手のひらの世界







豪雨のように罵声が降る。全身に突き刺さる敵意は、身も心も引き裂こうとする。
それでも青峰は、コートに立った。





 
 鳥籠の空






「青峰」

練習を終え、さっさと帰ろうとしたところで呼び止められた青峰は、舌打ちしたい気持ちを抑えて振り返った。
難しい顔をしたコーチが言わんとすることは、聞くまでもなく分かっていた。

「まだ気持ちは変わらないのか」

まだもなにもねぇよ。
吐き捨てたくなる言葉も飲み込んで、出来るだけ静かに答えを告げる。

「…今の俺が海外で通用するとは思えないんで」
「その不調は日本にいるせいじゃないのか」

チリっと静電気のような苛立ちが生まれる。感情に任せて怒鳴りつける前に、青峰はこれ以上会話をする気はないことを態度で示した。
無言で背を向けた青峰を、コーチの声が追いかける。

「あっちでの火神の活躍は聞いているんだろう?」

日本とアメリカ。距離以上に離れたかつてのライバルとの差をちらつかせて、コーチは暗に問う。

―――お前は悔しくないのか?

追いつきたい。負けたくない。
そんな想いは、もう青峰の中には無い。火をつけるための台詞も、延焼させるものがなければただ虚しく消えるだけだ。
青峰は、自嘲の形に唇を歪めた。

「…んなこと、どうだっていいんすよ」

無心にボールを追いかけていた頃、この手は大きなものを掴めると信じていた。でも今の自分は
―――手のひらの中の小さな世界を守るだけで、精一杯だった。




「ただいま」

ドアを開ければ、ペタッペタッと乱れた足音が出迎えてくれる。

「おかえりなさい」

笑う黄瀬を見れば、ささくれ立った心が凪ぐのを感じた。
黄瀬と暮らすようになって、もう2年になる。
家のことはすっかり任せてしまっているから、青峰は黄瀬がいなければ石鹸一つだって見つけ出すことも出来ない。

黄瀬が綺麗にしてくれている部屋に帰って、黄瀬が作った飯を食って、寄り添って眠る。
そんな平凡な日々が何よりも大切で、青峰が守りたい全てだった。

青峰が風呂からあがると、黄瀬はソファーで洗濯物を畳んでいた。
青峰はタオルを首にかけたままで、ソファーを背にしてラグの上に座る。
先に風呂に入った黄瀬は素足で、ズボンの裾からは足首が覗いていた。手を置いた甲は、少しひんやりとしている。

暖めるようにそこを撫でて、くるぶしに触れて、更に服の中に侵入して足をなぞれば、滑らかな肌には酷く不似合いな引きつった傷痕にたどり着く。膝から足首にかけて走るそれは、手術跡だ。

何度も肌を切り裂かれて何度も苦痛に耐えて、それでも黄瀬の脚は良くならなかった。
黄瀬は生涯、支え無しでは歩くことも出来ない。

「どうしたんスか?」

穏やかな声が降る。答えずに黄瀬の膝に顔を伏せれば、そっと頭を撫でられる。
この2年、黄瀬が恨み言を吐くことはなかった。

―――ぜんぶ俺のせいなのに。

黄瀬の才能を殺して未来を奪って、それでもこの生活が幸せだと感じる自分自身に
―――吐き気がした。



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