「別れようぜ」
ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。
分かっていた。ちゃんと気付いていた。
青峰が笑わなくなったこと。苛々するようになったこと。触れ方が乱暴になったこと。
分かっていて、それでも言えなかった。
だって、自分はまだ―――
「もう、無理だ」
小さな希望すら踏みにじるように、青峰は繰り返した。
「別れてくれ、黄瀬」
怒ることも、泣いてすがることも出来ないままで。
一つの恋が、終わった。


インサイドゲーム


愛とは無償のものだと言ったのは誰だったか。それが本当なのだとしたら、これは間違いなく愛だった。
「きーちゃん、聞いてよー」
可愛らしく頬を膨らませ、桃井がこちらに歩いて来る。
「立つと危ないっスよ」
「平気…っきゃ!」
タイミング悪くバスは大きく右に曲がり、バランスを崩した桃井は黄瀬の腕の中に収まった。
「大丈夫っスか?」
「うん。ありがと」
照れて笑う桃井は可愛い。抱いた体は小さく、柔らかく、自分には無い優しいもので溢れている。
だから、青峰を幸せにできるのだ。
「なんかやけに揺れるね」
「そうっスね。そろそろ目的地に着くはずなんスけど…」
合宿のため、帝光中学バスケ部員は山梨県に向かっていた。バスの窓にはさっきから代わり映えなく、緑が流れる。
「それで、なんかあったんスか?」
「あ、そうなの!大ちゃんが酷いんだ」
黄瀬の隣に落ち着いた桃井は、恋人への不満を漏らす。けれどその顔はどこか幸せそうで、根底にある『好き』に揺らぎはなかった。
青峰は自分と別れた後、桃井と付き合い始めた。喧嘩をすることも多いけれど、二人は一緒にいることがとても自然だった。
「青峰っちはどうしようもないっスねー」
黄瀬は痛む心を押し殺して、笑顔を作った。
自分と青峰は終わったのだ。どんなに好きでも、それはもう変えられないのだ。
幸せを妬む醜い人間にはなりたくなかった。青峰が幸せならそれで良いと、言えたのなら。
黄瀬は前の方にいる青峰を見遣った。
大好きだと心の中で告げるくらいは、許されるだろうか。
「きーちゃん…?」
訝しげに首を傾げる桃井に「なんでもない」と返そうとした、その時だった。
キキーッと、つんざくようなブレーキ音がする。前の席に強く押し付けられた体は、不意にふわりと浮いた。崖から落ちているのだと、窓の外を見て知る。
断末魔にも似た悲鳴を耳に、黄瀬の意識は途切れた。


痛い。ということは、生きているのか。
黄瀬は僅かな空間で身動いだ。と同時に脇腹に激痛が走る。
「っ!」
悲鳴すら出ない。視線を落とせば、右脇腹に深々と刺さる窓ガラスの一部が見えた。
参った。
黄瀬は観念するように目を閉じた。口元は緩く弧を描く。
破けた風船から空気が漏れるように、滴る血は止まらない。きっと、自分は死ぬのだろう。
許されるならならばその前に一目だけ、顔が見たかった。
―――青峰っち…。
黄瀬が抜け落ちようとする命に身を任せようとしたときだった。
「…き…ちゃ…」
微かな声は、すぐ近くから聞こえた。黄瀬は弾かれたように隣を見る。
「桃っち…!」
力なく横たわる桃井が唇を動かす。しかし言葉は声になることなく、桃井は静かに目を閉じた。
「桃…ち…桃っち!」
いくら呼び掛けても桃井は目を開かない。黄瀬は唇を噛んだ。
「…っく…!」
震える腕を突っ張って体を起こす。気を失いそうな痛みと引き換えに、少しずつ脇からガラスが抜ける。
守るんだ。必ず。
血に濡れた手で桃井を抱き締める。
この子は、青峰の幸せなのだ。
強い意思を胸に、黄瀬は顔を上げた。

2013/12/2

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