色事に色という「色」が伴わなくなったのはいったい何時からだろう。それは、恐らく俺がそういったものに情ではなくて肉体的に得られる快楽だけを求めるようになってからだった。最初はそうではなかった。そういった、性交渉という性交渉に手を出し始めた当初は、好きな女の子とそれなりに雰囲気を大事にしながらことに及んでいたはずだ。慣れというものは恐ろしいもので、肉体を重ねることに対するときめきを薄れさせ、その時の相手の反応や自分の状態といったものすら快楽の要素のひとつとして数え始めさせてしまった。清い気持ちで臨んでいたはずのそれらは、気がつけば堕落の象徴と言っても過言ではない行為と化してしまっていた。ただし、そのことを別段悪いことだと考えていたわけではない。俺も大人になったと、夢見心地の少年のような心境のままではいられないのだと、そういうことなのだとずっと思っていた。
 ならば、いったい今のこの胸の高鳴り具合は何なのだ。
 ふたつ存在しているベッドのうちのひとつの隅に腰を下ろし、膝の上でぐっと拳を握り締める。今夜、この部屋で一緒に褥を共にする相手は現在シャワーを浴びている。浴室から響く水音が先ほどから際限なく鼓膜を刺激し続けていた。さして大きい音ではないのに、その音ばかりに気を取られてしまう。呼吸が苦しくて、喘ぐように口を開いた。心臓がばくばくと脈打っていた。らしくもなく、緊張してしまっている。というのも、これから行おうとしている性交渉が、これまで二十数年生きてきた中でも特別な一回になるであろうことは目に見えていたからだ。まさかこうして教師になった後に、生徒とことに及ぶことになろうとは想像してもいなかった。しかも、俺が、ネコとして、だ。少なくとも「学校の先生」でいる間は健全に生きていようと思っていた俺の人生は5年も経たずして狂う羽目になる、と。どうにもおかしな感じだった。
「上がりました」
 と、悶々考えているうちにシャワーの音は止み、ややあってから浴室の扉が静かに開いた。申し訳程度に開かれたそこからするりと姿を現したのは、ここのホテルに備え付けてある浴衣を身に纏った、可愛い教え子兼年下の恋人である遊星だった。俺は思わず息を詰める。艶やかな黒い髪は濡れそぼり、普段のあの特徴的な髪型は見る影もなくなってしまっていた。高校生らしく学生服を着た彼は年齢相応に見えるのだが、こうして落ち着いた色合いの和服を纏ってしまうと、明らかに、二十歳を超えた立派な若者にしか見えなくなってしまう。常より無表情な遊星ではあるが、風呂上りであるためか頬はほんのり紅潮していた。濡れた瞳がしっかりとこちらを見据えている。咄嗟に、唇を噛み締めて視線を逸らしてしまった。何故か直視することが出来なかった。顔が熱い気がする。どくん、どくん、と激しく脈打つ心音が五月蝿い。ああもう鳴り止んでくれ、と思って目をぎゅっと瞑るのと、「十代さん」掠れた囁き声が間近で落とされるのはほぼ同時のことだった。暗闇の中で伸ばされた掌が、そうっと、俺の頬を包み込む。「十代さん」促すようにもう一度名前を呼ばれ、俺はゆっくりと瞳を開いた。隣に腰掛けた遊星は、俺の顔を極至近距離から覗き込みながら、どこか緊張した様子で、にこ、と微笑んだ。
「俺、頑張りますから、だから…」
 十代さんを、ください。好きな相手にそんなことを言われて抗える奴がいるのだろうか。遊星はズルイ。抗えるわけがないじゃないか。俺は思い切り十代の胸の中に飛び込み、慌てたように肩を掴んできた遊星を押し倒し様に薄く開いた唇に自らのものを押し当てた。


