― 籠の中の鳥 ―
〜 感情の名は。〜










かごめ。かごめ。
籠の中の鳥は、いついつ出やる。
夜明けの晩に、鶴と亀が滑った。
後ろの少年 だぁれ?










今日も一日の半分、宴が終わった。
花魁にしか与えられぬ自室より小窓から覗く月を見上げ、チチは鼻歌の様に詩を口遊む。

宴の後は客人の相手だ。

寝不足のせいもあってか、精神も肉体も晴れやかではない。

ふぅ、と一息入れた時、自室の襖がゆっくりと開かれる。
即座に気持ちを切り替えたチチは 立ち上がり、客人を視界へと移した。



「 こんばんわ。チチと申します。」



和かに微笑むチチは、勿論 疲労の色など一つも見せない。
それがプロの顔と言えるのだろう。

一礼したチチに何も発する事なく近付いてくる客人。

黒髪の癖が強い髪型。
幼く可愛らしい顔立ち。
袴の上からでも分かる鍛え上げられた筋肉。
この物騒な時代に刀を所持していない好青年。


( おらのお客様でこんな人 おっただか? )


宴の席には居たかもしれないが記憶にはない。
接客している所を気に入られ 指名したのだろうか。

考慮できる点といえばそこいらで、チチは 特に不審にも思わなかった。



「 オラ、風呂入りてぇんだけど 風呂あるか? 」



第一声から名を名乗らなかった彼。
幼さが残る顔立ち同様、その声もまた少々幼さが残る高めの声音だった。



「 もちろん有りますよ、こちらへどうぞ。」

「 さんきゅー 」



浴室へと案内するチチに大人しく着いてくる客人。
“こちらです”と会釈したチチは、何か強い圧と視線を感じた為、客人を視界に映した。

何も語られる事なく、ただじっと見つめられる行為は何故だか気恥ずかしい。

何を思っているのか。
何を感じているのか。
何を見ているのか。

穴の開く程直視して来る彼に、堪え兼ねたチチは若干頬を染め上げた。



「 あの…どうかされました? 」

「 何も覚えてねぇ? 」



第一声より、一オクターブ下がった僅かに低い声。
何を考えているのか分からない程、彼に表情はなかった。



「 … 申し訳ございません。無礼は承知ですがお会いしてお話しした事はありますか? 」

「 いや、なんでもねぇんだ。気にしねぇでくれ。」



一瞬、ほんの僅かだが、彼が眉を寄せたのを見逃しはしなかった。
早々と脱衣所に消える客人は、パタンッと戸を閉める。



「 お客様、お身体洗いましょうか? 」

「 一人で洗えるからいい 」

「 では、居間に戻りますね。」



タオルや着替えは全て脱衣所に揃っている為、その場を後にする。
居間に戻りお茶を挽き始めたチチは、心中に巡る僅かな胸のざわめきを感じた。


一瞬だけ見せた あの表情はなんだったのだろう。

悲しい様な、
優しい様な、
苦しい様な、
寂しい様な、

全てに当てはまる表情だった。


彼の言う様に気にしなければいい話なのだ。

それでも気になってしまうのは、彼が纏う何かを背負ったオーラによるものなのだろうか。
定かではないが、あの表情は脳裏を焦がす様に焼きついたのは明確だ。



お茶も挽き終わり、待つ事数分。

浴室から出てきた客人は、着替える事なく元の袴を着ていた。
首にタオルは掛けているものの、髪の毛は拭いたのかと思う程、水滴が滴り落ちている。


風呂に浸かったせいか、僅かに色付く頬。
髪から照り落ちる水滴。
無感情に見える程、無表情な男らしい顔付き。

今までの男性で感じた事のない色気に不覚にも胸が高鳴った。



「 殿方、私が拭いて差し上げましょうか? 」

「 ん? 大丈夫。」

「 でも風邪を引かれてしまいますよ? 」

「 お人好しだなぁ、平気だって。オラ身体だけは丈夫なんだ。」



ガシガシッと力任せに髪を拭いていた彼。
滴り落ちる程の水滴は拭われたものの、未だに髪は濡れている。

まるで反抗期を迎えた子供が意地を張っている様で、ふっと頬が緩んだ。



「 あ、そっちの方がいい。」

