92:濁り
翌日、熱も下がり少し緊張しながら学校へ登校した。
熱が上がり始めた頃から気がかりだったのは、あの噂が広がっているかどうか。
どうしよう、怖い女の人から呼び出しとかあったら。
そんな事を通学路を歩いている最中からずっと気にしていたのだが、特に変な視線を感じることもなく、学校に到着した後もいつも通りだった。
自分のクラスへと辿りつき、ほっと息を吐きながら席に着く。
…特に噂は広がっていなかったようだ。
廊下で見たことがあるちょっと派手な黄瀬くんファンの女子生徒とすれ違ったのだが、特別何かを感じ取ることもなかった。
私の心配し過ぎだったのかな。
それならそれで、大歓迎だ。
鞄から教科書やノートを取り出していると、既に来ていた赤司くんがこちらまでやって来た。
「おはよう」
「あ、おはようございます。昨日はありがとうございました」
「いや、俺も邪魔して悪かったな。体調はもう良いのか」
「バッチリです」
そう言い張れば、それは良かった、と彼は微笑を浮かべながら隣の席に座った。
…ちなみに、この席は彼の席ではなく、お母さんの席である。
ちょっと首を傾げていると、赤司くんは持っていた一冊のノートを私に手渡してきた。
「…?これは…」
「昨日と一昨日の分の授業、ノートにまとめておいたから、後で見ると良い」
「えっ、本当ですか…!」
おずおずと受け取りながら、ノートをめくってみる。
最初に目に入ったのは、驚くほど達筆だったということ。だからこれ、中学生じゃないって。
長すぎず短すぎず、丁度良い文章の量で要点だけちゃんと書かれている。
「あ、ありがとうございます…すみません、忙し中…」
「俺も復習になったから良いよ」
そのあと軽く雑談し、お母さんが教室にやってきた頃に、彼は今度こそ自分の席に戻っていった。
その姿をなんとなく見ていると、お母さんが不思議な顔を浮かべながら席に座った。
「おはよ。風邪は大丈夫?」
「おはよー、もう平気だよ」
「今さ、この席に赤司が座ってたよね?」
「うん」
「仲良いねー」
「同じ部活だからねー」
そう軽く交わしていたのだが、お母さんはまだ赤司くんの話を続けようとした。
「いやでも、なんか変わったよね?夏休み終わったぐらいから」
「そうかな」
「そうだよ。入っていけないし、俺」
「今までも会話に乱入したことないでしょ」
「そうだけど」
…確かに、彼に言われなくてもそんな気は若干している。
2年の頃から徐々に…ではあるが、最近は特によく話すようになったし、なんだか親密にしてくれている気がする。
もちろん、部活内での態度は殆ど変わりないが。
それでも、まさかお見舞いに来てくれるほどになっていたとは…。
普通なら、嬉しいと思うところだけれど、なかなかそうはいかない。
むしろ、これってマズイんじゃないの、と思えてくる。
だからといって、変に避けようとするなんて小学生みたいなマネはできないし…。
行き場のない悩み事に、思わず大きなため息を漏らしてしまった。
HRの時間。
学級委員である赤司くんと女子生徒の二人が教壇に上がり、黒板に白い文字を書き始めた。
『文化祭の出し物について』
…そうか、もうそんな時期になったのか。早いな。
去年は色々あったものだ。文化祭の劇を即興でやったんだっけ。よくやれたな。今でも凄いと自分でも思う。
確か2組の時は、いろんな案を皆で出し合って多数決で決めていた。
あの時は隣に黒子がいて、後ろには紫原敦がいて。…楽しかったなあ。
ちょっと感傷に浸っていると、一人の男子生徒が手を挙げて発言した。
「文化祭当日は中間テストが2週間後に控えているため、個人の負担を減らすべきだと思います」
その言葉に続いて、教室の中の殆どの生徒が拍手をしていた。
私とお母さんは呆気にとられて口をぽかんと開けていた。
嘘だろ。文化祭は年に一回の、しかも学生時代にしか経験できないっていうのに。
テストを優先させるって何処まで真面目に突き進むんだ、この人たちは。
お母さんがポツリと、「俺、演劇を希望しようと思ったのに…」と呟いていた。
…うん、彼の気持ちもよくわかるのだが、このクラスに演劇ってちょっと苦しいと思う。
結局多数決の結果、出し物は休憩所に決まった。飲み物と、見張り当番を2人担当させるだけの簡単な出し物だ。出し物と呼んで良いのか。
「…赤ずきんって、去年何した?」
「焼きそば」
「いいなー、俺も食べ物屋とかやってみたかったんだけど」
「来年期待するしかないねー」
本当は私も、何か提案したかったのだが、クラスの大半が休憩所が良いと言い張ったので何も出来なかった。…勿体ないなあ。
そのままHRは終了して、昼休みの時間に入った。
今日も、弁当は用意していない。
財布を手にして売店に向かう。
向かう途中は5組を通りかかる。窓からは騒がしい5組の生徒たちが始まった昼休みを満喫しようとしていた。
既に女子に囲まれている黄瀬くんを横目に、ふと一番後ろに居るはずの奴の席を探した。
…珍しく、まだ席についている。いつもは私が廊下を通り過ぎる前にどこかに行ってしまう癖に。
なんであんな態度を取るんだろう。避けられ始めた理由に関しては本当に見当がつかない。
本当はちゃんと面と向かって話したいのだが、この廊下と教室の境を踏み切る勇気が出てこなかった。
入り口から一歩手前のところで様子を伺っていると、此方からは死角になっている同じく入り口近くの席にいた女子生徒集団の話が耳に入ってきた。
「ねえねえ、大ニュースがあるよ!」
「なにー?お腹すいたんだけど。早く食べよーよ」
「まあ聞けって。紫原くんさ、彼女できたらしいよ」
………な、なんだと…!?
