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灰の塔
名前のない生き物がいた。
彼にあるのはその身と、膨大な数の書物と、誰が造ったのかもわからない大きな塔だけ。
草木の絡み付いた緑の塔の周りには、たくさんの獣の住み着く穏やかな森が広がっていて、彼は塔の上からそれらを眺めることが好きだった。
時は流れる。
何千も命の星が流れ、春に死んだ小鳥の亡骸が土に還り、夏に大輪の花を咲かせる。
巡りめぐる生命の中で彼だけが朽ちず生き続けていた。10年経っても、100年経っても。彼の命だけが終わらない。
しかし、一人で生きる彼にはそのような命の差は気に止めるようなものでも無かった。
あるとき森に人間がやってくる。人間の名前はミレ。そびえ立つ塔に惹かれて森に足を踏み入れた旅人だった。
ミレは塔の足元であの生き物と出会ってから、毎日のように彼のもとへ来るようになった。ミレの若い好奇心故のものだった。
語りかけ歩み寄ろうとするミレの姿に、彼は段々と警戒を解くようになった。彼が持ってきた書物をミレが声に出して読み、彼がその言葉の意味を想像する。そんなミレとの交流が彼に心を与え、彼はミレと共にいることに喜びを感じるようになっていった。
彼が獣の姿を捨てて人の姿を真似るようになってから、二人は一層心を交わすようになった。様々な国を巡っていたミレは彼に人間の言葉を教え、本を読むための文字を教えた。
彼は楽しそうに旅の話をするミレを見て笑うようになり、獣の亡骸に触れては涙を流すようになった。
こうして名前もない生き物はミレを通じて、世界をもっと暖かく見るようになった。
「きみがいるこの森が、ぼくはすきだなあ」
「大切な人には花をあげるんだ。きっと喜んでくれるから」
「ほら、ぼくと同じ名前の本を見つけたんだ」
「きみと出逢えてよかった」
夜空の星が一際明るく瞬いて流れ落ちた夜、彼は塔の傍に小さな墓を立てた。
そこには、いつかの小鳥のように生を終えた旅人が眠っていた。
老いて背を丸めた小さなミレ。その隣で笑っていた彼は、やはり60年経っても若々しいままで、二人が出会ったときのミレの姿そのものだった。
「ミレ、ぼくも、きみと出逢えてよかった…ありがとう」
ミレとの死別は彼に深い悲しみを残した。
ミレの死後、人と関わり生きていくことを知った彼は時折森の外にある村に顔を出すようになった。
そこで人のように振る舞い過ごすことで、ミレの見ていた世界を知れるような気がした。
そんな彼にとって穏やかな日も長くは続かなかった。どれだけ月日を重ねても老い衰えない彼の姿を見た村人たちが、いつからか彼が不老不死であると語り出したのだ。
生きることに執着した村人たちは、森へ火を放ち彼を襲った。
ミレが好きだと言った森が燃えていく。煙に巻かれた獣たちは力尽き、鳥たちは皆飛び去ってしまった。何故こんなことをするのかと嘆いた彼の言葉も村人たちには届かなかった。
「不老不死はどこだ」「お前の血肉が――」
響く怒号に打たれ、彼は人間に失望した。
彼は絶望と憎悪の中で呪いの言葉を紡ぐ。
腕を切られようが、腹を刺されようが、首を切られようが、大切な人に貰った言葉で、大切な人のその姿で、呪いを吐き続けた。
いくら斬れども生きている彼を村人たちは恐れて塔に封じたが、その多くは彼によって殺された。辛うじて逃げ帰った数人は、不思議なことに一切の言葉を失った。故に森の中で起こった悲劇を正確に語り継ぐことが出来る者はおらず、何も知らない村人たちは、燃えて灰色になった塔を"悪魔の棲む塔"と恐れて近寄らなくなった。
穏やかだった森は跡形もなく踏み荒らされ、無惨にも焼けてしまった。棲んでいた獣や鳥たちは、殆ど森へ帰って来なかった。
閉じ込められた彼は一人、身体中に出来た傷と負の感情に苛まれた。
ミレと過ごした平穏な日々はもう何処にもない。人間は彼を受け入れなかった。
塔の窓から見える色褪せた景色は、彼の心中を酷く抉るものでしかなかった。
長い時を冷たい塔の中で、孤独に抱かれながら過ごす。そのうち彼の感情は薄れて行き、やがてミレと出会う以前のように心をなくしてしまった。
そうなればもう、過去の優しい記憶も、あの悲劇も全て、ただの出来事に過ぎなかった。
いくら書物を読んでも、いくら星空を眺めても、何も感じない。関心を無くした記憶が薄れていく中で、若い旅人と瓜二つの体と、その身に残る沢山の傷痕だけが消えることなく、何十年も残っていた。
