青峰が異変に気付いたのは、急な寒波が襲ってきた、春の終わりのことだった。
例外なく、冷気は体育館にも入り込む。誰もがジャージの袖を伸ばして体温確保に勤しむ、そんな中で。
透けるように白い肌を惜しみもなく晒す黄瀬の姿は、嫌でも目立った。
「…寒くねぇの?」
「寒い、けど…」
「けど?」
促せば黄瀬は寒さに震える腕を抱いて、曖昧に笑った。
「…ジャージ、忘れちゃって」
気温は朝から低かったのにそんなこともあるのか、と。どこか引っ掛かりを感じつつも馬鹿だなと笑って済ませることができた。まだ、この時は。


不可侵テリトリー


一つ綻びを見つけてしまえば、あとはするすると解けていくだけだ。
黄瀬は明らかにおかしかった。ちぐはぐな格好をしたり、明らかにバスケ外の傷をこさえたり、練習中ふいに姿を消したり。
そういえば最近は眉を下げて困ったように笑う顔しか見ていないな、とか思ったらもう黙ってはいられずに青峰は隣の相棒に声をかけた。
「なんか、黄瀬おかしくね?」
「君がおかしいです」
「は?なんで俺…!」
バシッと叱るみたいに黒子が投げたボールが手に収まる。そのパス以上に、水色の視線は静かに青峰を射抜いた。
「気づくのが遅すぎです」
「ッ!」
思わず息を飲んだ。違和感は、勘違いなんかではないのだ。
「あれほどあからさまなのに今更その発言とは。だからお前は駄目なのだよ」
「峰ちん鈍すぎー」
緑間、紫原まで同調するのに焦る。もしかしなくても、これはーーー
「気付いていなかったのは君だけですよ」
ガガーンと、雷に打たれたような衝撃がある。が、ショックを受けている場合じゃないと思い直す。
今は黄瀬に何が起きているのかを知るのが最優先だ。この口調なら仲間たちはきっと自分が気付いていない何かを知っている。
「あいつに何…」
「涼太は3年生に嫌がらせを受けている」
先回りして答えをくれたのは赤司だった。
嫌がらせ。へばりついた言葉は、胸を不快にさせる。
「知ってんならなんで何もしねぇんだよ…!」
「影から手を回すような真似はしないと決めたんだよ」
激昂する青峰を制して、歳不相応に達観した口調で赤司は続ける。
「涼太の意地に横槍を入れる訳にはいかない」
「そう、かもしんねーけど、でも…!」
赤司の言っていることは分かる。でも、飲み込むことはできない。
苦虫を噛み潰したような青峰の肩に手を置いて、赤司は窘めるように名前を呼んだ。大輝。
「甘やかすだけが友情ではないよ」
青峰が己の拳を握りしめたのと、体育館のドアが開いたのは同時だった。
「遅れてスミマセン…」
ひょっこりと顔を出した黄瀬は、今日もまた酷い有様だった。服だけでなく髪まで砂で汚して、手足には血が滲んだ擦り傷がある。
誰かに何かを言われる前に、黄瀬はヘラっと笑って惨状の説明を口にした。
「ちょっと…転んじゃって」
「そ…」
そんなんじゃないだろう、と。出かかった青峰の叫びは鋭い赤司の一声で追いやられた。
「敦!」
呼ばれるのとほぼ同時に紫原は見たこともないような俊敏さで黄瀬を横抱きに抱え上げる。きゃーという黄瀬の悲鳴は、またしても赤司によってかき消された。
「真太郎、傷の手当を。テツヤはメンタルケアを」
テキパキと指示を出しながら黄瀬の傍へと寄った赤司は、その手をぎゅっと握りしめた。
「歩けるかい、涼太」
「さっき普通に歩いてたじゃないスか!大丈夫だから、かすり傷だから、離してー!」
一人出遅れた青峰は、手も足も口も出せないままで、ただ脳内で盛大な突っ込みを入れたのだった。
ーーー甘やかしまくりじゃねぇか。