 なんだかんだとごたついた末に付き合うことが決まったその日から、遊星は俺にとっての「いい彼氏」そのものだった。そりゃあ初めの頃こそ、教え子が恋人という状況に戸惑いどう接し方を切り替えていいのかわからず四苦八苦したが、遊星はそんな俺の動揺などまったく知らぬ振りでずかずか心の奥底にまで土足で乗り上げてどっかりと腰を据えてしまった。たとえばふたりでこっそりとデートをしている最中、気がつけば年下の遊星が車道側を歩いていたり、さりげない仕草で俺の荷物を掻っ攫っていったりしている。そんなことはしなくてもいいと幾ら言っても聞かず、逆に、俺がそうしたいからしているんです、と強い調子で言い返されてしまう。まるで本当に彼女扱いされてしまっているようでどうにもこうにも気恥ずかしかった。俺だって男なのだから、たとえ立場的には彼女であったとしても、そこまで気を遣われる必要は無いと思うのだが、それでもぐっと押し黙ってしまうのは単に遊星の瞳の輝きの強さが理由だと思う。そんな、澄んだ星空のような瞳で強く見詰めないで欲しい。困ってしまうし、息が詰まりそうになってしまう。俺は遊星の言うことに逆らえなかった。従順な妻のように、黙って頷くことしか出来ない。だからこそ、付き合い始めて3ヶ月が経過したある日に遊星が唐突に「十代さん、あなたのすべてを俺にください」と言われた時にも、すぐさま首を縦に振ってしまったのだ。
 遊星は、俺に打ち明けてくれた。実は彼がまだ初体験に到っていない童貞であると。だから何もわからないし、俺をうまく気持ちよくすることが出来ないかもしれない、と。そんなことは関係なかった。正直なところ、遊星と付き合い始めてからセックス断ちをしていた俺にとってその申し出は願ったり叶ったりのものであったし、このイケメン極まりない遊星の初めてを俺が貰えるということに純粋な喜びを覚えた。したい、と言うのならばすぐにでも家に招待して彼とどうにかなってしまいたいところだったが、遊星はまるで何かの儀式を目前にした敬虔な使徒のような瞳で俺を見据え、然るべき場所で然るべきように、と言った。これに応えられなければ俺は彼の恋人失格だ。悩んだ末に、彼との初めてのセックスは、きちんとしたホテルですることに決めた。間違っても学校関係者に目撃されることがないように、学校から少し離れた土地のホテルに宿を取った。ラブホテルではないのでグッズが揃っているということはないが、ローションとコンドームあたりならば手持ちがある。ラブホの下世話な雰囲気を楽しむ代わりに、高級ホテルの上品な夕食を楽しんだ。そうしていい雰囲気のまま部屋に戻り、先に俺が風呂に入り、入れ替わりで遊星が風呂に入った段になってふと我に返ってしまったのだ。これまでは年長者として後輩を誘導してやるようなつもりでことを運んでいたが、よくよく考えてみたらこのような甘い雰囲気の中でことをに到ることなどここ数年無かった。妙な気恥ずかしさと、「恋人」という立場の男性とこれからまさしく情を交わすということに対する言い知れぬ不安感。この不安感は期待感と同義なのだが、何分自分が今までしてきた性交のことを考えると、先走りすぎて遊星に引かれてしまわないかとか、軽蔑されてしまわないかとか、そういったネガティブなことで思考が一杯になってしまう。しかし思考とは裏腹に身体は遊星を求めていて、いつも隣で感じていたあの腕の力強さや、高校生という華奢な隠れ蓑で覆い隠された肉体の逞しさとかそういったものについてちらりとでも考えると、息が苦しくなってしまう。どうにもこうにも、ままらない感覚に苛まれていたのだが、妄想の産物などというものは圧倒的現実を前にしてはあまりにちっぽけ過ぎるということを思い知る羽目になった。
 たった今、自分の上に乗り上がり、両腕を俺の頭の両脇についてこちらを見下ろしてきている遊星の瞳の中には、泣きそうな顔をした俺が映りこんでいた。
「ゆ、うせぇ…!」
「十代さ、ん…」
