最悪だよ。僕は心の中で何度繰り返したかわからない悪態をもう1度吐く。たまらなく苛々していて、肺の中で蟠っていた黒々とした感情の塊のようなものを吐き出すつもりで溜息を吐いた。だが、こっそりこぼしたはずのそれは浴室の中では余韻を色濃く残してしまう。俯き勝ちの視界に映る足の指の先にこびりついているエナメル質の紫。茫々として優しい色合いをしたタイルの薄ピンク。もやもやとしたた気分を表すかのように、浴室内は薄い靄で覆われている。ささやかな温かさに裸の全身を包まれながら、僕はぬるま湯を浴びていた。
 他人の家の浴室にはやはり慣れない。借りてきた猫のようになってしまう。どの家で浴室を借りても同じで、まるで張り詰めさせていた緊張の糸が一気に弛緩してしまったかのように、滑らかなタイルに足の裏をぴったりつけたまま一歩も動けなくなってしまう。10分から20分ほどこうして無心に無防備に人工的な雨に打たれる。そうしないとあっと言う間に、僕は僕の自我を喪失させたただの人形へと成り果ててしまう。つまりは浴室が、僕の精神を解放する鍵になっているのだろうと思う。この生ぬるい空間一杯に霧散した僕の欠片たちが、僕の元にきちんと集まるまで待ってあげなくてはいけないのだ。だから僕はなま暖かい粒に打たれ続けている。しかし今日に限っては、なかなか意識が纏まってくれなかった。僕の動揺に反応しているかのように、あちこち自分勝手に思考を散らばらせてくれている。本当に最悪だと思う。
 どうしてこんなことになったのかというと、今日という日が夏休み開始から1週間が経過した7月最後の週末の初日で、あらゆる体育会系の部活の合宿が始まって、更に言うならお盆前の絶好の旅行シーズンだということが関係している。たとえば、残念ながら血が繋がってしまっている愚弟の部活も昨日から合宿が始まったし、この家に住んでいる僕のかわいい十代の部活も今日から合宿だという。このタイミングで自治会の慰安旅行(自治会の、とは名ばかりで、実際は子育てに忙しい母親たちの集まりなのだ)があったということや、この家の大黒柱がちょうど単身赴任中であったことなども、勿論関係してきているのだろう。僕のママとこの家の子供たちの母親とは仲がいいので、無駄に心配してくれちゃったんだかなんだか知らないけど、昨日急に「2日間も女の子がひとりでいるのは危ないから、遊城さんのとこで泊まらせてもらえるように言っておいたからね!」だなんて本人(ぼく)の了承も得ないまま約束を取り付けたことを告げられて、呆然としてしまった。実に自由気儘な僕のママは今頃遠い空の下で闊達に笑っていることだろう。どうでもいいけど。
 どうでもよくないのは、今この家にはつまり、預けられた僕と、あいつしかいないということなのだった。
 大体、何処の家に年頃の男女を2日間もひとつ屋根の下で生活させようとする親がいるんだか。何か事があったら…とか思わないのだろうか。否、「何か事が」ということに関しては、他の男の家に遊びに行った時に既に起こったことがあるし、僕は処女ではないので今更心配には及ばないのだけれど、親として大々的に認めてしまうのは如何なものかと思うのだ。まあママは元よりこの家の母親もなかなか楽観的な性格をしていることだし、何も心配などしていないのだと思う。あの人たちの心配というのは所詮「まだ中学生の女の子に夜をひとりで過ごさせるのは心配だわ」というレベルで、そもそも僕が何時の間にか女になっていたことなど知らなければ僕とあいつが男女的な関係を持つかも知れないなどと考えたことすらないのだろう。だから平然と僕とあいつをふたりぼっちにした。本当に本当に最悪なことだ。
 あいつは朴念仁の童貞野郎に違いないから、女のことなど何も知らないし、また、興味もないのかも知れない。けれど僕は。僕自身は。…既に豊富と言っていいほどの経験を積んできていて、沢山の男の性欲を弄んできた身体は同年代の子たちより発育が進んでいて、女が感じるべきものを感じられるようにと開発もされてしまっている。愛でられる悦びを知ってしまっている。だから無条件に期待してしまっている。先ほどそっと指先で撫でた茂みの奥はしとどに濡れていて、くちゅりと初心な音を立てていた。男とふたりだけで夜を明かすことに対して心より先に身体が反応してしまっている。そして僕の心だけが取り残されている。あいつなんかに、反応したくないのに、どうしようもないのだ。自分がひどく浅ましい人間なのだと自分自身の肉体に思い知らされるだなんて、屈辱的なことでしかない。もう放っておいてほしいのに。