放っておく。本当に、それ以外に術はないのだろうか。
らしくもなく考え込みながら歩いていた青峰は、いくつもの道を通り過ぎていつの間にやら第4体育館へと来ていた。ここから第1体育館まで戻るのは面倒だしバスケができればどこでもいいかと、中に入って固まる。
電気が点いているのは見えていた。でもあまりにも静かだから、誰かいるとは思わなかった。
だだっ広い体育館の中には、ボールに囲まれてちんまりと座る黄瀬の姿があった。
「お前…なに、やってんだ?」
のろのろと振り返った黄瀬は、見つかっちゃったという顔で手の中の布とワックスを見せる。
「ボール磨き。今日中にやっとけって、言われて…」
これを?1人で?30はあるであろうボールを目にして、驚きは苛立ちへと変わる。
嫌がらせ。今日聞いたばかりの言葉に胸焼けを覚えながら、青峰は黄瀬の正面に座った。
「青峰っち…?」
「手伝う」
「え…?いいよ大丈夫!青峰っちは練習してて」
「うっせ。いいから黙って手ぇ動かせ」
ひったくるように予備の布を取っても黄瀬はまだもごもご言っていたが、やがて言いつけ通り静かになった。
2人ならこの量も終わるだろうかと考えて、いや無理だなと否定する。適当にやれば終わらなくもないだろうがそれでボールが傷むのは本意じゃない。
バスケに関しては誠実な青峰は、丁寧にボールを磨き終えてさあ次と手を伸ばして、またしても固まった。何の気なしに見やった黄瀬は、手を動かしながらポロポロと涙を落としていた。
「黄…瀬?」
呼んでやれば黄瀬は顔を上げて、それでようやく頬を伝うものに気付いたようだった。驚きに丸くなった目からまた雫が落ちて、それがきっかけのように黄瀬は顔を歪めて小さな泣き声を漏らす。
無意識に泣き出す痛ましさに、青峰は目を眇めた。悔しいだろうなと、思う。こんな理不尽な目に遭って辛くて泣いているんだと、そう思った。でも違った。
「ごめ…っ」
しゃくりあげながら黄瀬は、青峰に謝ったのだ。
「青峰っち、まで…巻き込んで、ごめんね…」
ーーー涼太の意地に横槍を入れる訳にはいかない。
赤司が言っていたのはこういうことか、とようやく理解する。ただ嫌がらせに耐えている訳じゃない。黄瀬は、青峰たちを守ろうとしているのだ。
つまらないことにうつつを抜かす余裕があるのなら、主犯の3年というのはおそらく二軍か三軍だろう。なら、黄瀬がターゲットになった理由は明白だ。下級生の一軍なんて、目障りで仕方ないのだろう。
入部から日が浅く雑務を押し付けられてても一番目立たない、だから黄瀬が選ばれた。でも『下級生の一軍』は黄瀬だけじゃない。
赤司あたりが手を回して黄瀬への嫌がらせを止められたとして、その次は。第二、第三の犠牲者が出るかもしれないということを、黄瀬はなによりも恐れている。だから、うかつに手出しはできない。
ーーー分かりづれぇよ!
文句を言いたくとも赤司はここにはいない。青峰は改めて正面を見た。
未だ涙の枯れない顔を袖口で拭ってやれば濡れた金瞳がこちらを向く。
「青峰、っち…?」
なにか、してやれることはないのだろうか。1人で踏ん張ってるこいつのために。こんな雑務を手伝うことなんて黄瀬は望んじゃいないから、もっと別の、なにか。
考えてみても名案は出てこない。頭に浮かぶのは、ボールを持って「青峰っち、青峰っち」と追いかけてくる黄瀬の姿ばかりで、ならもうそれでいいかと、思う。
「行くぞ」
腕を掴んで黄瀬を立たせる。
「え…どこに…?」
「1on1に決まってんだろ」
「っ、でも…でも…」
そのまま引っ張ろうとした体は、控えめに抵抗してくる。ボールとこちらとを見比べて迷う黄瀬を強く引き寄せる。よそ見なんて、出来ないように。
「いいから、俺がやると言ったらやるんだよ」
言い切ってやれば黄瀬は瞬いて、それからくすりと笑った。
「なんスか、それ」
目を細めたことでまた涙が落ちたけれど、もう痛ましくはなかった。
黄瀬の笑顔を、久しぶりに見たような気がした。