「 ん? 何がでしょう? 」

「 笑った顔。オラ作られた笑顔見るくらいなら無表情見てた方がいいし。」

「 へっ? 」



にっと白い歯を見せて初めて笑いかけてくれた客人。
子供の様な幼い出で立ちだが、人を見抜く才能は優れている。

チチは困惑した様に ハハッと空笑うと、彼はベッドへと寝転んでしまった。


( あぁ、すぐしてぇのかな。
もうちっと話していたかったな。)


電気を落とせば、月明かりだけが部屋を照らす。
ベッドの端に腰掛けたチチは 背を向けている彼に手を伸ばそうとした時。



「 なぁ、」

「 はい? 」

「 時間が来たら起こして。オラ寝っから。」

「 えっ? 」



その言葉には自分の耳を疑った。
思わず声が出たチチは咄嗟に口を両の手で塞ぐ。

遊女ランクが低かった時代は稀にそういう客人はいた。
しかし花魁ともなれば 客人が支払う料金は割高で、チチの元に訪れる客は恐らく行為目当てだろう。
今の今までそんな人は見たことがないし、聞いたこともない。



「 殿方、時間がなくなってしまっても料金は… 」

「 分かってるよ。オラ寝に来ただけだから。」



それ以上は口を挟まなかった。

行為を行わずして寝てくれるのであれば、こちら側としては気遣う事なく休める。
それで花魁代金を頂けるなんて思ってもない好都合だ。

ベッドから離れたチチは、そっと椅子に腰掛けた。
再び月を見上げると先程とは心の持ちようが全然違って晴れやかで軽い。



「 なぁ、これ聞いたら寝るんだけどさ、」

「 はい? 」

「 いつからその口調なんだ? その敬語?とかいうやつ。」

「 あ…普段はこういった話し方はしませんよ。口調は方言訛りで殿方に少々似通っているかと思います。」

「 だったらそっちで話してくんねぇかな。」

「 へっ? 」

「 敬語?ってやつ 嫌ぇなんだ、オラ。」

「 ……んだな。この話し方の方が楽だからありがとうだ。」



相当 眠かったのだろう。
間も無くして、すぅ…と寝息が聞こえ始めた。

椅子から腰を上げたチチは、スヤスヤと眠る彼に薄手の毛布を掛ける。


今までに見たことがないタイプの人。

親しみやすい方言だからなのか、
彼の言葉は全て優しさに思えた。

笑顔の件に関しても、
敬語の件に関しても、
ただただ優しい人だから。

もし見立てが外れたとしても、きっと悪い人ではない。


気持ち良さそうに眠る彼の邪魔しない様、再び椅子へと戻った。



宿泊コースではない、時間制コースだった為、
時間はあっという間に過ぎてお別れの時間が来てしまった。


彼の背の裾をギュッと握り締め、引き留めたチチ。
袖に腕を通さず組む格好でいた彼は“なんだ?”と優しげな声で振り返った。

一人の時間に考えていた、どうしても聞きたい事があったのだ。



「 あの…名前 聞いちゃ駄目だか? 」



一度きりの客人だったり、諸事情で名前を明かさない者は今までに数知れずいた。
勿論、そういった客人にわざわざ名前を聞き出す事はまずしない。

けれど彼の名前は聞いておきたい。

もし一度きりだったとしても、彼の名前はこの胸に刻んでおきたい。
不思議と初めてそう思える男性だった。



「 あれ?言ってなかったっけ? 」

「 んだな。」

「 オラ、悟空ってんだ。孫悟空。」



今までに聞いた事のないこの辺りでは珍しい名前。
けれど違和感は全くなく、寧ろ彼らしい名前にすら思えた。

名乗った悟空は、彼特有の眩い程の笑顔を浮かべている。



「 悟空様、」

「 悟空でいいよ。」

「 んだら悟空さ、また来てけろな。」



釣られる様にして、微笑むチチ。

心底笑顔になれたのは果たしてどれくらい振りだろうか。
彼は人を笑顔にさせる力がある、そう思った。



「 おう、また来るな。」

「 絶対だぞ? 」

「 あぁ。」



部屋を出る間際、頭を一つ撫でた彼のぎこちない手は温かかった。
何よりも彼の手が触れた場所が熱くなった。


( また来てくれるといいだな。)


