84:落ちた
『凄いね、本当にバーコードの本借りていった』
『…』
『読んでくるかな?』
『赤司なら読んでくるだろう。あいつは嘘を吐かないのだよ』
『えらく断言するね』
『本当の事だ』
『ほー…紳士的な上に嘘もつかないなんて、本当凄い人だね』
『…お前の目からはそう見えるのか』
『え?』
『赤司はごく稀に不安定になる時がある』
『…不安定』
『別にお前には何も期待していないが、たまには青峰だけではなく赤司にも目を向けてみるのだよ』
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校門までたどり着いたところで、「あっ」と思わず声を漏らす。
一緒に帰宅しようとしていた桃井さんと山田さんは、私の声に首を傾げた。
「どうかした?」
「今日の日誌担当、私だった…。川田さんから変わったんだった」
今日は川田さんはどうやら体調不良で早退したらしい。
昼休みに偶然遭遇した内部のコーチから、運悪くも本日担当だった川田さんに代わって私が指名された。
…すっかり忘れてしまった。
「それじゃあ…戻ろっか?」
「あ、いいよいいよ。今から書き始めたら30分くらい掛かるし。2人は先に帰ってて」
「でも、一人で大丈夫?」
私はお嬢様か。
夕方といってもまだ夏は抜けきっていない季節だ。外は放課後しばらく経った後でも明るい。
「大丈夫だよ。それじゃ、また明日」
遠慮させてしまうのも悪いと思い、急ぎ足で校舎の方へと向かった。
最初は渋っていた2人も、おずおずと帰路についた。
人気の無くなった夕方の校舎は、赤いぼやけた明かりが不気味に映る。
まだ明るい、といっても帰り着くころには日も沈んでしまっているだろう。
さすがに夜中の校舎を好んで歩くつもりはないので、急いで更衣室へと向かった。
こんな時間はもう誰も居ないだろうと踏んでいたのだが、そうでもなかった。更衣室の明かりが外に漏れている。
まだ誰か残っていたのだろうか。黒子はもう帰ってしまったことは確認しているし、特に思い当たる人物がいない。
いるとすれば、緑間あたりだろうか…そんな事を考えながら軽くノックをする。
返答が無いのを確認して、ゆっくりと扉を開けた。
薄暗い更衣室のなかで、誰かがベンチに座っている。
後ろ姿で顔は窺えなかったが、肩が緩やかに上下している事から、おそらく寝てしまっている事が予想できた。
暗闇に慣れてきて、色彩を判別できる程度になる。
そこにいたのは、赤司征十郎だった。
…意外だなと目を軽く見開きながら、起こさないように恐る恐る中へと入った。
更衣室には小さなデスクが用意されている。
大体マネージャー業が終了した頃には選手たちも着替え終わって退室している為、いつもこのデスクで日誌を書いていた。
さて、目の前のこの人をどうしようかと悩む。
彼がすすんで更衣室で睡眠をとるとは思えなかった。時間も時間だし、恐らくうっかり眠ってしまったのだろう。
このまま放っておくのは論外として、だからといってこの穏やかな眠り顔を妨害してしまうのも忍びない。
しばらく悩んだ後、日誌を書き終わった後に起こそうと決めた。
デスクに備わっているスタンドライトをつける。
暗い部屋の中で、オレンジ色の淡い光がデスクの周りを灯した。
さあ書くぞ、とデスクの上にある日誌を手に取るが、気になってもう一度後ろを振り向く。
赤司君は変わりなく腕を組みながら睡眠に身を任せている。
いくら今がまだ温かい時期といっても、部活後の汗を掻いた後に寝てしまうのは風邪をひいてしまうのでは…。
正直、彼が風邪をひくなんて想像できないのだが、まあ、彼も人間だ。
彼だっておたふく風邪や水疱瘡を経験してきたはずだ。経験してなかったら逆に危ない。
共通のロッカーから薄手のブランケットを手に取る。
そして起こしてしまわないように、ゆっくりと肩に掛けた。前のめりになっていたので、ずれ落ちそうにはない。
これでいいだろうと自己満足に浸り、今度こそ日誌を書き始めた。
ボールペンの音が小さく響く空間に、ほんの少し緊張しながらも筆を運ぶ。
今日はどんな練習をしたっけ。
全中が終了して3年生も引退してしまい、しばらく部活内容はいつも以上の厳しさはない(と言っても鬼畜な事には変わりないが)。
頭を捻りながら部活の始まりから終わりを一つずつ辿る。
数分後、日誌も半分書き終わった頃、後ろで布を擦る音が聞こえた。
ちらりと後ろを覗くと、赤司君が右手で軽く目を擦っていた。起きてしまったようだ。
肩に掛けられたブランケットを確認すると、ゆっくりと視線をこちらへと向けてきた。
いつも完璧に思える彼の寝起き姿は、恐らく大変貴重だ。
「…みょうじか」
「おはようございます。すみません、後で起こそうと思ったんですけど…」
「…これはみょうじが?」
ブランケットを軽く擦りながら私に視線を送ってきたため、苦笑しながら頷く。
「ありがとう」
「風邪をひいたら遅いですからね」
ブランケットを畳み始めた彼を横目に、再び日誌へと向かう。
直ぐに帰るだろうと踏んでいたのだが、彼はロッカーに仕舞った後再びベンチに落ち着いた。
もしかして着替えるのだろうか。
「あ、もしかして着替えますかね」
席を立とうとしたのだが、彼はそれを軽く制した。
「いや…みょうじはいつ終わるんだ?」
「日誌ですか?あと10分くらいですけど」
「それまで待つよ」
「えっ」
何で。という言葉を呑み込む。
厳しさと同時に紳士的な振る舞いも彼の特徴といえる。
