あっれぇー!? 着替えを鞄にしまってさあ帰るぞというタイミングになってようやく大事なことを思い出した黄瀬は、脳内で盛大な悲鳴をあげた。 関東のキセキとその相棒たちで集まってバスケをしようと企画してくれたのは黒子だった。 火神と黒子、緑間と高尾、更には青峰まで参加してくれて、1日めいいっぱいストリートコートを走り回るのは本当に楽しかった。楽しすぎてすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。 バスケだけじゃない、自分にはもう1つ楽しみで仕方なかったものがあるじゃないか。 「真ちゃんはよく運動後すぐにおしることか飲めるよなぁ」 「お前は鍛え方が足りんのだよ」 「どこを鍛えりゃいいんだよっ」 高尾の笑い声を聞いた黄瀬は、今すぐコートに頭を打ち付けたい気持ちになった。 部活だ勉強だバイトだと、なかなか予定を合わせられない自分たちが顔を合わせるのは、実に半月ぶりになる。たとえ二人きりではなくともようやく会えるというということに、昨夜はなかなか寝付けないほど胸を踊らせたというのに。 今日高尾と交わした言葉といえば、へいパスとか、ナイッシューとか、会話とも呼べない掛け声だけだった気がする。もちろんそれはそれで楽しかったのだけれど、自分が求めていたのはもっとこう、恋人らしいなにかだ。 「黒子、声かけありがとな。またやろーぜ」 ああ、行ってしまう。でも呼び止める理由を持たない黄瀬になす術はなく、せめて見送ろうと未練がましく後ろ姿を追っていたら、不意にくるりと高尾が踵を返した。彼は隣の緑間に何かを伝えると、まっすぐこちらへと駆け寄ってくる。 「涼ちゃん」 「和くん、どうしたんスか?」 「んー、忘れ物?」 「忘れ物…」 この辺になにか落ちていたりしただろうか?地面へと目をやると、高尾にゆるく腕を引かれる。逆らわずに45度体の向きを変えると、帰路に着く仲間たちの姿が視界から消える。 視線から切り離されたと黄瀬が理解するのと、身を屈めた高尾がそんな黄瀬の唇を奪うのは、ほぼ同時だった。 目を閉じることもできないままで、ちゅっというリップ音がある。これ以上ないほど至近距離で見つめ合って、高尾はふっと笑った。 「…またね」 小さく別れを告げて、高尾は緑間の元へと走っていく。残された黄瀬は熱くなっていく頬を感じながら、コートの上を転げ回りたい衝動をぐっと堪えていた。 これはもう、なんというか。 ーーー彼氏が好きすぎて生きるのが辛い。 「高尾」 「ん、だいじょーぶ。聞いてるよ」 右手で目元を押さえたまま、緑間が昼食を広げる音を聞く。 「食べないのか?」 「…ダイエット中なの」 可愛らしく返してみれば、緑間が眉間に皺を寄せるのを空気で感じる。目に頼らなくたって相棒の表情くらい、正確に描けているという自信がある。 思わずあげた笑い声は、目の奥でツキンと響いた痛みによって、苦痛の声にすり変わった。 「つッ!…うー…はしゃぎすぎたなぁ…」 みんなでバスケをしませんか、というお誘いをもらったのは見計らったかのようにテスト明けのタイミングで、黄瀬も来ると知ってしまえば、テンションが振り切らないわけがなかった。 豪華すぎるメンツでのバスケに鷹の目は一日中フル稼働状態で、それまでの試験勉強の疲労も重なった結果、完全なるオーバーワークとなってしまった。 眼精疲労から来るタチの悪い頭痛は目眩まで引き連れてくるから、食欲なんて微塵も湧かない。 「もう帰ったらどうだ」 「放課後涼ちゃんとデートだからダメ」 久しぶりに会えたのにまともに話もできなかった埋め合わせをしようと約束をした。体調不良なんかで指切りを解くわけにはいかない。 もちろん学校を早退してデートにだけ行くなんて回答は、選択肢にすら載っていない。 やれやれと、呆れを滲ませた緑間が荷物を漁る音がする。やがてぽとりと、机の上に投げ出していた左手の中に小さなものが落ちてきた。 薄く開いた目で、銀色の包装シートを確認する。形状からして鎮痛剤か。 「人事を尽くせ」 難しい顔をした緑間はあまりにも彼らしい激励をくれるから。