「ナマエ」
 訓練後、宿舎への帰り道。囁くような呼び声がした方を見ると、物陰から久しい人物が顔を覗かせていた。
「ヘクトル様!? なんて場所に……」
 新侯爵となったヘクトル様は忙しく、侯弟時代には頻繁に行っていた騎士訓練の視察ーー殆どの場合飛び入り参加を伴うーーもなくなっていた。今も公務の間なのだろうか、正装をしていた。
 汚れたら大変だ、と憂慮する私をよそに、ヘクトル様はどこか悪戯っぽい表情を浮かべて手招きをした。
 不審に思いながら近づいていくと、後頭部に手を回された。と、思うと、そのまま唇が塞がった。
 私が固まって何も出来ないでいると、幸か不幸か、すぐに解放された。
「今からサンタルス行きなんだよ。じゃ、またな!」
 そう言って片手を上げると、ヘクトル様は踵を返して駆けていった。
 私は呆然としてその後姿を見送るだけだった。