あの優しさに触れたい。
あの笑顔で見詰められたい。
もっともっと彼自身を知りたい。


夜空に煌めく星々へ祈る様に手を合わせたチチの脳裏には彼が住み着いていた。








悟空との出逢いから約三ヶ月。
三ヶ月とは長い様にも感じたが、過ぎて見ればあっという間だ。


チチには一週間にたった一度の楽しみが出来た。
それは決まった曜日決まった時間に現れる彼と過ごす時間。

挨拶を交わして、入浴をして、仮眠して帰る。

不思議な行動は相変わらずだが、確実にチチの心中は変化があった。


何も望まないから、ただ一緒の時を過ごしたい。
ずっと牢獄の様な屋敷にいてもいいから、彼とこうして会っていたい。
何も語らなくてもいいから、眠る彼を見ていたい。

彼といると胸が踊るのだ。
不思議と安らぎさえも感じる。

これが何なのかよくは分からない。
名前があるのかすらも知らない。
けれど、理由なんてわからなくてもいいとさえ思った。



そんな週に一度の待ちに待った密かな楽しみは今日だ。

いつもの様に宴に参加したチチ。
操り人形のように舞い踊り、愛想笑いを浮かべて、男性に寄り添い晩酌をする。


( 今日は会えるだな。)


彼は宴に参加する事はないと知った。
この三ヶ月間、一度も宴席で見た事がないからだ。

だからこそ、その時間が楽しみで堪らない胸は踊る様密かに弾む。



「 チチ。」

「 はい、どうなされました? 」

「 今日の晩は空いておるか? 」



寄り添い晩酌しているのは常連になり掛けているが、まだ二・三度目相手しただけの40代と思わしき客人。
金払いも一般的で特別何かをくれるわけでもない為、優先順位としてはまだまだ低い。
もっとも悟空が先約であり最優先の為、今日は予約を入れられないのだが。

苦笑したチチは男性の肩へ頭を預け、“ごめんなさい”と一つ詫びた。



「 今日は先約があるので 日を跨いだ後でもよろしければ。」

「 なんだと?! このわしを後回しにするのか?! 」

「 …!! 」



お酒もだいぶ回っている為か、お猪口を壊してしまいそうな勢いでテーブルへガンッと叩き置く客人。
勿論、このような乱暴な行為は即退場、場合によっては出禁が課せられる。

驚愕するチチへ更に追い討ちかける様、客人は刀を持ち出した。



「 落ち着いてください! 」

「 うるさい! わしに逆らう女などいらんっ!! 」



刀を振り翳した客人は、チチ目掛けて振り下ろす。


( 避けられねぇ )