何かとてつもない程の重いものが、自分の頭の上にズドンと降ってきたような錯覚を覚えながら、もう一度聞こうと耳を澄ませる。
「うそっ!?」
「え、え、何それ!?初耳!!!」
「相手は!?誰っ!!!?」
「まさか最近一緒にいる1年…?」
「みたいだよー」
やっぱり相手は川田さんで。
…うん、それ以外だったら逆に驚くけれど、それでも。
目の前がぐらぐらする。まるで貧血を起こしたようだ。
黒子の時と似た様な、違うような、よく分からない目眩だった。
「それってどっちから!?」
「なんかね、1年の子から言ってたらしいよ。昨日の放課後」
「…で、紫原くんはそれにOKしちゃったわけ!?信じられないー!」
「ていうか、その情報はどっから来たの」
「知らない」
「…なら大丈夫!確信ないから大丈夫!!振った可能性高いし!!」
「変な期待しないほうが良いよー」
笑い声や軽い悲鳴が耳に良く響く。
それが、遠い反響になって自分の脳にちゃんと届いているのかもあやふやになった。
軽い目眩を覚え、すぐに5組前廊下から立ち去る。
…仲が良いと思っていたからこそ、遠くに行ってしまう紫原敦が…少しだけ嫌だと思った。
…本当に、都合の良い考えだけれど。
結局その日は、売店で何も買わずに教室で一人暇をしていた。
途中でお母さんと会話を交わしていると、気も殆ど逸れてしまった。
部活の時間、更衣室に私が最初にたどり着き、次に桃井さん、その次に1年の子と川田さんが二人でやってきた。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様。今日も頑張ろうね」
いつも通り明るく答える桃井さんに対し、私自身は「お疲れ様」と小さく笑うことしかできなかった。中学生かよ。
川田さんはいつも通りで、すぐに準備に取り掛かっている。
そんな彼女を横目に、自分も制服を脱いで体操着に着替えた。
今日こなすメニューを桃井さんと確認していると、同じ1軍マネージャーである川田さんも輪に入ってくる。
「みょうじ先輩、風邪はもう大丈夫ですか?」
「…ん?うん、もう平気だよ。ありがとう」
「良かったです。無理は禁物ですからね!」
そう笑顔で答える彼女に対し、やっぱり良い子だよなぁと思わず苦笑を漏らしてしまう。
重く濁った感情が自分の中で渦巻いているのが凄く嫌だった。
…けど、相手が川田さんみたいに良い子なら、お父さんは悲しいけど任せるよ。
そう思いながら、部活に集中するようにちょっとだけ気を張った。
選手たちも全員揃い、いつもの部活が始まった。
インターバルを最初に済ませ、3年が引退した今では新たなチームの構成を組み立てるよう、少し挑戦的な練習が組み込まれている。
毎度ながら吐きそうになっている黒子に気を使いながらも、マネージャー達も忙しく身体を動かしていた。
途中休憩に入り、選手たちにスポドリを配る恒例の時間となる。
近くの人に手当たり次第配っていると、川田さんが少し遠くにいた紫原敦にスポドリを渡しているのが目に入った。
ここからじゃ会話はもちろん聞こえない…が、少なくとも川田さんはいつもより頬を緩ませている。
そんな二人を、意識されない程度に見ていいたのだが…何故か紫原敦と目が合った。
それはもう、バチリッ!と音がしたみたいな衝撃で。
咄嗟に目を逸らして慌ただしくスポドリを配り始めた。もう殆どの人に配っちゃってるけど。
…よくよく考えたら、あいつと目が合って、私から逸らすのって初めてじゃないか…?
…やってしまった。絶対に自分からはそういった態度をとらないように気を遣っていたのに。
ちょっとだけ溜息をついていると、いつの間にか隣にいた桃井さんが声を掛けてきた。
「なまえちゃん…大丈夫?なんだか今日元気無いみたいだけど」
「…息子が嫁に行くんだよ」
「…???」
「…ううん、なんでもない。大丈夫だよ」
「本当?…ねえ、ミドリンも今日のなまえちゃん元気ないと思わない?」
これまた都合よく近くにいた緑間に対し、何故か桃井さんが話題を振った。何故振ったし。
案の定、話題を振られた緑間はちょっと嫌そうな顔をしていた。
…が。
「…体調が優れないのなら、早めに赤司に報告しておくのだよ」
以外にも気を遣ってくれた。びっくりした。
「うん、無理そうだったらちゃんと言うね。ありがとうバーコード」
「もう一生お前とは口をきかないのだよ」
「ごめん、もう言わない。許して」
私たちの会話に、桃井さんはずっと笑ったままだった。
けれど後で、「でもなんでバーコード?」と聞かれたので解説しようとしたら、緑間からこの上ないくらい睨みつけられたので自重しておいた。
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