都合の良い優しい夢をみているかのようだ。 緩やかに髪を撫でられる合間に、静かな懺悔が耳に入る。 こんなことするつもりはなかった。大事にしたかった。自分だけを見ていて欲しかった。 本当に好きだった。好きになって、欲しかった。 「…分かってるよ」 寝ているとばかり思っていたのだろう。黄瀬が言葉を返せば、ピクリと震えた火神の手は動きを止める。 身動きも取れないほどの心地好さが消えて、黄瀬はゆっくりと体を起こした。途端にぎしりと音を立てたのはベッドか、酷使された体か。 「黄瀬…」 思わず眉をしかめた黄瀬よりもよっぽど痛い顔をして、火神な名前を紡いだ唇を噛む。 俯く火神を見るのは、どんなに体を裂かれるよりも辛かった。 「…ごめん」 謝罪は口をついて出た。 火神は、優しい。大事にすることで綺麗な感情を伝えようとしていたのだと、知っている。拙い触れ合いでも、意味がないはずがなかった。 「ごめんね」 大切に一つ一つ積み上げてきたものを、自分は壊してしまった。 どんなに悔いてもなかったことにはできない。どうしたって火神は、顔を上げてはくれなかった。 まだ黄瀬に出来ることがあるとすればそれは、一刻も早くここから消え去ることだけだった。 のろのろと手を伸ばした黄瀬は、床に置かれていた服を身につけた。後処理はしてくれていたらしい体は、痛みにさえ目を瞑れば動かせる。 壁に手をついて立ち上がった黄瀬は、荷物をまとめると真っ直ぐドアへと向かった。ノブに手をかけてから一瞬だけ迷って、振り返る。 微動だにしない背中にかける言葉は、なかった。ただもう一度だけその姿をしっかりと焼き付けて、黄瀬は家を出た。 ガタン、と重い音を立てて黄瀬と火神の間は堅固な鉄で隔たる。 いつだって受け入れてくれていたこの家のドアは、火神の心と等しかった。きっともう二度と、自分のために開きはしないのだろう。 黄瀬は扉に背をつけて、ずるずるとその場に崩れ落ちた。 全部駄目になった。なのに今更気付くなんて、あまりにも遅すぎる。 黄瀬は己の膝に顔を埋めた。 ―――火神のことが、好きだった。 『アドレスを削除しますか?』 手の中の小さな機械が問うのに、迷いなく『はい』を押す。 その大半が消えた黄瀬のアドレス帳に残るのは、バスケと仕事関連のものだけだった。 火神に最後に会ったあの時から、黄瀬は人間関係の整理を始めた。夜しか会わないような相手は、アドレス帳から削除した。それで完全に縁が切れるわけではないけれど、少しでも綺麗でありたいと願った。 あの綺麗で優しい人の隣に立っても、笑っていられるように。もしももう一度、向き合えたのなら。 黄瀬は携帯を閉じると未練がましい自分に苦笑した。学校を出て、夕焼けに染まり始めた町をゆっくりと歩く。 会いたいと、思う。 きっとこれは初恋だった。何度も恋愛を繰り返してきた気になっていたけれど、こんな感情は知らなかった。こんな胸の痛みは知らなかった。火神が全部、教えてくれた。 黄瀬は足を止めた。瞬きをして、目の前の光景を確かめる。 都合の良い夢の続きを見ているかのようだ。 黄瀬の目は、夕焼けにも染まることのない赤を捉えた。向こうもこちらに気が付いて、寄り掛かっていた壁から体を起こす。笑って片手を上げる。 黄瀬も滲むように微笑んで、焦がれた彼の元に駆け出した。 もしももう一度向き合えたのなら、その時は。 体温を分かつような、抱擁を。 fin 2013/6/30 戻る |