忙しい。
最近の黄瀬の状況を説明するのなら、その一言に尽きた。
学校と部活の合間にモデルの仕事を挟み込み、スケジュールは分単位で管理される。休む間もなく働き続ける日々に、黄瀬の心身は限界に近付いていた。
「…もうやだ」
独白は誰に届くこともなく、晴れた空に溶けて、消えた。
逃げるように学校の屋上に来た黄瀬は、冷たいコンクリートを背にずるずると座り込んだ。次のスケジュールまで、もう30分もない。
時計は回り続ける。秒針は急かすように時を刻む。目を閉じても耳を塞いでも、それは変わることがない。
時計と共にぐるぐると回り続ける自分に、目眩がした。


甘い香りがする。人の温もりを感じる。自分は、壁に寄りかかっていたはずなのに。
「あ、起きた」
開いた目に入ったのは、紫色だった。
サクリ。軽い咀嚼音の合間に、暢気な挨拶が入る。
「おはよー」
「…はよっス」
つられて返事をしてから、黄瀬はビクリと体を震わせた。
「っ時間…!今何時!?」
「さぁ?」
さもどうでも良いと言わんばかりに、紫原はお菓子の袋に手を突っ込みながら答える。
辺りに時計は見当たらない。携帯を確認しようとポケットに手を入れることは、叶わなかった。
「ちょっ…と、紫っち何…!」
両腕ごとがっちり抱えられてしまえば、身動きすら取れない。もがけばもがくほど、拘束の力は強くなる。
「苦し…、離して…!」
「やだー」
こんなことしている場合じゃないのに。
どうしたって腕の中から抜け出すことは出来ない。きっと紫原にとっては自分の抵抗など、子猫がじゃれるようなものなのだろう。
「………」
ふと、力が抜けた。逃げられないのだから、仕方ない。
当初と同じように紫原の肩に体を預ければ、ようやく回された腕は締め付けるものから包み込むものに変わった。
「…なんなんスか、もう…」
「んー、なんとなく?」
そんな曖昧な理由でスケジュールを潰されたらたまらない。そう思うのに、まっとうな文句すら、今の黄瀬からは出なかった。
目を閉じて、数えるみたいに紫原の鼓動を聞く。ゆったりした速度に、確かに眠くなると納得する。
「…紫っちの傍は、時間がゆっくり流れているような気がするっス」
体の大きさと鼓動の速度は反比例すると聞く。
時間に追われてくるくると動き回る自分と、時計の周回から逃れて好きなように生きる彼は、別の生き物のようだ。
「じゃあ俺の傍にいれば、黄瀬ちんはいっぱい休めるんじゃない?」
見上げた彼は、お菓子をくわえたままでにんまりと笑う。
不思議と紫原が言うのなら、本当にそんな気がする。ここでなら、休むことが許される。
「…あと10分だけ」
「んー」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。大きな体に身を預ける。
口元に笑みを浮かべたままで、黄瀬は目を閉じた。


fin 2013/10/7

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