迫ってくる死の足音が聞こえる。
怖かった。まだ生きていたかった。こんなところで終わってしまうのは嫌だった。
―――大丈夫。
動かないけれど必死に伸ばしていた手を優しく包まれる。
―――必ず、助けるから。
暗いところから救い出される。大事に大事に抱き締められる。けれど。


剥き出しの岩肌が見える。体のあちこちが痛い。くらくらする頭では現状の整理をすることができない。なんでこんなところにいるんだっけ。
「さつき…!」
間近から聞こえた声に、ぼんやりとそちらを向く。
「…だい、ちゃ…」
必死な顔なんて似合わない。桃井は小さく笑う。
「気分はどうだ、桃井」
青峰の隣にいる緑間は元は白かったであろうタオルを持っていて、その赤色が桃井を現実に引き戻した。
そうだ。事故に遭ったんだった。乗っていたバスが崖から落ちて、それから。
「血まみれで運ばれてきたから心配したんですよ」
緑間の傍らには頭に包帯を巻いた黒子がいる。
「血…」
言われてようやく、服の違和感に気付く。視線を下ろした胸元に広がるどす黒い赤に、息が止まった。
「本当に怪我はねぇのか?」
青峰の問いにゆるゆると首を振る。
違う。こんなのは違う。これは。
「…私の血じゃ、ない…」
覚えている。諦めかけていた自分を連れ出してくれた温かい手を。
―――大丈夫。
言い聞かせるように囁く優しい声を。けれど、本当は。
誰よりも一番死に近いところにいたのは、彼だった。
「―――きーちゃんの血、だよ…」


焦りが足を縺れさせる。まるで水の中を走っているかのように、体は思うように進まない。
こんなにも自分が遅いと思ったことはない。こんなにも自分に失望したことは、なかった。
―――黄瀬を迎えに行ってやれ。
赤司の言葉に対して湧いたのは、強い反感だった。
黄瀬は大丈夫なのだ。いつだってそうだった。いつだって黄瀬は一人で勝手に大切なものを守った。その身を削って、それでも大丈夫だと笑ってみせた。
だから今回だって、大丈夫なはずだった。黄瀬はきっとこの洞窟のどこかにいる。心配し過ぎだと、焦る自分を笑う。そうでなくてはいけなかった。
「黄瀬!」
洞窟の出入口付近にある開けた場で名前を呼ぶ。すぐに治療が必要な者以外は、大体ここに集まっているはずだった。
何対もの目が青峰を見るが、そこにあの目立つ金色は見つからなかった。
「…ち」
舌打ち一つで踵を返すと、青峰は迷いなく外へと飛び出した。雨は点から線になり、容赦なく全身を打つ。視界も足元も悪い。けれど、立ち止まってなどいられない。
青峰はバシャリと泥水を蹴って、木々の間を駆けた。洞窟まで辿り着けなかったとしても、どこかで雨宿りをしているはずだ。
邪魔な水を何度も拭って、必死に目を凝らす。木の下や窪んだ岩、雨風を凌げそうな場所はあれど、そのどこにも黄瀬の姿はなかった。
「くそ…!どこにいんだよ…!?」
闇雲に走り回るのをやめて、青峰は立ち止まった。急く気持ちを押さえつけて、考える。
黄瀬は怪我をしていると、赤司が言っていた。それも軽い怪我ではない。桃井を血染めにするほどの怪我だ。
―――青峰っち…。
鉄屑と化したバスの横で、黄瀬は青峰に桃井を託した。あの時はもう既に致命傷を負っていたというのか。
「…っ!」
一つの可能性に、心臓が冷たく跳ねる。頭よりも先に体が動いていた。
「まさか…」
よろける様に歩き出した足は、すぐに駆け足に変わる。不安定な地面に足をとられて何度も転びかけながらも、ただひたすらに駆け抜ける。
やがでたどり着いた場所には、置き去りにされたバスがあった。そして同様に、置き去りにされた一つの体があった。うつ伏せに倒れてなす統べなく雨に打たれているそれは、まさに青峰が探し回っていた金色だった。
「…黄瀬…」
膝が笑う。駆け寄ることもできないままで重い体を引きずるように近づいた青峰は、黄瀬の傍らに崩れ落ちた。
「…なんだよ…」
降り始めから全ての雨を受け止めたのであろう体は、余すとこなく濡れそぼっている。
「なにしてんだよ…なあ…!」
近くの木陰に移動することすら出来なかったというのか。それほどまでに追い詰められていたのなら、なぜ桃井を助けたのか。なぜ自分や赤司に助けを求めなかったのか。分からないことばかりで頭がくらくらする。
とにかく一刻も早く仲間の元へ運ぼうと黄瀬の腰に手を回すと、雨ではないぬるりとしたものに触れた。青峰は感電したかのように、ビクリと手を上げる。
ゆっくりと上向けた手のひらは、真っ赤だった。降り注ぐ雨が手の上に落ちては、赤と混ざって色を滲ませる。
くらくらする。気持ち悪い。うるさすぎる心臓を、口から吐き出してしまいそうだ。
青峰は黄瀬の肩に手をやると、体を反転させた。仰向けになった黄瀬は、がくりと青峰の腕に体を預ける。強い雨が顔を打っても、彼は何の反応も示さない。先ほど青峰が触れた脇腹からは、血と雨と泥が混ざりあった液体が、ぽとりと地面に落ちた。
喉を裂きそうなほどの慟哭は、激しさを増すばかりの雨に掻き消された。


2014/3/24

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