優しさを左手で包み込んで、高尾は笑みを返した。 「…仰せのままに」 ハチ公前は大変な混雑が予想されるから、待ち合わせはモヤイ像前で、と捻りを加えてみたものの無駄な努力だった。渋谷はどこもかしこもごった返していて、とても待ち合わせなんてできる環境ではない。 この人ごみの中から高尾を見つけられるだろうか。 きょろきょろと辺りを見回していた黄瀬は、笑いながら歩く女子高生集団の突進をまともに受けた。 「おっと」 よろめいた体は転ぶ前にキャッチされる。顔をあげればニコリと笑う高尾と目が合った。 「大丈夫?」 高尾の胸についた手を拳にして、黄瀬は苦く声を絞り出す。 「ポジション取りで敗れるなんて、己のフィジカルの弱さに歯噛みの思いっス…!」 「涼ちゃんバスケ馬鹿!」 明るく笑いながら高尾は周囲に目をやって、人すごいねーと呟く。 「涼ちゃんは目立つし絡まれやすいから、人が多い所も少ない所も心配だなぁ」 「俺はどこで待ち合わせすればいいんスかね…」 「どこにいたとしても俺に涼ちゃんが見つけられないはずがないけどね」 「今日のイケメン発言ありがとうございます!」 「どういたしまして」 さて、とはぐれないようしっかり手を繋いで歩き出す。今日のデートはこないだの埋め合わせの他にもう1つ大事な目的があるのだ。 「限定のバッシュだっけ?」 「そう、カイリーアービーングのシグネチャーモデル!めっちゃ可愛いの!」 渋谷の一店舗のみでの販売、かつ今日限りという限定にも程があるほど限定されたバッシュは、一目見たときから買うと決めていた。その限定日の今日、秀徳は部活が無い日だと聞いてバッシュか高尾か頭を抱えた黄瀬に、高尾はデートがてら買い物に行こうという提案をくれた。 こういう時、バスケ馬鹿同士で良かったなと思う。今だって、限定バッシュの性能について熱く語る黄瀬に高尾はうんうんと頷いてくれる。 「ところで涼ちゃんは男物と女物どっち買うの?」 「もちろん両方っス!」 「わあセレブ!」 いつ性別が切り替わるのか予想ができない以上、いつ切り替わってもいいように準備をしておくしかない、のだけれど。 「1人1足まで…!?」 驚愕する黄瀬に、定員は申し訳なさそうに頭を下げる。 「ま、1人で男女両方必要なんて、性別変わっちゃう人くらいだもんな」 高尾はプププと笑っている。 1足しか選べない。確かに今は女の子だけれど、明日には男に戻っているかもしれない。じゃあ男物を買って戻るまで待つのかというとそれはそれでもどかしい。 苦悩する黄瀬に、高尾はもう1つの選択肢をくれる。 「1足、俺が買ってこようか」 「でも…!」 黄瀬は店内に収まりきらない長蛇の列を見遣った。男物と女物で別になっている行列は、それぞれ30分は覚悟しておけよ、という長さに成長している。 せっかくのデートだというのに離れ離れになるのか。でもバッシュは両方欲しい。 散々選択肢の間で右往左往して、黄瀬は断腸の思いで決断を下した。 「お願いしても、よろしいでしょうか…ッ!」 「よろしいですよー」 買い終えたら連絡するね、と手を振る高尾を見送って、黄瀬もまた行列へと立ち向かっていった。 買えた。ほくほく顔でショッピングバッグを抱きしめた黄瀬が、高尾に連絡しようとスマホを取り出した時、それは起こった。 「売り切れだと…!?」 ざわりと不穏な空気が流れる。申し訳ありませんと頭を下げる定員に、掴みかかりそうな勢いで客達が詰め寄っていく。 どうやら限定バッシュは在庫切れになってしまったらしい。自分が買えたのはギリギリだったか。 「散々待たせておいてどういうことだ!ふざけるな!」 そうだそうだと同調する人達で暴動の波は高まっていく。窘めるべきなのか、黄瀬が迷っているうちに、堤防は決壊してしまった。 わああと塊になった人がフィジカル不足の黄瀬を弾き飛ばす。不可抗力で飛び込んだ先は、やたらガタイのいい胸の中だった。 「おーっと、…ずいぶん積極的だなぁ」 それはそれはストリートのバスケが似合いそうなガラのよろしくない男がニタリと笑う。 自他ともに認める絡まれ体質の自分がここまで無事だったという奇跡も、どうやらここで潰えたようだ。 