一応時間的には遅いので1人になるのを防いでくれているのだろう。それでも申し訳ない気持ちの方が勝った。
「私は別に大丈夫ですよ。赤司君は家に帰ってちゃんとベッドで寝てください」
「…人の事を心配する前に、まずは自分の事を顧みるべきだな。みょうじの場合は」
「…?」
「俺の事はいいから。早く済ませてしまうといい」
笑顔でそう言われてしまえば、これ以上物言う事は出来ない。
ぶっちゃけ、2人っきりで気まずいのが本音なのだが。勿論そんな事を言えるはずもなく、此方も笑みを返しておいた。
ボールペンを握り直して向かい合うが、後ろからの視線を感じてなかなか思考が働かない。
うだうだをペンを空回りさせていると、赤司君はベンチからすぐ私の後ろへとやってきた。
「どこで詰まっているんだ?」
「…ここの欄と、ここが…いつも時間掛かってしまって」
「…それなら、こんな言い回しでいいんじゃないか」
そう告げながら傍にあったメモ帳に、短い文章を綴り始めた。
短いながらもよく纏められた文章に、これが語彙力の差かと思い知る。
「この文章を使えば良い」
「え!…いいんですか?」
私が考えたものでは無いと一発で分かりそうだが。それより、彼が考えたものをそのまま使ってしまう事に畏れ多くなった。
「偶にやる分なら良いんじゃないかな」
マジかよ。
なんでも完璧主義だと思っていたのだが、やはり私が元から知っていた人物像とは何かが違う。
本人が使って良いと言うのであれば、有難く使わせて頂く事にした。
その他諸々は手早く書いてしまい、最後に日付を書いて日誌を閉じて軽く息を吐く。
「すみません、10分過ぎちゃいましたね。お待たせしてしまって…」
赤司君の方を振り向いて詫びを入れようとしたが、何故か彼は私の目をじっと覗いていた。
何度か瞬きをした後、うん?と軽く首を傾げる。
「…やっぱり。薄っすらだけど隈が出来てる」
「え」
「寝不足か?」
思わず目元に手を置く。
確かに、最近色々と思うことがあって寝る前に云々悩んでいる事もあるけれど。
自分でも気付かない程度の隈にこの人は見破ったのか。凄いな。
…そうか、だから『人の心配をする前に自分を顧みろ』なのか。確かに説得力に欠ける。
「赤司君って本当に周りに目を配られていますよね」
「…それ、前もみょうじの口から聞いた気がするよ」
「そうですか?」
「ああ」
本当に、あの青峰や紫原敦と同じ歳とは思えない。育った環境だろうか。こんな中学生がいても良いのかと思ってしまう。
凄い…事ではあると思うけど、それと同時に気になることがあった。
…疲れないのかな。こんなにもいろんな事を背負っていると。
彼にとっては当たり前の事でも、それでも。
「…あの」
深く考える前に、勝手に唇が言葉を繋いだ。
どうした?と、赤司君は微笑を浮かべながら後の言葉を待っている。
こんな事、普段の自分だったら彼には言わない。
…いや、言えないと思う。思うっているけれど。
「この前、赤司君が…私に言ってくれたじゃないですか」
「…?」
「その、一人で溜め込まない方が良いって」
「言ったね」
「それって、私から赤司君にも言える事なんです…けど…」
ほんの一瞬だけ、彼は穏やかな表情から真顔を覗かせた。
やばい、何を言っているんだろう私。
正直言うと前からずっと思っていたことだけど、それを本人に言う馬鹿がいるか。馬鹿め。
しかし、やっぱり今のなし!なんて言える相手では無いし、そんな空気もまったく流れてない。
とにかく沈黙を作ってしまう状況は避けたいので、考えもせず本音を言葉を繋げた。
「…赤司君って勉強も凄いし部活もヤバいし超人かよって、私凄く憧れていたんですけど…たまに疲れないのかなって勝手に心配してしまって…」
誰か私を止めてくれ。
「私も赤司君ほど出来ないですけど、勉強頑張ってるつもりですし部活も出来るだけサポートを努めているとやっぱり疲れて高菜ラーメン食べないとやってられない時期とかありますし…」
絶対引いてる。絶対引いてるよこの人。
最悪だ。もう明日は学校休みたい。
畏れ多くて相手の顔を見れない。生意気だ、と思われているだろうか。
思ったとしても、彼なら決して表情に出さないだろうな。
「…だから、もしものもしも、辛いときがあったら、その時は…」
私に。
…言えるか、ばかやろう。
頭の中の煩悩な自分を殴って言葉を呑み込んだ。
やっちまったなあ…なんて溜息を吐きそうになりながらも、恐る恐る赤司君の顔を窺う、と。
「…何で笑ってるんですか」
何故か彼は肩を震わせながら、見たこともないような表情で私から目を逸らせていた。
いやいやいや、そんな反応は想定してない。
「いや、…みょうじは本当に高菜が好きだな」
「…はあ、まあ、愛してますから」
今度は隠すこともせず、顔に喜色が表れてるのが容易に解った。
「真面目な話かと思ったら……いや、やっぱりみょうじは面白いな」
「…」
馬鹿にされている、わけではないのだが。何となく腹立つのは気のせいだろうか。
私が変な事を言ったのは本当だけれど。
やっと笑いが収まり、赤司君は軽く息を吐いた。
そして、私の瞳をじっと覗きこんでくる。
「…ありがとう」
…彼からお礼を告げられたのは初めてではない。
それでも、今彼から出てきた言葉は今までのものと何かが違っていた。
とても小さな、耳を澄ませないと分からないくらい程の警音が鳴った気がした。
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