悟ったチチは覚悟した様にギュッと強く目を瞑る。
しかし一向に刀が振り下ろされ空を切る音も痛みもやっては来なかった。

恐る恐る瞼をゆっくりと開けるチチ。



「 お前、この屋敷のルール分かってっか? 」



そこにいたのは、紛れも無い今夜会う予定の悟空だ。
刀を二本の指先だけで止める彼に驚愕を受けたのはチチだけではないだろう。

危機を救った彼は、ヒーローにも見えて、
この場に相応しくない胸が高鳴りと頬が色付く感覚を覚えたチチ。
守ってくれた彼の背中がいつも以上に広く逞しく見えた。



「 貴様、何者だ?! 」

「 今しか会わねぇ奴に名乗る必要ねぇだろ。
強いて言うなら今日のコイツの先約はオレだって事だけは言っといてやるよ。」



挑発する様な口調。
いつもの穏やかな雰囲気とはまるで違っていた。



「 なっ!! 貴様か! わしに恥をかかせたのはっ! 」

「 そんなん知らねぇよ。とっとと出てけ。」



どすの効いた威圧感ある声。
刀を指先で軽々しく折ってしまった。

驚愕した客人の隙を見逃しはしなかった悟空。
瞬時に客人の背後へと回り、首元へ手を落とせば、客人の意識をあっという間に奪ってしまった。

その一連の動作は時間にして数秒の出来事。

有難う御座いますと一礼する若い衆は規則違反をした客人を宴の場から引き摺り出した。
勿論罰則は生涯出禁を免れないだろう。


何事もなかったかの様にチチの隣へ座る悟空。
平然としている様は堂々たるもので、今見たものは幻だったのかと錯覚しそうな程だ。



「 大丈夫か? 」

「 えっ? 」

「 ぼーっとしてっから。怖かったか? 」



聞きたい事は山ほどあった。

なぜ刀を指先だけで止められるのか。
なぜまだ時間でもないのに彼がいるのか。
なぜ平然と何事もないかのようにいられるのか。


不思議な男だとは思っていたけれど、謎が更に深まった気がする。

一体、この男は何者なのだろう。



「 んーん、怖くはなかったけんど、なして悟空さがここにいるだ? 」

「 んー? 仕事がたまたま早く終わって来て見たらあーだったから止めただけ。」

「 なして刃物で指が切れねぇだ? 」

「 あー、なんでだろ? 力加減とかか? 」



ハハッと笑う悟空はいつも通りの彼に戻っていた。
嘘も偽りもない様に思う純粋な彼の笑顔はなんなのか。

疑問だらけだった脳内は彼一杯で埋め尽くされるのに、そう時間はかからなかった。



「 にしても ここうるせぇなぁ。宴っていつ終わんだ? 」

「 んー、もうそろそろ終わるだよ。」

「 そっか。早く風呂入って寝てぇな〜 」

「 うるせぇ所 苦手だか? 」

「 うん、苦手。人がわんさかいる所も嫌ぇなんだ。」

「 野生的なんだべな。」

「 ずっと田舎の山暮らしだったからなぁ 」



久々に挨拶以外の会話を交わした気がする。

田舎って何処?
そう尋ねようとした所で 宴が終わる鐘が鳴り響いてしまった。



そうして、更けていく夜は普段と何も変わらない静寂な夜だった。

またいつもの様に入浴をして、眠りにつく彼。

今宵は満月だから、彼の寝顔がよく見える。
いつもの様に何も掛けずに眠る悟空の腹まで掛け布団を敷くチチ。



「 悟空さは 何者なんだべな。」



こんなに幼い顔立ちをしていて、
まるで子供が突然大人の身体になってしまっただけのような彼。

けれど 強さは本物だった。
刃物に臆する事もなく、指先だけで止められるなんて。
常人離れをする彼の強さは、この鍛え上げられた肉体が語っていたのか。


それにしてもあの時の胸の高鳴りはなんだったのか。

驚いたから?
怖かったから?

