



彼にとっても8000万ゼニーは高額だろう。
努力して成し得た貯蓄に違いない。

チチは不安と焦燥に駆られながらも、悟空はヘラヘラと笑っていた。



「 いいさ、全部なくなる代わりにチチが手に入んだからな! 」

「 …後悔しねぇ? 」

「 オラはおめぇを誰かにやる方が後悔すると思うぞ? 」



呑気に微笑んでいる彼が眩しい。

何よりも嬉しい言葉だった。
今まで悩んでいた事が馬鹿に思える程、彼は私の喜ばせ方を知っている。



「 ……ありがと、悟空さ 」



きっと彼と歩む人生なら、幸せだろう。
この上ない程に。

例え、貯蓄がなくなって貧乏な生活を強いられたとしても、
現状の裕福とも言える豪華な食事や綺麗な装飾品がなくとも、
彼さえいれば この笑顔に何度も救われてしまうのだろう。


悟空と歩める幸せな未来を想像したチチは嬉々とした笑みを浮かべた。



「 それにオラ、良い案があんだっ! 」

「 良い案…だか? 」



眩しい程の笑顔を、真剣な面持ちに変えた悟空。
チチは身体の向きを変えて、悟空の横顔を見詰めた。



「 これは仕事関係だからあんまし詳しい事は言えねぇんだけど、多分貯金なくなんねぇくらい稼げっと思うんだ。」

「 …その代わり何かあるだか? 」



真剣な表情の意図を見抜くチチ。
悟空もまたチチの方へ身体の向きを変えると、紅色に染まるチチの頬を一つ撫でた。



「 当分 会えねぇと思う。」

「 どれくらいだ? 」

「 正確な事はわかんねぇけど 来週は確実に会えねぇ。」

「 …それだけ? 」



年跨ぎの数字を言われると思ったから逆に驚いてしまったチチ。
器用に眉を顰め、“なんだよ〜”と拗ねた様子だった。



「 オラは毎日でも会いてぇくれぇだから1週間会えないだけでも辛ぇんだぞ?
だからこの仕事引き受けないつもりでいたのにさ〜 」

「 あ、すまねぇだ。
けどおら、一年とか二年とか言われると思ったから驚いちまって。」

「 いぃッ!それ年越しちまうじゃねぇか?! オラ、死んじまうよ。」



参ったとでも言うように苦笑し、後頭部を掻く悟空。

その言葉は心底愛されているのだと改めて感じ取る事ができて嬉しい言葉だった。
愛しの人にこうも存在を求められて嬉しくないわけがない。

けれど、一抹の不安を掻き立てられるのも事実。

彼がどの様な職に就いているのか未だ嘗て聞いたこともないし、
話して来ない限り、聞いても答えてはくれないだろう。


チチは胸のざわめきを収める事が出来ず、意を決して尋ねた。



「 …危険じゃねぇだか? 」



何を予感したのか、僅かに震えた声。

それは確かに悟空の耳に届き、
一瞬 目を見開いた後、ハハッと笑って見せた。



「 今日はやたらめったら勘が鋭いなぁ。」



その言葉に胸のざわめきの正体が掴めた気がした。

彼の仕事とは常に危険が付き纏う仕事なのだと。
以前怪我をしたものももしかしたら仕事絡みなのかもしれないと。


そんな危険な事をするなら、ここにいて悟空と逢瀬を交わせる方がいいかもしれない。
そうしたら彼を危険に晒す事だってなくなるかもしれないのだから。



「 だったら辞め…、」

「 辞めねぇよ? 」



遮られる様に重ねられた言葉。
至って真剣な表情で見つめられた後、優しい腕に懐抱された。



「 おめぇを手に入れるって決めたんだ。危険だろうと死なねぇで戻ってくる。」

「 本当だか? 」

「 あぁ、それに死んじまったら意味ねぇしな。」



頭を撫でる優しい手はどこか力強かった。

怪我をしてもいい。
どんな状態であっても帰ってきてくれればいい。

そんな想いを馳せながら、信じようを決めたチチは抱き締め返した。



「 無理しねぇって約束してくれるだか? 」

「 あぁ、約束する。」



力強い返答と共に交わした口付け。
約束のキスとも取れた優しい口付けをチチは快く受け入れた。



彼と屋敷で過ごす最後の時間。

どちらも僅かに会えないであろう時間を想定してか、
ただただ愛を語り、幸せを掴む為の心の準備をするかの様、未来を語った。


それは幸福であり、いつ訪れるか分からない焦燥も感じた。
けれど二人で掴む幸せな未来はそう遠くない、とその日の別れを告げたのだった。










あなたと過ごす幸せな未来があるのだとしたら。

その日を夢見る女になってもいいですか?
馬鹿な遊女として生きるのはもう辞めたいと願ってもいいですか?
あなたの見る景色の隣に私がいてもいいですか?


そんな夢を胸に抱きながら、今宵の幕を閉じた。







籠の中の鳥
〜 恋煩い。〜






2018.04.01




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