『実家に帰らせてもらいます』
テーブルの上にある書き置きを見て、火神はあくびをしかけた中途半端な口のままで固まった。
やや右肩上がりの癖がある、女のように綺麗な字は、見覚えがある、どころではない。
火神は少し考えると、バイクのキーだけを手にして家を出た。


疑惑


等間隔に同じドアが建ち並ぶ。その中から一つを選んだ火神は、隣の部屋を訪れるような気安さで、ドアをノックした。
ぱたぱたと住人がやって来る音がして、ドアが開く。
寝起きだったのだろう、頭を盛大に爆発させた高校時代からの友人は、火神を認めるとこくりと頷いた。
「正解です」
どうぞ、と促され中に入った火神は、綺麗に整理された部屋の中にある異物を発見した。全身を毛布に包んだそれは火神を見るなり首を引っ込めて、頭まで覆い隠してしまう。
「お前の実家は黒子の家なのか?」
火神は毛布の塊と化した恋人の隣に座ると、頭と思われる部分を撫でた。
「黄瀬」
名前を呼んでやれば、塊はぴくりと反応する。
黄瀬の実家は神奈川との境目にある。いきなりそんな遠出はしないだろう、という予想は当たったが、家出の理由は検討もつかない。
高校卒業を機に一緒に暮らしはじめて、もう半年になる。大学に程近いあのマンションを黄瀬は気に入っていたし、ケンカをした覚えもない。昨夜だって、黄瀬は火神の腕の中で眠りに就いたはずだった。
「どうしたんだよ、なぁ」
塊は何も答えない。途方に暮れる火神に助け船を出してくれたのは、頼れる元相棒だった。
「さっさと連れ帰ってください。朝っぱらから叩き起こされて、迷惑しているんです」
低血圧オーラを纏った黒子は、力尽くで毛布を奪いにいく。
「往生際が悪いですよ、黄瀬くん」
せめぎあう二人の間で、毛布がちぎれそうなくらい張りつめる。
「今すぐ出てこないと、イグナイトパンチかましますよ。…火神くんに」
「俺かよ!?」
効果的すぎる脅し文句に、黄瀬の力が緩む。その隙を見逃さずに、黒子は一気に隠れ蓑を引っ剥がした。
分厚い布の下から現れた姿に違和感を覚える。金の髪に同色の瞳は黄瀬に間違いない。だけど、絶対的に違う。隣の黒子と並んでも歴然なほど、その体は細く、小さい。
「…火神っち…」
自分を呼ぶ声は高く、恐ろしく可愛かった。


そういう体質なんです。この異常事態を、黒子はそんな言葉で片付けた。
サプリメントだかなんだかの影響で、黄瀬は時々女の体になる。けれどそのうち元に戻る。そんなおざなりな説明で、火神が納得するはずもない。
だが、これ以上長居をしようものなら、本当に黒子の拳が加速してしまう。追い出されるようにして部屋から出た二人は、とりあえず自分たちの家に戻ることにした。
「…ほら」
差し出されたメットを受け取る。火神の態度がどこかぎこちないのは、家出の理由が分からないためだろう。怒っているわけではないのだ。黄瀬はバイクに跨がると、火神の背中に抱きついた。
家出の理由は、火神と暮らしはじめた半年前の会話に起因する。ソファーに並んでまったりとテレビを見ていた二人は、突然画面に現れた知り合いの姿に目を丸くした。
「アレックス…」
アメリカのバスケ選手を紹介する番組では、火神の師匠がインタビューを受けていた。視力低下という突然の悲劇にも屈しない彼女は、子供たちとボールを追いかけて、弾ける笑顔をカメラに向ける。
素敵な人だと思う。太陽のような明るさは、火神に近いものがある。
「こんな人が傍にいて、恋愛感情とかは湧かなかったんスか?」
「アレックスと?考えたこともねぇよ」
あっさりと否定する火神の横顔を見ながら、黄瀬はマグカップを口に運んだ。
「…じゃあさ」
思い付きに、熱いコーヒーに触れた唇は上がる。
「アレックスさんと氷室さん、付き合うならどっち?」
「タツヤ」
被せ気味の即答に、黄瀬はコーヒーを吹きかける。そして、思った。
―――こいつ、本物だ。


男に産んでくれてありがとう。
あの時ほどお母さんに感謝したことはないし、今ほどお母さんに泣きつきたいことはなかった。
火神が男にしか興味がないというのなら、女の体になった今、この恋がどうなるかなんて考えなくても分かってしまう。だから逃げたのに、家出はたった数時間で終わってしまった。
「どうした?入れよ」
火神はいつもの調子で玄関のドアを開けてくれる。この部屋で共に生きていく日々は宝物のように大切で、どうしても失いたくないものだった。
別れたくないと言えば、彼は笑って頷いてくれるだろうか。
黄瀬は何も言えないまま、きつく唇を噛んだ。


2014/4/5

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