 なま暖かい粒たちはざあざあと降り続けている。僕の身体の表面を滑り落ちていった水が排水口に流れ込んでいく。いっそ、ママにはここに泊まるということにしておいてこっそりと年上のボーイフレンドの家に転がり込むのもありかなあ、などと考えてもみたが、あの堅物は余計なところでも堅物なので「面倒を見ろ」と言われたものを途中で投げ出すようなことはしてくれないだろう。たとえ僕が心の底から願ったとしてもお構いなしだ。あの冷血漢に通用する交渉術などというものはそもそもひとつしかない。シスコンめ。気持ち悪い。滅んじゃえばいいのに。とか考えていたら、急にカチッと音が鳴って風呂場の換気扇が動き出した。僕はキュッと唇を噛み締める。同時に、何の前触れもなく、風呂の扉が開いてつめたい風と呆れたような声が浴室に飛び込んできた。
「いつまでそうしているつもりだ」
 本当に、本っ当に、最悪だと思う。最悪。最悪最悪最悪。いつだってそうだし、きっといつまでもそのままなのだろう。進歩がない。この最低男十代に嫌われちゃえばいいんだ。左腕に触れた熱い手のひらの感触が、僕の存在をここに呼び戻す。無遠慮にぐいぐい引っ張られて、浴室の外にまで無理矢理連れ出される。ぽいっと放り捨てるかのようにして洗面所に僕を押し込んだ当人は、浴室にとって返すと出しっぱなしになっていたシャワーのノズルを捻ってお湯を止めた。きっと水道代が勿体無いとか考えているに違いない。子供のくせに爺臭い。馬鹿みたい。僕は茫然として立ち尽くしている。浴室から出てきたそいつの真っ白い素足が目に入る。薄い桃色の爪が、まるで生娘のようで、笑える。
 そいつはついと真っ直ぐに顎を上げると、何の汚れも濁りも映り込んでいない無機質な金色で僕を射抜いた。途端に眉間に皺が寄せられる。はあと苛立たしげな溜息をついてから、洗濯機の隣に置いてあった籠の中からバスタオルを取り上げて僕の頭に被せかけた。そこで僕は、そういえば今僕自身が裸だったことを思い出す。そりゃあそうだ、だってこいつは人がシャワーを浴びている最中にずかずか入り込んできたような無神経男なのだから。というか、僕の裸を真っ正面から見ても勃たないなんて、やっぱりこいつは枯れている。性器の先までしおしおなんだ。様を見なよ。情けない男だね。全く手を動かすことが出来ない僕を見て再度溜息を吐いた男の手が伸びてくる。白い腕。躊躇も遠慮も容赦もなく触れてくる。僕の肩から二の腕までをさっと拭き取って、肘から下はタオルで包んで素早く水分を吸わせる。手慣れた仕草だった。僕の記憶は強制的に遠い昔の一日へと吸い寄せられていく。
 夏の日。水玉模様のワンピースと戦隊ものの絵柄がプリントされたビニールプール。くかくか鼾をかいて気持ちよさそうに眠る愚弟と十代。ひんやりと冷えた麦茶の味、ガラスのコップに触れると指先までひんやりした。静まり返った室内に真っ白な日差しが差し込んでいる。僕は眠い目をこする。髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜられる。小さい手のひらのしっかりとした手つきが心地よかった。乾かすことを面倒くさがった他の3人の髪の毛を入念に拭いていたこいつは、水浴びには参加していなかったのだっけ。ずっと前からこうだった。やっぱり変わってない。額を濡らす水滴を拭う手のひらの大きさばかりが、あの時から変化していた。
 おかしいよね。普通、男が女の子の身体に触るなんてことがあれば、いやらしい雰囲気になって然るべきなのに。こいつは生真面目な顔をして、僕の乳房の下の窪みを拭っている。僕なんて、臍の周りに添えられたこいつの指がしっかりとした強さで肌を押す度に、悲鳴を上げたいような気持ちになっているっていうのに。知りもしないで。平然として。嫌な奴。最悪なんだ。
「下は自分で拭け」
「……意気地なし」
 すっかり上半身を拭き終わってから僕の手にタオルを握らせたそいつは、双眸をすぅっと細めて僕を見た。「…してほしかったのか?」最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪。僕はふんと鼻を鳴らしてそいつから顔を背ける。考えてみたら冗談じゃない。とっとと消えちゃえ。やけくそになって股間をタオルで擦る僕の背後で、扉がぱたんと音を立てて閉まった。
 結局あいつは、いつまで経っても変わらない。いつまで経っても変わらずに僕のことを、手の掛かる幼なじみか妹のようにしか思うことが出来ないんだろう。だから嫌なんだ。僕のことを僕として見ない奴となんか一緒にいたくない。早く死んじゃえばいいのに。そうじゃなかったら、僕が死んじゃいたい。この近しさが、容易に触れ合えてしまう距離が、心底より憎らしかった。



2009.6.27


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