雨は強く頬を打つ。溶けたように不安定な地面は、絡み付いては青峰の足を止めようとする。 こんな中で山を下ろうとするなんて自殺行為だと言ったのは黒子だったか。思い出して、青峰はふっと小さく笑った。 ――――― 「雨はさっきよりも激しくなっています。今外に出るのは危険過ぎます」 「ここには数日分の水と食料がある。なにも今無理をする必要は無いのだよ」 黒子や緑間が言うことも尤もだった。だけどそれが一番大事なことでは、無い。 「黄瀬には、悠長なことを言ってる時間はねぇだろ」 青峰が静かに言い返せば、二人は言葉を失った。医者ではないから、誰にも確かなことは言えない。けれど今の黄瀬には、「あと数日」なんて途方もない時間に思えた。 「無傷で体力もあるのはお前くらいだ」 赤司は色の異なる両目で、射抜くように青峰を見遣った。 「お前が今無茶をしてもしものことがあれば、僕らが助かる可能性も消える。それを理解しているのか」 雨が止むのを待ってから、助けを呼びに行く。それが満点の解答で、多くの人を救う唯一の手段なのだろう。 でも、それでは意味が無い。今行かなければ、何の意味も無いのだ。 「…分かってる」 答えれば、どこからともなく落胆の声が漏れ聞こえた。青峰はたった一人を救うために、他の全員を切り捨てると言ったのだ。 「…それは、涼太への贖罪か?」 赤司の問いに、青峰は手を握り締めた。自分のせいで苦しんでいる黄瀬へ償う思いは、確かにある。でも青峰の体を動かすものは、もっと単純な思いだった。 「違う。俺が、助けたいんだ」 失望は当然だ。居心地の良いここに、二度と戻れなくたって良い。それでも彼だけは、救いたい。 思いの丈を全て吐き出せば、赤司は呆れともつかない笑みを浮かべた。 「―――行け」 青峰は目を瞠った。何を言われても引き下がる気はなかった。けれどまさか、赤司が背を押すとは思わなかったのだ。 「お前が戻るまで、涼太を死なせはしない」 だから行けと、赤司は無謀を許す。他のキセキもまた、誰一人として青峰を止めようとはしなかった。 「黄瀬くんを助けたいのは皆同じなんです」 黒子はいつもと変わらない、信頼で繋がった相棒の目で、青峰を見た。 「…無事を、祈ります」 ――――― 今なら黄瀬の気持ちが分かる気がする。本当は優先順位などつけられるものではないのだ。全部がかけがえのないもので、自分を構成する大事な要素だった。 だから、守ってみせる。黄瀬と、黄瀬が笑っていられる大切な場所を。 「…!」 視界の端に映ったものに、青峰は足を止めた。崖と呼んで良いほど切り立った斜面の向こうに、ちらほらと光が見えた。 救助が、来ている。 安堵は、致命的な油断を招いた。 一歩足を踏み出した地面がずるりと崩れる。声を出す間もなく、青峰の体は崖下へと転落した。 ずっと、雨が降っている。それは眠る自分を揺り起こすように、いくつもいくつも降り積もる。 ―――「黄瀬」 呼ばれている。聞こえている。なのに体は動かない。 ぽとりとまた一つ、手の上に悲しみの雨が落ちる。 起きなきゃと思った。起きて雨を、止めるのだ。 「……ち…」 上手く声が出ない。けれど自分の手を抱いた桃井は、弾かれたように顔を上げた。 「…きー…ちゃん…?」 元々大きな目を更に大きく丸くして、桃井は宝石みたいな涙を溢す。 「きーちゃん…!」 愛らしい顔をくしゃりと歪めて、幾筋も付いた線の上を、また新しい涙がなぞっていく。 黄瀬は華奢な両手に抱かれた手を伸ばして、濡れた頬をそっと拭った。抗議するように脇腹が痛んだけれど、それよりずっと泣いている女の子を見る方が辛かった。 「…だい、じょ…ぶ…?」 途切れ途切れに問えば、桃井はきゅっと唇を引き結んで涙を耐えた。 「大丈夫じゃないのはきーちゃんの方でしょ…!?」 それでも時折しゃくりあげながら、桃井は声を振り絞る。 「きーちゃんがそんなんだから大ちゃんは…!」 青峰の名に、黄瀬はゆっくりと辺りに視線を巡らせた。 バスの横で倒れたところまでしか記憶がない黄瀬には、今自分が洞窟の中にいるらしいということしか分からず、この場にいる理由を知る術はなかった。近くには桃井の姿しかないが、他の皆は、青峰は無事なのだろうか。 「…きーちゃん」 静かに呼ばれて、黄瀬はまた桃井に目を遣った。 「きーちゃんは、大ちゃんが好きだよね?」 問いに頷くのに、抵抗はなかった。桃井は、問いを重ねた。 「友達としてじゃなくて、恋愛対象として、好きだよね?」 今度は、容易に頷くことは出来なかった。桃井の前で青峰が好きだなんて、言えるはずがない。だって、二人は。 「私と大ちゃんは付き合ってないよ」 桃井の告白に、黄瀬は目を瞬いた。 二人が付き合っていると言っていたのは誰だっただろうか。確かに、本人たちの口から聞いたわけではなかった。けれど二人は否定もしなかったから、噂をそのまま鵜呑みにしてしまったのだ。 「大ちゃんはずっと、今も、きーちゃんが好きだよ」 怯えるように、桃井に握られた手が震えた。 そんなわけはないと、頭より先に心が否定する。だって青峰はあの時、自分に別れを告げた。 「あれ以上きーちゃんと一緒にいたら、大ちゃんは駄目になっちゃいそうだった。だから代わりに、私が傍にいてあげたの」 きーちゃん、と呼んで、桃井はそっと黄瀬の髪を撫でた。 「どうして、大ちゃんのためだけに生きてあげなかったの…?」 また、涙が桃井の頬を濡らす。今度は声をあげることなく静かに。だからこそ、押し殺すことの出来ない深い悲しみが見てとれた。 「私たちはもう、大ちゃんに会えないかもしれない」 ドキリと心臓が冷たく脈を打つ。自分たちの状況はそこまで悪いのか。それとも。 ―――なにかあったのは、青峰の方なのか。 「大ちゃん、酷い雨の中一人で助けを呼びに行ったの。皆止めたんだけど、今行かなきゃいけないって」 分かる?と桃井は続ける。 「きーちゃんを助けるためだよ」 殴られたように頭が痛む。上手く呼吸が出来なくて苦しい。 命を賭してまで救う価値なんて。自分には無い、のに。 「帰って来ないの」 桃井はとめどなく涙を落としながら、ずっと泣き止まない理由を告げた。 「もう3日も経つのに、大ちゃんが帰って来ないの…!」 するりと、力の抜けた手が桃井の両手からすり抜ける。 「きーちゃん!」 桃井の声が遠くなり、目を開けていることすら出来なくなる。霞んでいく意識の中で考えた。自分は、何を間違えたのか。いつだってずっと、青峰のことだけを想ってきた。幸せになって欲しかっただけ、なのに。 抗うことも出来ずに意識が途絶える。最後にもう一度だけ、青峰に会いたいと、願った。 2014/5/16 戻る |