 やがて、肌蹴た浴衣の袷から遠慮がちに差し込まれた掌が、するりと胸元を撫でた。それだけで俺の肌はぞくぞくと粟立ち、胸元はきゅうと尖ってしまう。遊星は何処までも丁寧だった。丁寧に、確かめるように、俺の頬を撫で、目尻にキスを落とし、耳の下や顎のラインを唇でなぞって、首筋に顔を埋めた。細く吐き出される熱い吐息が首筋を掠める度に、俺は両手で顔を覆いたくなった。遊星の息が、俺の首に吹きかかっている。その事実だけが俺を苛む。味わうようにして、素肌の腕にも掌が滑らされる。全身を隈なく撫で擦るつもりなのだろう、俺の全部を、その掌で確かめたいと、そういうことなのだろう。セックスと言うにはあまりにも稚拙で、ただ肌を重ね合わせているだけの熱の伝導が、それでも俺をこの上なく興奮させた。
 遊星にならば、もっと激しく、乱暴に扱われてもいいのに。なのに、遊星は優しい。残酷な優しさだった。俺を発狂させようとでもいうのだろうか。今、脇腹を撫でながら遊星は俺の腰を浮かせ、シーツと肌の間に挟まれていた浴衣を素早く取り払った。生まれたままの姿にされてしまう。だというのに遊星はまだ浴衣を羽織ったままで、なんとなく俺だけが掌の上で転がされているかのような気分になる。恥ずかしい。見ないで欲しい。でも、もっと奥まで見て欲しい。体感したことの無いジレンマを覚える。まるで恋する乙女のようだ、などと、薄ら寒いことこの上ないのだが、しかし現在の俺の状況はまさにその言葉こそが似つかわしいようだった。遊星は相変わらず無表情のままだった。いや、違う。その瞳だけが、熱を宿して、食い入るように俺の表情や一挙一動を見詰めて、網膜に残像を焼き付けているようだった。半開きになった唇がたまらなくエロティックだ。その唇で、胸元を吸って欲しい。はしたないことを考える。口には出せない。純粋な遊星は、俺の身体に羽のように軽いくちづけを繰り返している。隅から隅まで愛されている。もどかし過ぎて、どうにかなってしまいそうだ。
 暫くしてから遊星は俺の中心に触れた。既に半ばほど勃ち上がって震えていたそこを見て、眦を下げ、ふわりと微笑んだ。
「感じてくれているんですか…?」
 俺は何度も首を縦に振った。
 そうだ、そうだよ。滅茶苦茶感じてるよ。そうやって優しげに、嬉しそうに微笑むおまえの顔を見るだけで、俺はたまらない気分になってしまうんだよ。だから、早く、早くもっと深い部分にまで触れてくれ。その手で、その指で、俺の一番大事なところを割り開いてくれよ。
 声無き願いが果たして届いたのかどうかはわからない。遊星の、角張った指先がやんわりと俺のものを握りこんだ。敏感な部分に直接触れられて、否が応でも身体が反応を示す。びくりと震えた肩を見て身体を引きかけた遊星の腕を咄嗟に掴んだ。視線を向けてきた遊星に向かって首を振る。やめないで。どうかやめないで。願いを籠めて藍色の瞳を見詰め返すと、遊星が少しだけ両目を見開いた。そして、片手を頬に伸ばしてくる。親指が、俺の目尻をそうっと拭った。そこで初めて、俺は自分が泣いていることを知る。
「どうして泣いているんですか…?いや、ですか?」
「ちが、…そうじゃなくてぇっ!う、ゆせ、ひどい…ひどい、ぜ、そんな、焦らさないで、もっと、もっとくれよぉ…!」
「ッ」
 甘い声で尋ねられたことによって俺の中の何かが溢れ出してしまった。子供のように泣きじゃくりその腕に縋りつく。とんだ我侭だ、と内心で己の浅ましい行動を嗤ったが、口元はまったく笑うことなど出来なかった。遊星が一瞬にして頬を強張らせる。ああ、引かれてしまった、そう思っても止めることが出来なかった。限界だった。遊星の熱を、こんなに近くで体感しているのに、肝心な部分には与えられない。まるで拷問のようだった。早く欲しい。早く早く早く遊星の熱が欲しい。ひとつになりたい。抱き合いたい。こんな、探るような掌ではなくて、もっと大胆に、俺のことを蹂躙して欲しい。随意になる身体なんて必要なくて、全部貰って欲しくて、すべてを遊星で満たして欲しい。傲慢な願いだとはわかっていても、止まらない。年上なのにこんなにも余裕が無くて、みっともない。情け無い。遊星が欲しくて昂ぶる気持ちと己を責め苛む気持ちとがぶつかり合って、胸が苦しかった。解放して欲しい。いっそここで止めてもらっても構わなかった。これ以上与えられないのなら、その方が、諦めがつく。そのような自暴自棄なことまで考えてしまう。ぼろぼろと涙を流し、駄々っ子のように首を振る。遊星の視線を感じるが、顔を上げることはもう出来なかった。