どれも当て嵌まらない。

だとすれば、彼が来てくれたのが嬉しかったからか。

それもあるけど、一番は。
救世主の様な彼がかっこよく見えてしまったから。


思い出すだけでも高鳴る鼓動の正体は。


考えている内に時間はあっという間に過ぎてしまって。
彼はいつもの様に“また来る”と言い残して帰ってしまった。



それからの来客はもちろんあった。

仕事という名の行為の最中。
考えているのは彼の事だった。

目の前にいる客人を悟空に重ねてしまう程、脳内は彼一人で埋め尽くされていた。

プロというだけあって、名前を間違える事はないが。

彼が触ってる。
彼が求めてる。
彼を受け止めている。

そんな感覚に支配される私はきっと重症な病を抱えているのだと脳の片隅で思った。








それは翌日の出来事だ。
昼見世時に突然予約が入り、襖を開け現れたのは悟空。



「 悟空さっ?! 」

「 よっ! 」



僅か半日足らずで、しかもお昼時に来るなんて初めての事。
決まった時間にしか来れないのだとばかり思っていただけに驚いてしまった。

紙袋をぶら下げた悟空は座布団へと腰掛けた。
チチも悟空の後を追う様に丸テーブルを挟んだ正面に正座する。



「 今日は30分くらいしか時間ねぇんだけど。」

「 どうしただ? なんかあっただか? 」

「 たまたま近くの和菓子屋でうめぇ豆大福見つけたからさ、」



途中で言葉を切る悟空は、紙袋から包装された木箱を取り出した。
開けるとそこには、数個の薄紅色に覆われた豆大福。



「 おめぇにやろうと思って来たんだ。」

「 悟空さが…おらにけ? 」



湧き上がる喜びに身体が震えそうだった。

彼が外の世界でも私の事を考えてくれた事。
私の為に僅かな時間を割いてプレゼントをくれた事。

花より団子とはまさにこの事だと、微笑した。

彼に初めて貰えたプレゼントだ。
どこに咲く花よりも嬉しくて感極まり思わず涙が一つ零れ落ちた。



「 い゛ぃっ!泣くくらい大福嫌いだったんかっ!? 」

「 違ぇだよ。悟空さから貰えたのが嬉しくて。」

「 あぁ…。オラ、髪飾りとか洒落たもんはわかんねぇから買えねぇけど、こんなんで良ければうめぇもん沢山知ってからいつでも買って来るぞ? 」

「 ありがとうだ、悟空さ。」



涙が出る程嬉しい贈り物なんて今まであっただろうか。
記憶にある限り、どんなに高価なものでも泣ける程嬉しい物は頂戴した事がない。

嬉々とした満面の笑みを浮かべるチチ。



「 さっ!せっかく悟空さに貰っただ!一緒に食うだよ! 」

「 おう!! 」



先程 朝食を取ったばかりだから、勿論腹が空いていないのは当然で。

しかし一口頬張った豆大福は、
見た目からは想像がつかない程、程よい甘さと豆の良い香りが口一杯に広がった。

これは美味しい、と感激に目を見開くチチ。
口一杯に豆大福を詰める悟空は微笑んだ。



「 なっ? うへぇはほ? 」

「 悟空さ、お行儀悪いだよ。飲み込んでから話すだ。」



ゴクッと喉を通る音が聞こえた。
唇に薄紅色の粉をつけながら再び微笑む悟空。



「 なっ? うめぇだろ? 」

「 んだな、おらこんなうめぇ大福食べたの生まれて初めてだっ! 」

「 へへっ、オラもだっ! 」

「 今、お茶淹れるから待ってけろな? 」

「 おう! 」



ペロッと舌で唇を舐めて、粉を拭う悟空。
可愛らしい行動の筈なのに、垣間見た舌を色っぽく感じた。

チチがお茶を挽き始めると、悟空は大福を片手に唐突に質問して来た。



「 おめぇ、なんでここにいんの? 」

「 ん? ここにいる理由だか? 」

「 おう。」



そう質問して来る悟空の表情は至って真剣なのだろう。
大福さえ頬張ってなければ、きっと大人びた色気を感じる程に。

お茶を挽き終えたチチは悟空にお茶を差し出しながら、はにかむように笑った。



「 おら記憶がねぇだよ。13の時 気付いたらここに居ただ。」

「 そっか。」

「 噂では自分で志願してここに来たらしいんだけんど、おらが小せぇ時にここがどんな場所かってきっと分かんなかったんだべな。分かってたらどんな理由であれ絶対ぇ来ねぇもん。」

