時折、物凄く実感することがある。俺ももう若くないなぁ〜ってさ。但しこれは肉体的な意味ではない。流石に、肉体的な意味で衰えを感じ始めるにはまだ早すぎるし(だってこれでもまだ20代だぜ?)、体育教師としても失格だと思うしな。だとしても、精神的には違う。まるで自分の身を削るようにして毎日を無鉄砲に過ごし、それぞれがぴかぴかとお日様のように輝いている、そのような活き活きとした生活をしている現役高校生にはもう敵わない。あいつらほんと元気だよなー、今日もホームルームのために教室に足を踏み入れるなり懐いてくれている数人の生徒が駆け寄ってきて、先生おはよう!、実は俺今日オールで遊んだ帰りなんだよね!、と武勇伝を語り始めた。高校生の夜遊びは道徳的にはあまり認められたものではないのだろうが、そのあたりは、己の過去を鑑みると何も言えなくなってしまうので、そこそこにしろよ?、と軽く忠告をするだけにとどめておく。まあ俺のクラスに不良という不良はいないし、誰と過ごしたんだと訊くとB組の××やらD組の○○といった答えが帰ってくるあたり健全そのものだ。酒だって煙草だって若いうちから経験しておくのは決して悪いことではない。まあ、依存し過ぎるのはいけないけどな。今度一緒に飲みに行こうぜ勿論先生の奢りで!、と笑った生徒の額を出席簿でぱしりと叩き、ちょうどいいタイミングで鳴り始めた予鈴が途切れるのを待ってから教壇の上に立った。目映い朝の光で満たされた教室内は明るいばかりで、夜の余韻などまったく残されていない。ひとりひとりの顔を見渡し、俺は心の奥底から湧き上がってくる笑みを殺しきれずに唇の上に乗せた。愛しい俺の生徒たち。今日も全員出席だ。しかし、そのような俺の穏やかな気分も、不意に教室の最後列の窓際の席へと視線を向けた途端に凍り付いてしまう。まるで射るようにこちらを見据えてきている藍色の双眸。その鋭さに俺は知らず背筋を粟立たせた。
 何だ。何が地雷だったんだ。こめかみを嫌な汗が伝い落ちる。ぎこちなくなってしまわないように極力努めながら連絡事項を伝達する。欠伸をしながら聞いている生徒、密やかに携帯を弄っている生徒、反応はそれぞれだ。俺は早口ですべてを言い終えると急いで教室を出た。いや、わかっている。逃げられないことはわかっている。しかしひとまず考える時間が欲しかった。え、何。何かしたっけ。何かしたんでなければ、あいつが、あんな視線で、人を射殺せそうな視線で、俺を見てくる筈も無い。別段特別に悪いこともしていなかったと思うのだが。などと、考え事をしながら教室の存在している南校舎を出て北校舎の隅にある教員用トイレを目指した。このトイレは、以前職員室がこの棟にあった際に造られたもので、今は職員室自体が北校舎の三階に移動してしまったがためにあまり誰にも存在を知られず、使われなくなってしまったトイレである。また、俺の休憩所でもある。休憩所というのは、別にここで不良みたいに煙草を吸ったりするとかではなくて、ほら、便器に腰掛けながら考え事をすると落ち着かないか。と以前にヨハンに言ったところ、非常に嫌そうな眼で一瞥され溜息を吐かれて終わった。自覚はしているとも、まるで朝一に新聞を持ってトイレに立て篭もる親父のような行動だということは。でも落ち着くのだから仕方が無い。それに、ここだったら滅多にというか殆ど人も来ないしな。そのようなことをつらつらと考えながら足早にトイレに駆け込む。今日は月曜日だからして、一限の授業は無い。なのでじっくりと考え事が出来る。そう思うと気が緩んだ。トイレ独特の小さくて少しばかり薄汚れたタイルが敷き詰められた床に足を着き、立ち止まり、溜息。我が彼氏殿は少々凶悪過ぎる。