 純粋な恋なんてやっぱり無理だったのではないか。この行為が「色」づくことなんて、やはり無いのではないか。たっぷりと数十秒間の沈黙を味わった後に、なんとなく絶望するような心地でそう思っていた矢先のことだった。
「…まったく、本当に仕様の無い人だ、あなたは」
 呆れたように零された一言と、俺の後ろに柔らかいものが添えられたのはほぼ同時のことだった。びくりと咽喉を震わせて思わず顎を上げてしまった俺の見開いた視界の先では、苦々しそうに微笑む遊星の姿があった。ずぷ、と肉質な音を立てて、入り込んできたものは、指だっただろう。遊星は奥歯を噛み締めながら「優しくなんか、出来ないかも、知れませんよ?」と言った。俺はすかさず何度も頷く。
「ひどくして、いい、んだ…ゆ、うせえの、好きなように、し、てぇっ…いい、んんっ!!」
「あなたはまたそういうことを…!」
 はあ、と溜息を吐いた遊星は、ベッドの脇のローテーブルに予め置いてあったローションを片手で無造作に掴んだ。口でキャップを開け、指を差し込んでいるほうの掌にべしゃべしゃと中身をぶちまける。一度指先を抜いてそれらを満遍なく五指に塗すと、今度は一度に2本の指をいきなり差し込んできた。乱暴に抜き差しされる。先ほどまでの優しげな手つきが嘘であったかのような荒々しい仕草に、俺の素直な下腹部は反応を示す。俺の口もはしたなく掠れた喘ぎ声を漏らす。遊星は真剣な表情で俺の下の口を必死に解していた。ぞくりぞくりと快感が背筋を駆け上がっていく。嬉しくて涙を流した。何度も、もういい、もういいから、早くいれて、いれて、と繰り返した。だが遊星は意地悪をするかのように、まだ解れていません、駄目です、本当に堪え性の無い人ですね!、と要求を拒否し続けた。その冷たい態度に心が悲鳴を上げる。そんなことを言わないで、受け入れて、受け入れさせて欲しいのに、ままらならない。すっかり年下の恋人の良い様にされてしまっている。しかしそれは嫌な感覚ではなくて、とても心地が良くて、どこか甘酸っぱかった。
 ずるり、と一気に4本の指が引き抜かれる。目線を上げて遊星を見ると、彼はコンドームに手を伸ばしていた。金色の包装紙に包まれたそれを、最初は指先で開けようとしていたのだが、濡れた指では上手く紙が掴めなかったらしい。チッと舌打ちをしてから彼は犬歯で包装紙の隅を噛むと、片方の手で強引に包みを縦に裂いた。その野性的な仕草は俺を只管に興奮させた。思わず両手で緩む口元を押さえて遊星を凝視していると、コンドームをつけ終わったらしい遊星が顔を上げて、そして不敵に微笑んだ。
「声を抑えるなんて、許しませんからね。…声が出なくなるまで、啼いてください」
 その一言と共にぐいと腰を叩きつけられる。彼の宣言どおり、この夜、俺は、一度たりとも声を抑えることを許してはもらえなかった。それほどまでに、激しく攻め立てられ、抱き潰された。とても幸せな夜だった。改めて、俺は、遊星が好きなのだと、思い知らされたようだった。
 因みに遊星は、初めてとは思えないほどに巧みに俺を追い立てた。翌朝、珈琲を飲みながらふと疑問に思って尋ねてみると、彼は照れながら、「初めてでも十代さんをどうしても満足させてあげたかったので、沢山勉強しました」と成程優等生らしい返答を返してくれた。そこまで俺のことを想ってくれる彼のことを心の底から愛おしく思い、止まらなくなり、蜜のような甘い雰囲気で迎えたはずの朝をうっかり熱い夜の延長戦へと移行させてしまったのは内緒の話だ。



2010.11.5

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