日本に渡った時もそうだったが、異国の地に降り立つ瞬間、厳密には飛行機から降りて空港を出たそのはじめの一歩目には、他の一歩とは全く異なる意味合いが込められていると思うのだ。燦々と降り注ぐ日差しの眩さに瞳を細める。空港の巨大な影が地面に黒々としたシミを作っていた。耳に慣れない言葉が無数に重なり合い、喧騒と化し、生ぬるい空気とともに全身を包み込んでいく感覚がどこか心地よい。自動ドアの外に出ればすぐさまぶわりと汗が額に染みだしてきた。脇の下がひやりとする。夏、真っ盛りだなあ、と思う。開けた視界の中、やはり慣れない髪色をした無数の人々が行きかう様をざっと見渡す。探し人の姿は見当たらない。と、
「ヨハン!」
 不意に背後の自動ドアが開いた。同時に飛び込んできた、この喧騒の中でもはっきりと届いてきた心地よく響く自分の名を呼ぶ声に、知らず笑みが零れた。
「カクテルパーティー現象ってやつなんだろうけど、それとはまた、ちょっと、違うんだよなあ…」
「ヨハン!よく来たな!」
 振り返るとそこには、長い間…といっても卒業してからこちら2年ほどでしかないが…会っていなかった親友の姿があった。釣り上がり気味の、猫のような瞳が真ん丸く見開かれる。喜色を満面から充ち溢れさせながら小走りで駆け寄ってきた親友の十代は、タンクトップ一枚にハーフパンツとサングラスを首にかけただけのラフな服装をしていた。それが、この、空港という様々な事情から渡航してきた人々を迎え入れる場所にはあまりにも似つかわしくなさ過ぎて、思わず吹き出してしまった。おまけに足元など、近くのスーパーに出かける際に履くようなつっかけなのである。まったく、相変わらず、外見に気を使わない奴だなあと思う。キャリーケースを身体のすぐ傍にまで引き寄せ、ふうと溜息を吐く。十代は最初不思議そうに首を傾げていたが、すぐにまた嬉しそうな笑みを浮かべると「じゃあ行こうぜ」と言って歩き出した。

 高校を卒業してから、大学に進学をせずかといって就職もせずに自由気儘に国を飛び出していった十代が、アメリカという国に腰を据えたという話を聞いたのはつい3ヶ月ほど前の話だった。その時ヨハンは既に、交換留学生としてやってきていた日本の地から祖国のデンマークへと戻ってカレッジに進んでいたのだが、ちょうど長期休みに入るということもあったしアメリカという国には行ったことが無かったので、じゃあ、ということで彼の元を訪れることを決めたのだった。ほんの18かそこいらの餓鬼が単身で外国に飛び出して、それでうまくやっていけているのだろうかと密やかに心配していたのだが、彼のこの様子を見る限りでは杞憂であったようだった。歩きながらお互いの近状について話し合った。学校はどうだ、とか、彼女は出来たのか、とか、他愛もない話の数々だ。
「つかおまえ、英語なんか喋れないだろ。どうやって他の人とコミュニケーション取ってるんだよ」
「そりゃあもちろん、これだろ」
 そう言いながら十代は右手と左手でギターを構える仕草をとって見せる。ヨハンは口元に浮かべていた笑みを深めた。よかった。本当に、挫折することなく、うまくやっていけているようだと思った。元より十代が日本を飛び出したのは、ひとりでどこまで音楽でやっていけるのかを試したかったからだとヨハンは知っていた。十代の音楽の才能は、素人目で見てもわかるほどには、常人を卓越していた。しかし彼の家庭の環境が、彼を音楽に生きさせることを許さなかった。だから、ひとりですべて決めて、家を出たのだ。普段はやる気のなさそうな世間を斜めに見下している態度をとってばかりいるのに、音楽が絡むとこの上なく生き生きし始める彼を、人は現金だと呼ぶだろうか。ヨハンはそうは思わなかった。
 こっちの通り行けばすぐにアパートがあるぜ、と言いながら十代が一歩前に出る。その時、ふと目に入ったものに、ヨハンはぎょっとして立ち止った。かつん、と革靴がアスファルトを打った。何事かと振り向いた十代は、まったくの素のままの態度だ。そうだ、そうだった、この親友は英語など喋れないのだと、今自分で口にしたばかりではないか。自然表情が強張るのを感じた。当然英語が読めるはずもない。
「どうしたんだよヨハ、」
「なあ十代。おまえが着てるタンクトップってさ、自分で買ったのか?」
 十代がぱちくりと瞬きをする。
「いいや、こっちに来てから知り合った奴らに貰ったんだ」
「それだけ?」
「ティーシャツとかもいっぱい貰ったなあ」
 ヨハンは頭を抱えたくなった。やっぱりなあああぁ!と大きな大きな溜息を吐く。十代は何も気づいていないようだったが、よくよく周囲に気配を張り巡らせてみれば、そういえば先ほどからちらちらと視線を感じてはいた。それはヨハンの髪色がこの国ではなかなか珍しいものだからと、そういうことではなく、くすくす微笑み合う人々が見ていたのは十代の、その背中だったのだ。ヨハンはがっくりと肩を落としながら羽織っていたジャケットを脱いだ。そしてそれを十代に着せてやる。戸惑ったように十代が瞳を揺らすが、いいから着とけ、と言って押しつけた。
 これで今までよく無事でいられたものだと思う。
「なんだ?なんなんだ?」
「とりあえずさ、ひと段落ついたら、服買いに行こうな…?」
 十代のタンクトップの背中側には、流暢な英語で、とびきり過激な誘い文句がプリントされていた。「きて!」「抱いて!」「犯して!」なんだそりゃ。変態ではないか。ヨハンはこのような服を十代に与えた顔も知らない奴らに殺意を覚えた。ただでさえ華奢な十代が、このような服を着て堂々と街を歩いているだなんて、それはレイプしてくださいと言っているようなものではないか。恐らく今まで未遂は数あったことだろう。但し十代はこう見えて腕っ節が強いので、その度相手を沈めてきていたのだろうが。
 何も知らずにヨハンのジャケットに腕を通して、ぶかぶかだなーなどと言っている十代を横目に見て、少しだけ恨めしいような気分になった。人の気も知らないで。やはり、異国の地に、彼をひとりで置いておくのは少し心配だなあと思った。ましてやそれが想い人であるから、尚のこと。




2010.7.7

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