何が凶悪かというと、ああして視線だけでものを訴えてくるところだ。決して口には出さない。只管に視線だけで俺を苛み、俺が自ら過ちに気付き自ら謝り倒すまでは余計なことを言わない。あれが怖い。今まで付き合ってきた相手たちは、気に喰わないことがあるとすぐに手を出して罵倒してきた。だからこそこちらも毅然とした態度で対応することが出来たのだが、無言のままあの威圧感を放たれてしまってはどうする術も無い。年下相手に情け無いと思わなくも無いが、この際年下年上といったことは関係ない。生徒教師といったことも関係ない。男としての、格が、違うのだと、思う。否、断じて、自分が男らしくないというわけではなくて、そうではなくて、あいつが男らしすぎるのが問題なのだ。そう、すべては遊星が、
「十代さん」
男前過ぎるのが悪い、と納得しかけたところで突如背後から聞こえてきた声に、俺は飛び上がった。が、反射的に振り返るよりも前に思い切り突き飛ばされてつんのめってしまった。慌てて手をついた先は壁、そして見下ろした先には丸い独特のフォルムにもったりとした白色をした便器。そして背後では、かちり、と鍵が閉まる音がした。まさか。俺は動くことが出来なかった。一瞬、事態を把握することから意識を現実逃避させてしまった。その間にも、俺を突き飛ばした――こうしてトイレの個室内に追いやった張本人の腕が、背後から絡み付いてくる。ぞくり、とした。俺はぎぎぎぎとまるで油が切れて滑りが悪くなった蛇口を捻るかのような仕草で首を動かし、振り向いた。そこには、案の定、物凄い視線で食い入るようにこちらを見詰めてきている遊星が、いた。眼が合うと、小さく微笑まれる。うわあ、と思った。もうすみませんでした。何だかよくわからないけどすみませんでした。全力で床にひれ伏して土下座でもしたい気分だ。だが、遊星は俺にそうさせてはくれない。俺の首筋に手を伸ばし、一番上まで上げられていたジャージのファスナーを、じっくりゆっくりと下ろしていく。まさか、この流れは。俺は戦慄した。慌てて「ちょ、やめろって、何してるんだ!」と口先ばかりの抵抗の姿勢を示してみたが、遊星はくつくつと凶悪な笑い声を上げるばかりで、まったく聞く耳を持たない。これはどういうことだ。混乱する俺の耳元に熱い吐息が吹きかけられる。
「今日は、言い訳は聞きませんから」
「っ言い訳、って、なにが、アッ!」
 そのままねっとりと耳朶に舌を絡ませられて、耳殻の中まで侵される。ぐちゅぐちゅといった水音が鼓膜のすぐ傍で鳴っている。俺は壁についた手をぎゅっと握り締めた。半開きになった口から漏れ出る甲高い声を押しとどめることが出来ない。何故なら、耳は、駄目なのだ。一番弱いのだ。それを理解していて耳から責めてくるあたり遊星は賢いというかあざといというかずるいと思う。耳の中を舌でざらりと舐め回されるだけで、足から力が抜けていってしまう。がくがくと震える膝を叱咤し壁に縋りつくが、遊星は愛撫の手を緩めてはくれない。この野郎。調子に乗りやがって、突然何なんだ背後から強襲してきてあまつこうやってトイレに閉じ込めて耳を舐め始めるだなんて、大体授業はどうしたんだ授業は。俺は一限の授業を受け持っていないけれど、遊星には受けるべき授業があるはずだろう。ここは教師としていっちょビシッと指導してやらねばならない。そう思い、キッと遊星を睨みつけるが、まるで見越していたかのように、俺が振り返った瞬間に顔を寄せてきた遊星にキスをされた。まだまだ稚拙なキス。だが、肩を掴まれ、ぐるりと身体を反転させられ、しっかりと身体を捕まえられた状態で真っ向から与えられる彼氏殿からのキスに反応を示さずにいられるわけはない。