いつものように雑務の洗い物をしながら、いつものように黄瀬の心は沈みはしなかった。
1on1をした昨日の余韻がまだ残っている気がする。青峰とのバスケは楽しい。何度本気で挑んでも鮮やかに抜き去っていくそのバスケには憧れてやまない。
だから、青峰たちがつまらないことに足を取られることなく自分のバスケができる環境を守る、この行動には意味があると思えた。
「おい、黄瀬」
間近から聞こえた声に黄瀬はビクリと竦んだ。いつの間にやら3人の男たちに取り囲まれている。ここのところことある事に黄瀬に絡んでは雑務を押し付けてくる3年生たちだ。
「ボール磨いとけって言ったよな」
「…スミマセン…」
言い訳も反論も押し込めてただ謝罪だけを口にする。殊勝な態度は男たちの加虐心を煽るばかりだった。
「一軍サマは忙しくてそんな仕事できないってか。いいご身分だな」
「勘違いしている後輩を正してやるのも先輩の努めだよな」
ニヤついた男の1人が思い切り水を出した蛇口の向きを逆にする。指で出口を制限された水流は勢いよく黄瀬に飛びかかり、ぐっしょりと全身を濡らす。
「っ!」
下卑た笑い声を聞きながら、黄瀬は顔の水滴を拭った。水を吸った全身が重い。さすがにこれは着替えなくてはいけないだろう。
隠されていたジャージを見つけておいて良かったな、なんて呑気に考えていた黄瀬は、危機感を抱くのが遅れた。
いつの間にやら彼らから笑いは消え、その目は黄瀬の首筋を伝う水を追っている。ごくりと誰かが息を飲む音に、悪寒が走った。
「黄瀬…」
「ひ…っ」
避け損なって腕を掴まれる。ねぶるような視線が怖くて声すら出ない。
怯える黄瀬にまた別の手が伸びてくる。だがそれは触れる前に遮られ、同時にバサリと降ってきた布で黄瀬の視界は塞がれた。
「くだらねぇことしてんじゃねーよ」
唸るような声、張り詰める空気。見えなくても、分かる。青峰だ。
「昇格試験も間近だっつーのにこんなとこで遊んでるとか、ずいぶん余裕だな、先輩方」
顔を上げれば案の定、自分と3年生との間に割り込む青峰の背中が見える。その上半身はTシャツ姿になっていて、さっき降ってきたものは青峰のジャージなのだと知る。
「こいつに構うより他にやることがあんじゃねーの」
青峰は決して声を荒らげたりはしなかった。でも十分だった。明らかに怯んだ3年生たちは、ごにょごにょと悔し紛れの捨てセリフを吐いて逃げ帰っていく。
呆気にとられている間に、助けられてしまった。
しかし黄瀬の胸に湧いたのは感謝ではなく、焦燥にも似た罪悪感だった。また、青峰を巻き込んでしまった。誰よりも一番バスケをしていて欲しい人に、迷惑をかけた。
「青峰っち…」
ごめんね、は口から出る前に消えた。青峰は振り返ったと思ったらそのまま黄瀬の腕を取って歩き出したのだ。
「え、え…?あの…」
昨日の再現のように引っ張られながら、髪から落ちた雫に自分の状態を思い出す。
「青峰っち、ジャージ濡れちゃうから…っ」
「いいから着とけ!」
返そうとしたジャージはひったくられて、また肩へと羽織らされる。地面に落ちる水音を聞きながら、途方に暮れて青峰を見つめる。
不機嫌顔の青峰は、ガシガシと頭をかいて、それから何かを吹っ切るように「だああもう」と叫んだ。
「黄瀬!」
「ハイ…!」
怒られる、と覚悟した黄瀬に青峰が告げたことは、予想の遥か斜め上をいっていた。
「お前、俺のもんになっとけ」
「…へ?」
俺のもの。それが何を意味するのかすぐにはピンとこない。そして青峰は、ゆっくり考える時間など与えてはくれなかった。
「返事は」
容赦なく急かされて、慌てる。混乱する頭は思考を放棄してしまって、黄瀬はほとんど反射だけで、答えを返した。
「よろしく、お願いします…?」
首を傾げた疑問形、なんて不格好すぎる返事だったが、青峰は咎めたりはしなかった。
「よし」
やたら満足そうにくしゃくしゃと頭を撫でてくれるから、これでいいのかな、なんて思う。なんだかこっちまで嬉しくなって、青峰のジャージを握ったままで、黄瀬は肩を竦めてくすぐったく笑った。


「俺のものに手を出すな、ということですか」
「おーよ」
青峰が胸を張って答えると、黒子は「はぁ」と相づちだかため息だか分からない声を出した。
うだうだと色々考えてみたものの、目を離せば何をされるか分かったもんじゃない黄瀬を放っておくなんてできるはずもなく。かといって、皆の盾になるんだと両腕を広げる黄瀬の気持ちも無視はできない。
ならもういっそのこと、そんな黄瀬ごと囲んでしまって、己のテリトリーに足を踏み入れようとする輩には牙を剥く。それで全部解決じゃないか。
「しかし野性的というかなんというか…」
ボールを持った黒子はふっと表情を緩めて、薄く笑う。
「アホ峰くんらしいですね」
「今お前アホって言ったよな」
黒子と小競り合いをしつつそういえば当の黄瀬はまだ来ないのかと何の気なしに体育館の入り口を見やった青峰は、絶句した。まさに今練習に合流しようとしている黄瀬の手足には、真新しい傷があった。
「どうした黄瀬、また何かされたのか」
「え?いやいや、これはホントにただ転んだだけで」
一瞬で距離をつめた青峰は、パタパタと振られる黄瀬の手を握って更に畳み掛ける。
「大丈夫か。救急車呼ぶか」
「かすり傷だってば、やめてー!」
なんやかんやと世話を焼く青峰を見守っていた黒子たちレギュラー陣は、顔を見合わせると小さく笑った。口には出さなかったけれど、きっと皆同じことを思っただろう。
ーーーお前が一番甘やかしまくりじゃないか。


fin 2019/1/30

愛されっ子の補足として、サイト開設すぐに公開されるはずだった話。構想6年とか、笑えない…。
次回、性的嫌がらせを受ける黄瀬を守ると見せかけてここぞとばかりに便乗する青峰さんの話になります。
「こいつにセクハラしていいのは俺だけだ」
coming soon(嘘)

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