93:全てが虚言
いつも以上に長く感じた部活もやっと終了した。
今日は日誌担当が桃井さんで鍵担当が山田さんであり、私は当番ではない。
二人に軽く別れを告げた後、更衣室を後にした。
いつも当番でない時は、二人が終わるまで待っていたり、黒子達と一緒に帰ったりするのだが、今日はさっさと自宅に戻って寝たい。
疲れは足までやってきていて、こうやって歩くのも何となくだるかった。
体育館と更衣室は直結している。
基本は渡り廊下を通って帰るのだが、本来は体育館横の道を使ったほうが校門までの近道となる。
誰かと帰るとき以外は、いつもその道を使っていた。
…このルート、私以外に利用している生徒は居ないのかと思えるほど誰かとすれ違ったことがない。
特に意識もせず、体育館の角を曲がったところで。
…酷く目立つ長身の人物がすぐ近くに立って此方を見ていた。
「…わっ!」
誰かが居るなんて思ってもいなかったので、過剰な反応を取ってしまった。
それに少し恥じながらも、ただ一点、私だけを見ている目の前の紫原敦を見つめ返す。
奴がこのルートを使っているとは思わなかった…。
いや、これは。待ち伏せされていたと思っても良いかもしれない。明らかに私の通行を遮っている。
「び、ビックリした…」
「…」
「…何か用?」
とりあえず要件を訪ねてみた。
久しぶりに言葉を交わす気がする。
ただただ私を黙って見下げている2mの長身を越す勢いのある彼を、初めて怖いと思ってしまった。
「…今日」
「うん」
「なんで、目逸らしたの」
「…?」
目を、逸らした。
何を言ってるんだ、と思った直後、直ぐに部活内での自分のとった態度を指しているのだと理解した。
理解した後で、今度は違う意味で『何を言ってるんだこいつは』と苛立ちが芽生え始める。
「…それって、今日の部活の事言ってる?」
「それ以外に何があるの」
「……自分の事を棚に上げておいて?」
少し口調を強くして伝えれば、あちらも分かりやすく眉を潜めていた。
「そっちだって、私の事を散々避けていらっしゃるじゃあないですか」
「…」
私の方から告げてしまえば、あちらは黙りこくってしまった。
何だよ、何が言いたいんだよこいつは。
「…逆に聞くけど、何でいきなり余所余所しい態度取るようになったの?」
「…」
こちらが聞いても、あいては黙りを決め込んでいる。
一応、少しだけ待ってみたのだが相手が口を開かせる様子はなかった。
「…私、もう帰るよ」
そう言い退けて、奴の隣を通り過ぎようとした時。
大きな掌が降ってきたかと思えば、私の左肩を掴まれ強い衝撃を背中で感じた。
ごつごつとした紫原敦の手が、私の頬を掠める。
壁に押し付けられているのだと現状把握した後、すぐ頭上から言葉が降ってきた。
「聞いてるのはこっちなんだけど」
痛みを感じるほどでは無かったのだが、私が身動き取れない程度の力が込められている。
上を見上げれば、至近距離に奴の顔があった。
「…いや、元はと言えばそっちが先に」
「あんたも随分酷い事やってくれるよね」
私が咄嗟に告げる前に、奴が割り込んで重い言葉を吐いてくる。
表情は自嘲するわけでも、眉を思いっきり下げるわけでもなく、ただ真顔で私の瞳を覗き込んでいた。
「全部わかってるくせに」
そう、奴は断言する。
必死に右手で、私の肩を捕らえる奴の腕を退けようとした。
もちろん、本気を出されてしまえば私の力で敵う相手でないことは分かっているが。
「…少なくとも、紫原敦がまた素っ気ない態度を取るようになった理由はわからない」
本当の事を告げる。
それは相手にも伝わったようで、でもやはり納得していないような顔だった。
「…分からないんだ」
「検討もつかない」
「…分かってないって、そっちは思ってるんだねー」
「…はい?」
言葉の意味がわからなくて、思わず聞き返してしまう。
大丈夫か?こいつ、日本語が一時期わからなくなってないか?それとも私がおかしいのだろうか。
「ばればれだし」
「…ごめん、さっきから何言ってるのか全然…わからん」
いいからこの手を離せ、と初めて奴の手を掴んだ。
それに分かりやすく相手が震えたので、咄嗟に手を引っ込める。
「…俺、言ったじゃん」
「何が?」
「あんたの考えてること、分かんないって」
あちらから、あの時の話題を出してくるとは思わなかった。
正直言うと、気まずくなる話題ワースト2位に入っている。
「…」
「…でも、ちょっと離れてみればあんたの考えている事、分かってきた気がする」
…なんだよ、それ。
「…私は」
ギリッ…と、爪が食い込まない程度に相手の腕を握る。
紫原敦は表情ひとつ変えない。
「紫原敦が何を考えているのか、まったく分かんない」
あの時の言葉を、そっくりそのままお返しする。
けれど変わらず、相手は表情を変えないまま。
むしろさらに顔と顔との距離を詰めてきた。
奴の長い髪が、少しだけ私の顔に降ってくる。
「それ、俺の目を見ながらもう一度言ってみてよ」
「…なにそれ」
「赤ちんの真似」
何故か皮肉気に答える奴に対し、久しぶりに舌打ちをしてしまった。
「…回りくどいね」
「じゃあ言葉にしてれば良かったのー?」
「…」
「一番困るのは、あんたのくせに」
何言ってるんだよ、この人は。
そんなこと言ったって、紫原敦はもう…
「…」
咄嗟に、彼女の名前を出そうとしたところで引っ込めておいた。
今ここで言ったって、しょうがないことだ。
「…この話はもう終わり」
短いため息をついて、そう告げた。
もちろん相手は納得のいかない顔をしている。
「あんたはいつもそうだよね。ちょっと都合が悪くなると、わからない振りをして、いつも逃げようとして」
「…」
「イライラする」
「都合が悪くなると黙りなるのは紫原敦も一緒でしょ」
「あんたよりマシだしー」
前まで泣き顔を見せていたのはつい最近だっていうのに、あの時の紫原敦はどこへ行ったのだろう。
今目の前にいる男は、私と同じ身体年齢をしているとは思えないほど、有無を言わせない迫力があり、少年らしさを感じさせない。
表情は鋭いものでは無かったが、紫の瞳は私だけしか写っていない。まるで飲み込まれそうだ。
…空気が、変わった気がした。
肩を抑える力が一段と強くなる。後ろにある壁がひんやりと冷たい。
何か尋常じゃないものを感じ取って、空いている両の腕で奴の鳩尾を思いっきり突いた。
あまり力はある方でないが、相手は油断させていた為か拘束が一瞬だけ解ける。
その隙をついて、直ぐにその場を駆け出した。
…相手が相手なので、その気になれば直ぐに追いつかれるだろうと思ったのだが、紫原敦が後を追ってくることはなかった。
それがわかった後でも、全速力で校門まで駆ける。
途中、川田さんとすれ違った。
泣きそうになった。
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