シャワーを止めて顔を上げる。浴室の曇った鏡を指でなぞれば、しょぼくれた顔の自分が映った。
すぐに白くぼやけてしまう鏡に抗いながら指を下降させる。華奢な首に円やかな肩。あるはずのない胸元の膨らみまで映しかけて、やめた。
黄瀬の体が女になれば、二人の関係は破綻する。覚悟はしていたけれど、それでもあからさまな態度には傷付いた。日常的な些細な触れ合いにさえ、火神は「しまった」という顔をするのだ。
膿のように溜まった気まずさは、熱いお湯でも流すことは出来ない。黄瀬は吹っ切るように乱暴に鏡を拭って、浴室を後にした。


ぺたりぺたりと濡れた足音を立てて廊下を進む。たどり着いたリビングには、ソファーの上で雑誌を捲る彼がいた。
「…火神っち」
呼べば火神は顔を上げて、そのままソファーからずり落ちた。
「おま…何して…!」
真っ赤な顔をして全身で動揺する火神に、一歩近付く。しかし、二人の距離は変わらない。
「…なんで逃げるんスか」
一歩進めば一歩離れる。縮まらない距離はそのまま今の二人のようで、悲しくなった。
とうとう壁際まで追い込んだ火神は、耐えかねたように叫ぶ。
「いいから早く服を着てくれ!」
足を止めた黄瀬の髪から落ちた滴が、胸の前で押さえたバスタオルに消えた。
湯上がりの黄瀬が身に纏うものはぐるりと体を囲うタオル一枚のみで、剥き出しの肩や直にフローリングに触れる足が寒そうだった。駆け寄って抱き締めてやりたいと思うのに、躊躇う足は動かないままで、そうこうしているうちに黄瀬の瞳には溢れそうなくらい悲しみが積もった。
「…ごめん」
小さく謝った黄瀬は気丈に顔を上げて、覚悟を口にした。
「出て行くっス」
実家に帰らせてもらいます。数日前に紙面が告げたさよならを、今度は直接聞く。
今度こそ、本気の決別だった。
火神は、体を返しかけた黄瀬の腕を取ると、迷うことなく抱き締めた。どこにも行かないように、強く両腕で閉じ込める。
「…火神っち…」
泣き出す寸前の声が名前を呼んで、華奢な手が火神の服を握る。予想した通り、濡れた髪も肩も冷たくて、たまらなくなる。
「ごめん。ぜんぶ、俺が悪い」
浅はかな己の行動を悔いた。何を言おうと言い訳にしかならない。けれど本当に、そんなつもりではなかった。自分は、ただ。
「どうすりゃ良いのか分かんねぇんだよ。…女とは、付き合ったことねぇから」
抱いた体は小さく細く、硝子細工のように繊細で綺麗だった。大事にしたいのに触れたら壊れそうで、接触に怯えた。腫れ物扱いが逆に黄瀬を傷付けるなんて、思ってもみなかった。
「お前が好きだ。どこにも行かないでくれ」
この先、黄瀬がいない人生なんて考えられない。バスケと同じか、もしくはそれ以上に、この人が必要だった。
胸に埋めていた顔を上げた黄瀬は、いまだ不安に揺れる瞳で火神を見つめた。
「今の俺でも、欲情する…?」
「よく…!」
繰り返すのも躊躇われるような直接的な単語に、言葉が詰まる。タオル一枚しか肌を隠すものがないという現状が、更に単語に生々しい質感を持たせる。
幾度か無意味に口をパクつかせた火神は、やがて観念して大きなため息を吐いた。
「…欲情、するにきまってんだろ。お前なんだから」
無防備に体を寄せる黄瀬を、なんど引き倒してやろうと思ったか分からない。それをしなかったのはひとえに大事にしたかったからなのに、黄瀬自らこんなことを言い出すのだ。
若い性が目覚めそうな予感がする。離れようとした火神を許さずに、黄瀬は肩に手を置くと体を伸ばして口付けた。
「…いいよ」
甘い囁きにくらくらする。
「火神っちにされて嫌なことなんか、何もないから」
悩殺とは、正にこのことを言うのだろう。沸騰した頭は考えることを放棄し、火神は衝動のままに黄瀬を抱き上げた。
驚きの声を無視して寝室に運び、ベッドに降ろす。
今まで抑えていた分、一度溢れたものは止まらなかった。押し付けるような強引なキスでも、黄瀬は健気に応えてくれる。
黄瀬の腕が首に回るのを感じながら、火神は柔肌を覆う最後の一枚に、手をかけた。


「俺が男にしか興味ない?なんだそれ」
「…違うんスか?」
ベッドの上、ようやく熱が冷め始めた体を寄り添わせながら疑惑を口にすれば、火神は心外だと言わんばかりに目を丸くした。
「またなんでそんな勘違いをしたんだ」
「だって、アレックスさんと氷室さんなら、氷室さんと付き合うって…」
「あー…そんなんじゃねぇんだよ、あれは…」
火神は弁明しかけるも、止めて別のことを口にした。
「じゃあお前、桃井と青峰ならどっちと付き合う?」
「え?」
突然の二択に戸惑いつつも、黄瀬は旧友二人を思い浮かべる。
桃井は、自分を『モデルの黄瀬涼太』ではなく、一個人として見てくれる数少ない女の子だ。他の人には話せないようなガールズトークも出来る、貴重な友人でもある。恋人同士になる、なんて考えられない。
対して青峰は中学時代からの憧れであり、どことなく火神と似通ったところがある。
消去法で、答えはすぐに出た。
「…青峰っち」
「ほらみろ」
お前だって同じだと諭されて、目から鱗が出る。と同時に安堵した。
「そっか…」
完全に自分の勘違いらしい。小さな笑みを刻んだ口に、火神の唇が重なる。
「ん…、っ」
軽い触れ合いはすぐに深いものに変わる。引いた熱をまた引っ張り出すようなキスに、薄らと涙が滲んだ。
「は……火神、っち…?」
何も纏わない肌をなぞられて体が震える。名前を呼んで意図を問えば、火神はむっすりと答えた。
「ベッドで他の男の名前を出すな」
「えぇええぇー!」
理不尽だ。黄瀬の叫びは、キスに消えた。


fin 2014/5/3

戻る