呼ばれている。何度も何度も、名前を叫ぶ声がする。 そんなに呼ばなくても聞こえているよ。宥めようとしたのに、口から漏れたのは掠れた吐息だけだった。 大切な恋人が泣いているのは見えているのに、何も言うことが出来ない。せめて涙を拭おうと鉛のような手を伸ばせば、濡れた白い頬に、歪な赤い線が引かれた。 弛緩した手を抱き留めて、彼は更に泣く。徐々にその温もりが遠くなり、視界がぼやけていく。もう一度強く呼ぶ声を耳に残したままで目を閉じる。 薄れゆく意識の中でただ、泣かないで欲しいと、願った。 長く眠っていた気がする。青峰は、くっついてしまったかのように重い瞼を持ち上げた。 ピンぼけのような視界を瞬きでクリアにすれば、白すぎる天井が映る。そのまま視線をスライドさせれば、傍らに座る恋人を見つけた。 「―――…っ」 黄瀬。呼んだはずの声は、上手く喉に引っ掛かってはくれなかった。けれど何も無いシーツの上を見ていた彼は、こちらを向いた。 まあるく見開かれた目から、ぽろりと涙が落ちる。ああ、また泣いているのか。 しゃくり上げる肩を抱いてやりたくても、夢の続きのように体は動かない。両手で顔を覆って泣く黄瀬の声が、耳に痛かった。 「青峰」 間近から聞こえた別の声に、青峰は視線を動かす。ベッドの横には、白衣姿の緑間が立っていた。 「俺の声は聞こえているな?」 声の代わりに瞬きで是を返す。 「ここは俺の病院だ。お前は怪我を負って、3カ月の間眠っていた」 言っていることは分かった。けれど、理解するには時間を要した。 3カ月。途方もない時間に、じわりと恐怖が生まれた。 「3月もあれば、人の心など容易に変わる」 緑間は、未だ顔を伏せたままの黄瀬の片手首を取る。逆の手を頬から頭の後ろへと滑らせると、緑間は仰向かせた黄瀬と唇を合わせた。 心臓を鷲掴みにされた気がした。 黄瀬はひくりと身を震わせたが、逆らわずに目を閉じる。押し出された涙が、また頬を濡らした。 想い合う同士しか許されないような長いキスを交わして、緑間は顔を離した。 「黄瀬はもう、お前のもとには戻らない」 薄い硝子越しに深緑色の瞳が挑むようにこちらを見つめる。 「…二度とな」 緑間は吐き捨てると、黄瀬の腕を取ってドアへと向かった。首だけで振り返った黄瀬とは一瞬だけ視線が絡んで、すぐにその姿は部屋の外へと消えた。 青峰はぎり、とシーツを握り締めた。 廊下に出るなり掴んでいた腕を解放する。足を止めた黄瀬は俯いたまま、ぱたぱたと涙を落とした。 子供のように泣きじゃくる黄瀬に、胸が僅かな痛みを覚える。せっかく目覚めた恋人の傍にいることは出来ないのだ。けれどそうなるように仕組んだのは、他ならぬ緑間だった。 「…かった…」 泣き声の合間に、黄瀬は言葉を紡ぐ。 「良かった…!」 それは、流しているのは悲しみの涙ではないのだと、告げていた。 目を瞠る緑間の服を掴んで、黄瀬は濡れた琥珀色の瞳を向けた。 「…ありがとう。緑間っち」 すがるように泣く黄瀬の頭に手を遣る。止まない泣き声を聞きながら、緑間もまた目を閉じた。 「…馬鹿なのだよ」 黄瀬も。自分自身も。 2014/6/10 戻る |