もっとディープなキスなんか今までに何度となく繰り返してきたのにな、おかしなことに、情を通わせた相手との一回にはどれも敵いやしないのだ。舌同士を触れ合わせ、歯茎を舐め上げ、唇を吸われる。俺は手持ち無沙汰だった両手で遊星のブレザーを掴もうとした。だが、力が入らない。指先が縺れて、ブレザーに指を引っ掛けることは諦めて、中のワイシャツを我武者羅に掴む。スラックスから引きずり出されたワイシャツの端にくしゃりと皺が寄った。遊星は、微かに笑ったようだった。俺はというとすっかり脱力してしまい、解放された後もはあはあと荒く息を吐きながら壁に背中を凭せ掛けることしか出来なかった。そんな俺の頬に片手を添えた遊星が双眸を細める。その瞳の中では相変わらず、つめたいようで熱い焔が燃え盛っていた。年齢相応の情欲と、年齢不相応の暗い感情と、純粋な好意を綯い交ぜにしたような、複雑な色の焔だった。これはいったいどうしたことだろう。俺は震える唇をきゅっと噛み締め、漸く観念して遊星と正面から向かい合った。
「アンデルセン先生から聞きました」
 遊星は、彼らしくない耽美な笑みを浮かべながら十代の輪郭を何度も撫でた。まるで脅されているようだと思う。その実もう片方の手は俺の下のジャージにかけられていて、無論この手が示すところは、俺の抵抗など許すつもりはないということなのだろう。下着ごとずり下ろされる。下半身が外気に触れたことで多少鳥肌が立つが、身体を震わせている暇などはない。俺は頭の中で、ヨハン?、と反芻する。ヨハンと何かしただろうか。別に、遊星と付き合うということが決まってからは、たまに惚気を聞いてもらっている以外にはヨハンと特別に会っているということは無いしましてや肌を重ねたりなどはしていな、
「十代さん。あなたは昨晩、どこにいましたか?」
待てよ。と思う。別にヨハンと特別に会っていなくとも肌を重ねていなくとも、ヨハンとは関わった。そう、まさに昨日の夜に。認識すると同時に頭のてっぺんから首筋から全身のいたるところに存在する汗腺からぶわりと汗が噴出してきた。そうだ。そうだった。ヨハンとは、会った。昨夜。迎えに来てもらったのだ、駅まで。終バスが無くなったあたりの時間帯だった。タクシーに乗ることが嫌いな俺は、普段ならば徒歩で家路に着いている。しかし昨日は、酔っていて、とてもではないが家に辿りつける気がしなかった。だから迎えに来てもらった。ここまでならば、まったくもって疚しいことなどない。しかし、遊星はもう理解してしまっている。俺が誰と飲んで、べろんべろんに酔っ払ってしまったのか。まさか口に出して言えるわけがない。たまたま、暇をしていたところに、以前肉体関係を持っていた男から誘いがあって、奢ってやるから飲もうと言われてホイホイと呼び出されて行って襲われかけたなどと。今回の場合は何とか振り切って逃げ出せたので事なきを得たが、そのことをケタケタと笑いながらヨハンに語ってしまったのが俺の運の尽きだったのだろう。というかちょっと待て。何時の間に、ヨハンと遊星は、そのようなことを連絡し合うような間柄になったのか。寧ろふたりは仲が悪い…というよりは遊星が一方的にヨハンのことを敵視している…と聞いていたのだが、何時の間に結託した。と、
「ひゃっ…!ちょ、ゆせ、何して!」
「俺が話している最中に考え事ですか?いい度胸ですね」
