「あっちぃーー!」
 真夏の真青に澄み渡った空のど真ん中で、気持ち良さそうに太陽がぴかぴか輝いている。白い光は等しく地上に降り注ぎ、足元に出来た薄い水溜りに反射してまたきらきら光る。上からぴかぴか、下からきらきら、世界中全てを覆い尽くそうとしているかのような真白い自己主張に多少げんなりとして手に持っていた長柄のブラシを水溜りの中に突っ込ませた。びしゃん、と水が跳ねて素足に掛かる。温い。途端に不快な気分になって、その柄の先端に顎を乗せ体重をかけた。
 蒼く塗られたプールの内壁は傍から見る分にはつやつやとしているが、実際に触るとざらざらだ。先ほどからずっとブラシで磨きながらずりずりと前進後退を繰り返していたせいか、足の裏はすっかりそのざらざらで均されてつるつるになってしまっている。というか擦れて半ば感覚がないのだ。顎を乗せたブラシを両手で支えながら視線を床に落とす。そしてうだうだと足の親指を動かして無為に時間を過ごす。纏っている体育着は汗ですっかりべとべとになってしまい、なんといもいえない心地の悪さがあった。襟足のあたりから首筋を伝って背中へと流れていく汗の一筋の感触を感じていた。俯き勝ちになっているせいで、汗は容赦なく顔面にも回り込んできた。目に沁みる。痛い。唇を尖らせ溜息を吐くと、「こらっさぼんなよ!」ちょうど今自分が立っているのと対角線上反対側の隅の方で、せっせかとブラシを動かしていた親友が振り返り、叫んだ。十代はのろのろと顔をあげ、片手にブラシを持ちもう片手を腰にあて随分としゃっきりした様子でこちらを睨んできている親友に力の無い叫びを返した。
「だってさーあっちぃんだもんーー。プール掃除なんてやってらんねーよーー」
「はぁっ!?おまえ誰のせいでこんなことになってると思ってんだよ!!」
 すかさず反撃が返ってくる。しかもそれが正論となれば、十代は口を噤まざるをえない。そもそも何故、部活棟にある25メートルプールを水泳部でもない二人がこうして磨く羽目になったのか。それは一様に、十代の授業態度の悪さが原因であった。実技の方の体育はクラスの中でもぶっちぎりで1位という好成績を叩きつけるくせに保健の方の体育となると途端に威勢のよさは形を潜め、やがてはまんじりとも動かなくなってしまう。要するに眠りの世界に身体を動かしに行ってしまう十代は毎回そうして授業を聞きそびれ、課題プリントも提出せずに当然テストの点数も最悪となればさすがに教科担当の教師の堪忍袋の尾も切れる。そうして学期末に盛大に呼び出しを喰らった十代は、プール掃除という難題を押し付けられたわけだった。親友のヨハンは唯単に十代の手伝いをするためにこうして夏休みにわざわざ登校してきてくれているだけだ。
「それはまあー…俺だけどー……」
「手伝ってやってるだけでもありがたいと思えよな!ほら、わかったらさっさと手を動かせって!」
 かりかりと怒声をあげる親友の姿にげっそりとしながらも、やはり反論することは出来ない。ここで何か口答えをして「もう帰るからな!」とでも言われてしまったら一環の終わりだ。掃除を始めて1時間ほどになる、それでもまだ二人合わせて半分ほどしか終わっていないというのにここで彼に抜けられたら、残りの半分を2時間かけて自分ひとりでやらなくてはいけない羽目になる。炎天下の中、それは、最も避けたい事態である。少々打算的である自覚はあったが仕方がない。こんなに暑いのだ、ひとりでやっていられるわけがない。
 考えた末、重い溜息を吐いてから再び手を動かし始めた。ごしごしごしごし。緑色の硬い毛が青い地面を削るようにして磨いていくのをぼんやりと眺めていた。ゴミが溜まりやすい隅っこを片付け、だだっ広いばかりの中央に向けてブラシを動かしていく。必然的に背筋を丸め前傾姿勢になるため腰が痛い。ちりちりと首筋を射る陽射しの強さにじりじりしながらも、黙々と作業を進めた。遠くから蝉がじんじん鳴き叫ぶ声が聞こえてくる。夏の風物詩といえば聞こえはいいが、この濁点に塗れた唸り声がまた暑さを助長させてくれるのだ。頬を伝い落ちる汗の温さにげんなりしつつも、口を引き結んで手を動かした。夏の、風の無い晴れた日は本当に地獄のようだ。

