一ヶ月経った。これは記録だ。
こんなにも長期間禁欲した記憶はない。だがもちろん、禁欲したくてしたわけではない。
黄瀬は、キッチンでくるくると働く火神を半眼で見つめた。
「人相悪いな。寝不足か?」
的外れなことを言う火神に憎しみが湧く。奴だけ涼しげな顔をしているのがまた、癪に障る。
一ヶ月だ。一ヶ月、我慢した。
もう良いだろう。これ以上記録を伸ばす必要はないはずだ。
いい加減、もう限界だった。


もしかしたら自宅より入り浸っているかもしれない、火神の家のドアに手をかける。
突然やってくる自分のために鍵はかけないでいてくれるのだろう。ドアは、なんの抵抗もなく侵入を許す。
「…ああ、来たか」
夕飯時よりも少し遅い時間。火神はソファーに寝転がり、雑誌を開いていた。
「飯は?」
「…いい」
妙にまめな火神は、コーヒーでも淹れようというのか体を起こす。
黄瀬はソファーに寄ると、立ち上がろうとする火神を押し止めた。
「黄瀬?」
今日は、ほだされない。溜まるに溜まった一ヶ月分の欲求不満を、思い知らせてやる。
黄瀬は火神の上に乗り上げると、首に手を滑らせた。無防備に薄く開かれた唇に、貪るように口付ける。
拒んで顔を逸らそうとするのを許さずに片手で頬を固定する。もう片方の手は、服の裾から中へと侵入し、引き締まった腹部を撫でた。
「…っおい…!」
制止も無視して更に胸元まで手を伸ばす。
愛撫は一方的で、火神は自分に指一本触れない。それなのに、どうしようもなく体温は上がった。火神の肌をなぞる度にゾクゾクした興奮が駆け巡る。
もう一度唇を重ねようとした時、不意に強く手首を掴まれた。突き飛ばすように、体ごと引き剥がされる。
「やめろ」
態度と言葉で示されるのは、拒絶。
黄瀬は呆然と問うた。
「…なんで…?」
「お前がちゃんと俺のことを好きになるまで、こういうことはしねぇ」
ちり、と焼けつくような苛立ちが生まれる。
「好き。愛してる。そう言えば良いんスか」
「…あのな…」
紙のように薄い言葉だなんて、誰よりも自分が分かっていた。
でもじゃあどうすれば良いのか。
「言葉に意味なんて無い。好きだなんていくらでも言える。そこに愛なんて必要ない」
「黄瀬…?」
火神が訝しげにこちらを伺う。けれど、止まらなかった。
「抱き合う以外に、気持ちを確かめる方法なんて知らない!なのに火神は、なんで…!」
好きだと言ったくせに。愛してくれるはずなのに。火神はいつまでも、ただ優しく触れるだけだった。
そんなんじゃ気持ちは分からない。火神は何を望んでいるのか、分からない。なら。
「…もう、いい」
どうせ分かり合えるはずがなかったのだ。
自分なりに歩み寄ろうとした。一ヶ月も我慢した。
それでも、駄目だった。
黄瀬はふらりと立ち上がった。引き留めようとする火神の腕をすり抜けて、真っ直ぐドアへと向かう。
「黄瀬…!」
火神の声を耳の奥に残したまま、黄瀬は外へと飛び出した。途端に外気が体温を浚う。
上着も携帯も全部置いてきてしまった。でも火神の所へは帰れない。少なくとも、今夜は。
宛もなく夜の町をさ迷う。
「涼太?」
不意に肩に触れられて、黄瀬は振り返った。


2013/4/28

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