 唐突に、中心を握りこまれて俺は思い切り肩をびくつかせた。遊星が喉奥でくつくつと笑っている。俺は、今更ながら、遊星がとんでもなく怒っていることに気付いてしまった。ここまで怒らせたのは初めてかも知れない。それはそうだ、何だかんだ言っても遊星は俺たちよりも若い。たとえば浮気を許せるか許せないかという質問には、間違いなく許せないと答えるだろうし、自ら進んで不道徳を働く人間に嫌悪感を抱かずにいられるかと問われれば、恐らくノーと答えるだろう。健全なのだ。まったく、純粋で、俺にとっては眩しいことこの上ない存在だ。そんな遊星だからこそ、俺が浅ましい考えを持って好きでもない男と会ったことに嫌悪感を抱いただろうし、ましてや襲われかけたと知れば怒りも湧くだろう。その怒りの対象は無論俺ではなく、襲ってきた男に対してだ。しかし、俺の場合は半分自業自得であるし、百歩譲って男が全面的に悪いということにしたとしても、心配していた相手がまったく反省した素振りも見せず呑気に翌朝顔を見せればそりゃあ寛容な遊星だってキレる。俺にとっては日常茶飯事であっても遊星にとってはそうではない。仮にも俺は遊星にとっての彼女殿なのだし、男らしい遊星は己の彼女殿を守りたいと思っているに違いない。守られるだけの俺じゃないと何度言い聞かせても聞かない。納得してくれない。譲らない。それこそが遊星の良い所だし、その男らしさに惚れたと言っても過言ではないので損なわずにいて欲しい。
 つまり、悪いのはすべて俺だということだ。俺は心の底から反省しつつも、内心でヨハンに対する悪態を吐いた。畜生おまえが遊星に漏らしたりしなければこんなことにはならなかったのに。尤も、遊星が怒っているのは、襲われかけたはずの俺が何事もなかったかのように飄々として顔を見せたことに、慣れた様子を見せてしまったことに自身が傷ついてしまったからと、俺が遊星にそういった込み入ったことを隠そうとしたからというのも、あるわけなのだが。
「そんなに男に抱かれたいんですか、あなたは」
「ちが、ごめん遊星、俺が迂闊で、それ、でぇっ、あぁっ」
「…そんな厭らしい声を、また、俺以外の男に聞かせるつもりだったんですか」
「あぁん、やあっは、あう、はぅう!」
 遊星の声がどんどん低くなっていく。同時に剥き出しになったムスコを力強く扱かれ、俺はたまらず腰を揺らめかせた。遊星のワイシャツの胸元を掴み、潤んでいるであろう瞳で見詰める。俺が悪かった、遊星の怒りも尤もだ、反省したしこれからは昔の男の呼び出しには応じないようにする、遊星にしか抱かせないし抱かれたくない、心底そう思っている、だから許してくれ。そういった言葉を伝えようにも、聞く耳を持ってもらえない。それどころか「わかりました」と静かな声で囁かれて、背筋を悪寒が滑り落ちていった。これは。
「ではそんな気が起きなくなるまで、俺が、十代さんを犯して差し上げます」
 言うなり、顎をぐいと掴まれ再びキスをされる。今度は、吐息さえも奪いつくすような荒々しいキスだった。これを受けて、俺は、諦めた。駄目だ、荒れに荒れているこいつは止められない。触れ合った舌先から伝わってくる、怒りと、苛立ちと、不安。こんなにも不安定な状態で、乱暴に感情をぶつけてくる年下の可愛い恋人を突き放すことなど出来るわけが無い。そんなにも不安にならなくとも大丈夫なのにな、俺はこっそりと思った。しかし俺が思っていることをそのまま伝えたとして、信じてもらえるとは思わない。だから、仕方が無いが、受け止めることに決めた。肩の力を抜いた俺の腰に腕が回され、力強く抱きしめられる。縋りつかれてでもいるようだ。本当は、背中に腕を回して抱きしめ返してやりたかったのだが、止めておいた。今は遊星の思うがままにさせてやりたかった。
 あーあ、こりゃあ2限以降きつそうだな。唇を解放するなりすぐさま首筋に喰らいついてきた遊星を身体で受け止めながら、俺はぼんやりとそんなことを思っていた。



2010.10.14

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