 時の流れが遅く感じる。眼球を突き刺す昼の強烈な明るさから逃げるように双眸を細め、ぜえはあと息を荒げながら只管ブラシを動かし続けた。もう再開してから1時間経ったんじゃないか、とも思ったが、顔を上げればまだあと少し残っている。まだ残っている。だがあと少し。絶望に暮れそうになって、慌てて首を横に振り考えを改めた。そうだ、終わりがあることだけを考えて進めば時間の経過など大した問題ではなくなる、はずだ。疲弊しきった溜息を吐いてからこしこしと再び弱々しくブラシを滑らせ始めた。のだが。
「じゅーうだい!」
「うわっ、」
 唐突に真横から声が聞こえて反射的に顔を上げた十代に向かって黒い影が降ってきた。咄嗟に手を伸ばして受け止めたそれは、
「つめてっ!」
じっとりと汗ばんだ両手に気持ちよく馴染む低温で、掌からすっと伝わってくる冷たさに思わず頬を緩めたところで手放したブラシの柄がからんと小気味の良い音をたてて水底の青の上に転がった。よくよく見れば降ってきたものの正体はスポーツ飲料水の缶で、降ってきたというより投げ渡されたといった方が正しかったことに、プールサイドからこちらを覗きこんでくすくす笑っている存在に気付いた時に理解した。十代は遠慮なく缶を開けながらも、自分より一メートル以上も上の視線からにやにやと見下ろしてきている親友を恨めしそうに睨み上げた。碧い髪が青い空と同化しかけて、しかし微細に異なる色彩であるため完全に一体化はしない。
「なんでそこにいるんだよー」
「俺の担当分はもう終わったぜ?
「えー何時の間に…?」
「だからこうやってさ、やさしーいヨハン様が、十代君の分までジュース買ってきてやったんだろ?」
「…なんか今無性にイラッとしたぞ」
「へへっ、悔しかったら早く終わらせて上がってこいよな!」
 にか、と爽やかに笑うヨハンの顔が影になっている。光を反射する白い歯ばかりが眩しくて、思わず瞳を細めた。ああ、鬱陶しいほどに爽やかな奴だな、と改めて思い直しながら缶の縁を下唇につけると、それは生き返るほど冷たくて気持ちよかった。
 ヨハンはぐいと思い切り背筋を反り返らせると、白い首筋を伸ばして青空を見上げた。十代も釣られて空を見上げる。もったりと色を濃くした青のキャンパスに一筋、きれいな白い線が描かれていた。飛行機雲、と十代が呟くのと、ヨハンが口を開くのは同時だった。
「なあ、十代!」
「んあー?」
「これ終わったら海行こうぜ海!」
「は?」
 思わず間抜けな声で返してしまった。十代は、正気か?といった視線をヨハンに向けるが、向けられた方はいたって真剣そうな様子で瞳をきらきらさせ力強く頷いて見せた。十代よりも長い足(若干、だと信じたい)を大きく開閉させ前進しながら、ぐるぐるとプールサイドを回り始める。そわそわ、うきうき、どれが正しいだろうか、兎に角その場に到底立ち止まっていられないといったようにヨハンは忙しなく動き回りながら言葉を続けた。彼特有の、アルト音域の声は真夏の日差しの中でも力を失わない。
「あと十分で十代が掃除終わらせるだろ?そしたらここの鍵閉めて、おばちゃんに鍵返して、学校を出ると。ここまでで二十分は掛からないはずだぜ。学校から海まではチャリ漕いで二十分くらいだから…ほら、一時間もかかんねーで海まで行ける!まだ午前中だし、全然遊べるぜ!」
「……えっ、マジ?」
「マジもマジ。十代だって暑いあついさっきから言ってただろ?泳いだらちょっとは涼しくなるって!」
 つーかプールのにおい嗅いでたら俺が泳ぎたくなっちまっただけなんだけどな、と言ってまたにこりと微笑むこいつは本当に高校生なのだろうかと思う。動機があまりに単純すぎる。というより唐突過ぎる。そんな、行き成り海だなんて、まったく用意もしていないし十代の制服のスラックスのポケットに忍ばせてある平べったい財布には小銭が数枚しか入っていない。水着だって無いし、日焼け止めだって。
 脳内では淡々と問題点ばかりが列挙されていくというのに、しかし十代の口端は何時の間にか上向けられていた。手に持っていた缶に残されていた飲料水を一気に飲み干し、空になったそれをヨハンに投げ返しながらうーんと大きく伸びをした。ヨハンは当然のように缶を受け取り、輝く瞳で十代を見た。まるで無邪気な小学生のようなその顔。耐え切れず噴き出しながら、十代は足元に転がっていたブラシを拾い上げた。
「五分で終わらせるから、おまえそれ捨ててこいよ」
 にや、と微笑み返してやればヨハンは嬉しそうに瞳を細め「まったく人使いが荒い奴だなー」とぶつくさ文句を垂れながらも小走りでプールから出て行った。その後姿を見送ってから、十代は、垂れ下がってきていたワイシャツの袖を捲し上げ、「よっしゃー!」蒼天に向かって拳を突き上げた。相変わらず夏の日差しは暑いばかりだったが、想いを馳せればすぐそこにある光を乱反射させて煌めく水面、潮の香りに機嫌はあっと言う間に上昇していった。


 長い下り坂を駆け抜けて、鈍いコンクリートの鼠色までがぴかぴかと輝いて見える真昼間の道路を独占して走る二台の自転車が、先を急ぐようにして町並みの中を過ぎ去っていく。それはまるで、暑いひと夏も過ごし方次第によってはあっと言う間に過ぎ去っていくとでも言いたげに、刹那的なきらめきと共に空を飛んでいるかのようだった。
 潮の香りが近付いてくる。ふと横を見た時にかち合った視線、はにかみ笑えば同じものを返される。前方から吹き付ける風が襟元からワイシャツの中へと入り込み、ばたばたと白をはためかせた。肌を刺す暑さが温む前に、とりあえずはこの暑さを堪能しなければ!(そう、君と一緒に!)



2008.夏
(夏とかそういう問題以前に本当に去年のことだったかどうかすらうろ覚え)




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