穏やかな寝顔に、火神は口元を綻ばせた。 こんな風に寝ている黄瀬を眺めるのは、何度目になるのだろう。もう何日も二人はこの部屋に閉じ籠り、少量の食事を摂る以外はただ抱き合うだけの生活をしていた。 世界には確かに二人しかいなくて、それだけで十分だった。 火神は、薄く開いた唇に己のそれを重ねた。ちゅ、と音を立てて離して、もう一度柔らかな感触を味わう。 「…ん…」 ついつい熱が入りすぎたのか、眠りに溶けた黄金色が姿を現す。 「…今、何時?」 「10時」 「…夜の?」 「多分な」 カーテンが引かれた寝室の窓から光が漏れてこないのを見て、火神は答えた。 時間も曜日の感覚もなかった。感じているのは互いの存在だけで良かった。 「ん…っ」 目が覚めたのをいいことに、火神は本気のキスをしかけた。口を割って、寝起きで反応の鈍い舌を吸い上げる。 「ん…、ふ」 隔てる物のない体をなぞって、手を下降させる。 「あ…!」 つぷりと指を差し込んでみれば、そこは抵抗なく異物を飲み込んだ。つい数時間前まで火神と繋がっていたそこは、奥まで蕩けて誘うようにうねる。 「大我…ぁ…」 すぐにでも自分のものを突き立ててやりたい気持ちだったけれど、制するように腕に触れられた火神は、大人しく指を抜いた。 「…どうした?」 紅潮した頬に触れて柔らかく問う。黄瀬は火神の手に自分の手を重ねた。 「海、行きたい」 「海…?」 突然の申し出に火神は目を丸くする。 「…だめ?」 黄瀬の意図は分からない。今が夜の10時なら、海に行って帰れる保証はない。けれど、火神は迷わなかった。 「いいよ。行こう」 黄瀬は嬉しそうに笑う。 どんな問題だって取るには足らない。今の火神にとっては、黄瀬の望みを叶えることだけが、大事だった。 夜の海は昼とは全く顔を変える。月の光では水を青くするには足らず、黒々と塗り潰された空と海は、境界線すら曖昧だった。寄せては返す波は、迂闊に近付けばそのまま飲み込まれてしまいそうだ。 離れた砂浜から海を見るだけの火神に対し、黄瀬は靴を脱ぐとまっすぐに海へと近付いた。 「入るのか?」 「足だけ」 波音に混じって、さくさくと黄瀬が砂を踏み歩く音がする。けれど黄瀬が奏でる音は、すぐに消えた。 足首まで海に浸かった黄瀬は、得体の知れないものに足を捕まれているように見えて、ぞくりとした。 「あんまり遠くへ行くなよ」 つい心配になって声をかければ、黄瀬はくるりと振り返った。 「…大我」 逆光で黄瀬の表情は見えない。ただ声だけが、波に負けることなく火神に届いた。 「忘れて良いよ」 ざあ、と押し寄せた波が引いていく。黄瀬を拐って、遠くに連れて行こうとしている。 「俺の記憶がなくなったら、大我も全部、忘れて良い」 いつの間にか、黄瀬は膝下まで黒い海の中に消えている。少しずつ、火神の前から消えようとしている。 「それで、できれば今度は女の子と…幸せに、なって」 笑っているのだろうと、声だけで分かった。笑いながら、こんなことを言っているのだ。 「…ふざけんな」 火神はぎり、と歯を食い縛ってから、叫んだ。 「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ!さっさと戻って来い!」 黄瀬は動かない。何も言わないから、どんな顔をしているのかも分からない。 火神は舌を打つと、靴を脱ぎ捨てた。足を入れた海は思っていたよりもずっと冷たくて、身震いがした。 「黄瀬!」 火神が近付けば黄瀬は離れる。背を向けた彼は躊躇わずに沖へと進むから、もう腰の辺りまでが水の中にあった。 駆け寄りたいのに、水が火神を阻む。波に足を取られて、また少し距離が広がる。 「なんでだよ…」 焦燥と悲しみで滲んだ涙を乱暴に拭う。最後まで一緒にいると約束した。こんな終わり方なんて、認めない。 「なんで俺まで忘れなきゃいけねぇんだよ!」 足を止めて、ありったけの思いを吐き出す。もうそれ以外に、黄瀬を止める術などなかった。 「俺は忘れねぇよ!お前といた全部、一つも忘れねぇ!ずっと、お前を好きでいる!そんで―――」 火神は大きく息を吸い込むと、胸にある不変の決意を、叫んだ。 「お前がもう一度俺を好きになるまで、ずっと待ってる!」 別の誰かを探す必要など無いのだ。火神の心を占めるのは今も昔も一人だけで、それはこの先も変わることはないのだから。 黄瀬はその場に留まったままで、ようやく言葉を返した。 「俺がまた大我を好きになるかなんて、分からないのに?」 「分かる」 きっぱりと、火神は断言する。 「一度好きになったんだから、お前は次も絶対、俺を好きになる」 視線の先で肩が震える。泣いているわけではない。その肩を揺らすのは、もっと温かなものだった。 「…とんだ自信家っスね」 やっとこちらを向いた黄瀬の唇は、綺麗な弧を描いた。 そこにいるのはずっと火神の傍にいたいつもの黄瀬で。火神もまた、柔らかな笑みを浮かべた。 「うるせーよ。いいから早く、戻って来い」 パシャリ、と水が跳ねる。逆らわずに黄瀬はこちらに足を向け、一歩ずつ二人の距離を縮める。 あと少しで触れ合える、というところで、不意に黄瀬の姿が消えた。と同時に、盛大な水しぶきが上がる。 「っ、黄瀬!」 慌てて火神は海の中から黄瀬を抱き上げた。足を滑らせたドジっ子は、水を滴らせながらぱちぱちと瞬く。 「…っくりしたっス」 「びっくりしたのはこっちだ!」 心臓が止まるかと思った。 呆れと安堵が混じった息を吐けば、黄瀬はにんまりと口端を上げる。火神が嫌な予感に逃げるよりも、彼が仕掛ける方が早かった。 「大我!」 「うっわ…っ!」 抱きつくように飛びつかれる。火神はとっさに支えることが出来ずによろめいて、派手な音を立てて水没した。 「…っにすんだテメェ!」 「あははは!」 俺まで巻き込むなとか、帰りどうすんだ、とか。言うはずだった文句は全部、黄瀬の唇に封じられた。 触れるだけの口付けは、涙みたいな味がした。 冷えた体を抱き寄せて、もう一度唇を重ねる。彼の全てを、自分に刻み込むように。 「…大我」 びしょびしょに濡れて、それでも笑う黄瀬はとても綺麗で。 きっとずっと、忘れない。 2014/6/24 戻る |