「いやあの、ごめんなさい。離してもらえないっスか」 並々ならぬ混雑っぷりを笠に着て、男はぎゅうっと黄瀬を抱きしめる。満ちる不快感に眉を寄せたとき、助けは男の背後から来た。 「ていっ」 「うお!」 ガクンと男の膝が折れ、衝撃で緩んだ腕から解放される。男の後ろには、ビシッと片手でポーズをとる高尾がいた。 「アンクルブレイク」 「いや、ただの膝カックンっス」 「…てめーら…」 男が復活するより早く、高尾は黄瀬の荷物と手を取って走り出した。 「行こ」 「え、でも…」 この人集りの中どうするのか、なんて彼には余計な心配だった。高尾はするすると人の間をすり抜けて、あっという間に黄瀬を人海から救い出してくれた。 「まだ追ってる」 小さく吹き出しながら言う高尾の視線の先を追えば、人波に足を取られてあがく男が見える。 ダメ押しのように物陰へ身を隠して、ようやく2人は息を吐いた。 「和くん、ありがと」 「ん、怪我はない?」 「大丈夫っス」 「よかった」 いつもいつも、高尾には助けられてばかりだ。守るように自分の肩を抱く腕が申し訳なくて、それ以上に嬉しくて仕方なくなる。 「和くん…」 ああ、今日も今日とて生きるのが辛い。彼氏好き好きをこじらせていた黄瀬は、ふと違和感に目を瞬いた。肩の上の手に、さっきよりも重みを感じる。 「和くん?」 なにかあったのか、見上げようとした顔は、ぐったりと黄瀬の首元へと落ちてくる。慌てて両腕で高尾を支えて、黄瀬は慌てふためいた。 「え、え?どうしたんスか!」 「ごめ、ちょっと…ダメかも」 なにが起きているのか分からない。でも、聞こえた弱々しい掠れ声に、ただ事じゃないということは分かる。 パニックになった黄瀬は、スマホを手に取った。 「和くんが死んじゃう!」 「死なないのだよ」 緑間ならなにか知っているかもしれないと一縷の望みをかけたのは、正しかったようだ。 とにかく休ませてやれ、という指示に従って公園のベンチに寝かせてあげれば、やがて高尾は「明日真ちゃんにどやされるなぁ」とぼやけるくらいには回復した。 「具合悪いの気付けなくてごめんね…」 膝枕した頭を撫でながら謝る。言われてみれば確かに高尾の目は赤い。浮かれると周りが見えなくなる自分を反省する。 高尾がこんなにも消耗している原因は、目の使いすぎにあるのだという。なら、と黄瀬は今日の自分の行動を振り返って、穴があったら生き埋めにしてもらいたくなった。どう考えてみても高尾を悪化させるようなことしかしていない。 地の果てまで落ち込んだ黄瀬を掬いあげるように、下から伸びてきた高尾の両手が黄瀬の頬を包む。 「気づかれないよう、人事を尽くしていたんだよ」 「なんスか、それ」 つい先程まで電話をしていた友人を彷彿とさせる言葉に、つい笑ってしまう。彼の傍にいると、どうしたってしょげる気持ちは長続きしない。黄瀬は頬の手に、自分の手を添えた。 「涼ちゃん手、冷たいね」 「あ、ごめん」 女の子が冷え性だということはよく耳にしていたが、確かにこの体になると体温は末端まで届かなくなって困ってしまう。 すぐに離れようとした手は捕えられ、高尾の目元へと導かれる。 「冷たくて気持ちいー」 はー、と高尾が息を吐くのに、黄瀬も口元を綻ばせる。 高尾は目が良い。まるで魔法のように黄瀬を見つけたり視線から隠したりしてみせる。 バスケでもその目がどれだけ強力な武器となっているのかを知っているから、今その武器を預けられていることをとても誇らしく思う。と同時に、ひょっこりといたずら心が湧いてくる。 「涼ちゃん?」 黄瀬が動いたのに気付いたのか、高尾が名前を呼ぶ。 視野が広くて状況判断の早い高尾の不意をつくなんて、普段の黄瀬にはできない。今しかチャンスはない。 目元はしっかり覆ったままで、黄瀬は上体を倒すと、ちゅっと高尾の唇を奪ってみせた。 「…っ!」 一瞬の間の後、高尾はがばりと起き上がる。口元を押さえて目を丸くするその頬はじんわりと赤く染まっていて。いつかの仕返しが成功したことを確信した黄瀬は、満足気に笑った。 fin |