涙が枯れてしまうのではないかと心配になる。それほど長く、黄瀬は泣いていた。
火神にできることといえばしゃくりあげる背中を撫でることくらいで。無力な自分が歯痒くて仕方なかった。
「…なぁ、黄瀬」
ひっきりなしに聞こえていた泣き声が小さくなるのを待ってから、火神は口を開いた。
「まだ、なにもなかったって言うつもりか?」
最近の黄瀬はおかしかった。何も聞かないことも優しさだと思っていたけれど、いい加減もう限界だった。
「話せよ。何を抱えてるのか教えてくれなきゃ、力になることも出来ねぇよ」
一人で泣かせるために傍にいるわけじゃない。祈るように抱き締めれば、黄瀬が息を整える気配がした。
「検査結果…なにもないってのは嘘、なんス…」
なんとなくそんな予感はしていた。黄瀬に違和感を覚え始めたのは、部活中に倒れたあの頃からだったのだから。
「本当は…」
語尾が泣きそうに震える。けれど黄瀬は堪えて、真実を教えた。
「長期記憶障害、で…中学までのことしか覚えてられない。高校でのことは、もうすぐ、全部…」
消える。言って、黄瀬はまた泣き出した。
落ちる涙を胸で受け止めた火神は、突き付けられた現実を受け止めきれずにいた。
忘れてしまう。高校で出会ったことが、二人で築き上げてきたその全てが、もうすぐなかったことになる。
それは、目の前が真っ暗になるくらいに、恐ろしいことだった。
「どうにか…なんねぇのか…?」
すがる声はみっともなく掠れる。黄瀬はふるふると首を振った。
「どんなに頑張っても覚えてられない。今日のバスケだって、大我に声をかけることを思い付きもしなかった。今だって、大我の名前、が…!」
ごめん、と黄瀬は何度も繰り返した。黄瀬が悪いわけではないのに、優しい慰めの言葉は、出てこなかった。
「忘れたくないのに」
悲痛に叫ぶ黄瀬を、無言で抱き締める。
「一番大事なことを、覚えていることもできない…!」
大丈夫、なんて。気休めでも言うことは、出来なかった。


「火神くん!?」
画面いっぱいに埋まった不在着信の中から一つを選んで通話ボタンを押せば、すぐに焦った相棒の声がした。
「学校を無断で休むなんて、どうしたんですか!?部活だって…!」
「黒子」
らしくなく矢継ぎ早に言葉を重ねる黒子を、一言で制する。
「しばらく学校は休む。部活も…適当に言っておいてくれ」
「え?」
よりらしくないのは自分の方だろう。学校はともかくバスケは、火神の生活の中心にあった。けれどもう、良い。
「…悪い」
「火神くん!ちょっと待っ…」
言いかけたのを聞かずに強制的に通話を切る。そのまま電源を落とすと、役立たずな機械をテーブルの上に雑に放った。
「…はい」
2歩ほど離れた位置では、黄瀬がさっきまでの火神のように携帯を耳に当てている。
「ん、大丈夫っス。…はい」
長い睫が儚げに伏せられている。でも唇は、小さな笑みを描いた。
「すみません、センパイ」
黄瀬が病気のことを話したのは、火神と家族を除けば笠松だけだという。倒れた黄瀬を病院に運んでくれた張本人でもあるし、事情を知っている人がいないとフォローもできないためだろう。
「…ありがとう」
つまり、電話の向こうの笠松は理解しているはずだ。これが、今の黄瀬との最後の会話になることを。
「…本当に良いのか」
通話を終えた黄瀬に問う。記憶が失われることで、黄瀬の中から消えてしまう人はきっとたくさんいる。クラスメイトや部活の仲間、学校以外にだって、きっとたくさん。
「良いんス」
その全ての人たちに別れを告げることもなく、黄瀬は終えることを選んだ。
「大我だけいてくれれば、良い」
黄瀬の手から落ちた携帯が、床に落ちた。
「だから最後まで、傍にいて」
腕を上げる黄瀬をきつく抱き締めて、夢中で口付ける。きっと幸せだった。けれど。
残された時間が少ないことは、分かっていた。


2014/5/6

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