それから100年あまり経った。
長い時の間で彼は様々な記憶を失ってしまっていた。
大切だった人の名前も、心を無くした理由も、自分がそれを望んでいたことも。
塔の窓から見える周りの森は、焼かれた時と比べて随分と生き物の気配がするようになっていたが、まだあの旅人が好いた姿とは程遠い寂れたものだった。
ただ本を読み、日が沈めば星を眺める。気が遠くなるほど繰り返される日々。
そこに変化をもたらしたのは酷い雨の日の小さな訪問者だった。
閉ざされていたはずの塔の扉を開き、たった一人入ってきた人間の少女。心の声が聞こえてしまう故に、故郷の村で迫害された彼女の名前は「キーノ」と言った。
塔から出られなくなったキーノは彼を恐れていたものの、関わるうちに彼が酷い者ではないとわかった彼女は、彼を「館長」と呼び歩み寄るようになった。
心の無い彼の静かさにキーノは惹かれ、またキーノの優しさと感情に触れることで彼は再び心を取り戻していった。
彼がまた感情をもつようになったとき、キーノは彼の心の声から過去にあった悲劇を知ってしまう。それがきっかけで彼は自分が心を取り戻していることを自覚し、"心の声が聞こえればキーノは自分を恐れてしまう"のではないかと深く悩んだ。いつの間にか彼は、キーノと過ごす日々に、ミレと出会ったときのようなささやかな幸せを感じていた。
ところが、キーノが彼の悩みに気付く前に、彼は自ら心を封じ込めてしまう。
キーノは彼にそんな決断をさせてしまった、そして心の声を聞くことが出来るのに気付けなかった自分を責め、悔やんだ。
心を無くした彼は、自分を責めて泣くキーノを理解出来なかった。彼女が何を想って涙を流すのかも、悲しいという感情もわからなかった。
「館長、わたしここに帰ってきますから、待っててくださいね。絶対ですよ!」
いつまでも泣いてられないと決心したキーノは、彼に黙って塔の扉を押した。
開かなかったはずの扉はいとも簡単に彼女を外へ出した。キーノはそのまま森を抜け、両親と会うために自分の故郷であるあの村へと戻った。
キーノは彼と過ごすために、母と父に別れを告げに来たのだった。
日が沈みはじめた黄昏時。塔の扉はまたあの雨の日のように、村から駆けてくる彼女を迎え入れた。
おとうさん、おかあさん。わたし、大切な人ができたの。みんな塔の悪魔って呼ぶけど、あの人はわたしのために自分の心を捨てちゃうくらい優しい人なんだよ。だから今度はわたしがあの人の心を守りたいの、ずっと。…今まで育ててくれてありがとう、お世話になりました。
悲劇はまた繰り返されようとしていた。
キーノが塔で暮らすことを決めてからも、二人の生活は以前と変わらなかった。
ただ少しだけ、話すことに慣れた彼が饒舌になり、本をよく読む彼女がいろんな知識を吸収したけれど、塔の扉は彼女が開けたあの日以来やはり二人のどちらが触れてもびくともしなかったし、彼に心が戻ることは無かった。
そんな代わり映えのしない日々に亀裂を入れたのは彼の記憶の中で何かと重なる怒号。
それはキーノが村に戻った際、塔の悪魔の存在を知った村人たちのものだった。保身の為に彼らは扉の封を解き、悪魔を討とうと塔に乗り込んできたのだ。
それを知ったキーノは彼を守る為に、伝承の悪魔と本当の彼は違うのだと弁解と説得を試みたが、村人たちが彼女の言葉を信じることはなかった。
不信感に駆られた村人たちの武器の矛先が彼女に向いたのを見て、悪魔と呼ばれた彼はただ彼女を失いたくないと思った。
「キーノを守りたい」
その一心で、彼は非力な人の形を捨てて本来の獣の姿で村人の前に飛び出した。
矢が放たれても、槍が刺さっても、キーノを翼で庇ったまま牙も剥かない彼に村人たちは動揺し、皆塔を出ていった。
人の姿に戻った彼は彼女に、過去の出来事、自分が悪魔と呼ばれるようになった所以も全て話し、キーノは心の声が聞こえようとも彼から離れはしないと告げた。
ふと聞こえた彼の心の声にキーノは穏やかに笑った。
「館長、傷がまだ治ってないんだから出歩いちゃだめです」
「…随分と待たせたけど、花を添えたかったんだ」
「お墓…?」
「ぼくの大切な人、だよ。彼がぼくに教えてくれたんだ、大切な人には花をあげる…そうすれば、きっと…喜んでくれる」
「…素敵な人なんですね」
「馬鹿みたいに明るい、旅人だったよ。……傷が塞がったら、きみに花をあげたいな」
「ふふ、楽しみにしてますね」