「 うん。」



記憶がない。
それはまさに地獄だった。

この屋敷以外の外の風景は何一つとして知らない。

知識として得たのは、本で見る世界だけ。
目にしたことがあるのは、空と太陽と月だけ。
聴いた事があるのは、賑やかそうな子供達の声だけ。

一度でいいから、この屋敷の周りに広がる世界を見てみたいと何万回祈った事か。
もっと言うなら、男共の操り人形から一刻も早く抜け出したい。



「 噂に過ぎねぇから、もしかしらおっ母やおっ父に売られたかもしんねぇだがな? 」

「 それは違ぇっ!! 」



悟空は身を乗り出して、否定した。
突然の大声だった為、驚愕するするチチは身体が仰け反る様に後退し正座が崩れてしまう。

僅かな沈黙の後。

身を乗り出していた悟空は“あっ”と一声上げ、我に返ったように元の位置に戻る。



「 大声出しちまってすまね。」

「 違うっておっ母やおっ父はおらを大事にしてくれてたって事け? 」

「 う、うん。おめぇみてぇなのを産んでくれた人がそんな悪い奴なわけねぇって思ってさ。」

「 そう…だといいなぁ。」



記憶にはない母と父。
大事に育ててくれたなら、それだけでいい。
そう思えるだけでとても幸せな気分になれた。

例え、現状が操り人形だとしても、過去に愛を受けた身体なら。


沈黙が続き、静まり返った部屋。
お互いの呼吸する音が、やけに響くようにも感じた。

あまりの静けさに羞恥が湧き、堪え兼ねたチチは口を開く。



「 ねぇ、悟空さ? 」

「 なんだ? 」

「 いつも来てくれるのは嬉しいんだけんど、なしていつも風呂入って寝て帰るだ? 」



この約三ヶ月間、とても不思議だった。

彼が普通の男性と違う事。
欲望のまま触れて来る男性とは違うのだ。

もっとも彼は潔癖なのかもしれない。

遊女は汚れている。
どこの誰か素性の知れない男性と寝る軽い女。
誰にでも股を開く金に溺れた女。

そう思われても仕方ないのが遊女だ。



「 駄目なんか? 」

「 駄目じゃねぇけど、理由あるんだったら知りてぇなって。」



例え傷付く結果だったとしても。

遊女のお前なんか抱けるわけないだろと言われてもいいから。
毎週足を運んでくれて寝て帰るだけの訳を聞きたい。


僅かな沈黙の後、悟空は腕を組んで悩んだ末、真剣な眼差しを向けてきた。



「 オラ、好かれてもねぇのに抱けねぇよ? 」

「 ……? 」

「 オラ、チチの事 好きなんだ。」



初めて、名前を呼ばれた。
初めて、好きだと言われた。

ときめかないわけがなくて、胸が想像以上にドクドクと震えて波を打つ。


今までに感じた事のないこの感情の正体はなに?
これがまさか…。


驚愕と動揺を隠し切れないチチに困った様で笑う悟空。



「 好きな女は大事にしてぇし、女は大事にしろってじっちゃんにも教わった。
もし抱かれたいだけならオラを指名客から外したほうがいいぞ?
オラ、チチに本気で好きになって貰えるまで、絶対手は出さねぇけどここには来ちまうから。」



底抜けな明るさでケラケラと笑う悟空。
例えるならば、太陽だ。


男性の操り人形でしかない、汚れた女。

今まで沢山の男性に愛されてきたけれど、心の疼きが満たされた事なんて一度もなかった。
心がこんなにも揺さぶられて、高鳴る事なんて一度も感じたことはなかった。
男性に初めて身体を奪われた悪夢の日から、私の心も散ったのだと思った。

大事にしてくれる男性なんて現れないと。
汚れた女をこんな形で愛してくれる男性なんて存在しないと。


そう思ってた。
彼という存在に出会う前まで。



この抑え切れそうにない溢れる思いはきっと 恋。


そう分かってしまった今、
この鼓動と想いの閉じ込め方を私は知らない。


遊女である前に、私は女なのだと気付かされた瞬間だった。









彼だけにときめく、謎の鼓動。
彼をもっと知りたいと言う、謎の欲求。
彼と一緒の時間を過ごしたいと言う、謎の我儘。

その正体は、恋でした。

初めての恋は分からないことだらけで。
封じ方すら分からない不器用な恋。


私の恋の行方は一体、どこに繋がっていますか?







籠の中の鳥
〜 感情の名は。〜






2018.03.25




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