俺たちは旅をしている。いや、厳密には、俺「たち」ではない。俺はあくまでも彼の手伝いのために追従しているだけであって、主体的に旅をしているのは彼だ。それでも、俺は、自らの時代では見ることが出来なかったもの、学べなかったあらゆることをこちらの時代と彼から学ぶために時折時空の壁を越えて過去へとやってきている。そうしてとある目的を持った「旅」という体験をさせてもらっている。正直なところ旅というものは、俺たちの時代では決して好き好んですることが出来ないししようという者もなかなか現れないであろう、贅沢で、実に不便なものだった。安心して眠ることが出来る場所があるということがどれほど幸福なことであるか、思い知ったようだった。兎も角。
 あてのない旅をしていれば、当然野宿をする確率は高くなる。当然だ、きちんと舗装が為されていないような人気の無い山を分け入って進んでいった先に都合よく山小屋などというものが存在しているはずが無い。木々の合間に、焚火が出来る程度の平らな地面のある場所に辿りつければ運の良い方だ。時には無数林立した背の高い木々の合間で、半ば寄りかかるようにして眠りに就かなければならない場合もある。湯を浴びることが出来るのは多くても一週間に2度、流石に3週間一度も頭を洗うことが出来なかった時には全身が痒くて仕方がなくなってしまった。勿論、湯などという贅沢は言わない。風邪を引くことが無いくらいの気温であれば、池の水を浴びたりもする。
 そして今回は、後者のようだった。
「ほら見ろよ遊星、湖だぜ!」
 山岳地帯を地脈に沿って歩いていた(俺にはよくわからないのだが、強い気配が通っている場所ではよほど強い力を持った精霊しか留まっていられないため、下手に襲われ難いのだという)。幾つか続く山々の間の、丘になっている部分を進んでいた矢先のことだった。不意に開けた森の先には綺麗に澄み渡る小さな湖が存在していた。嬉しそうにはしゃいで俺を振り返りそう言った彼にひとつ頷いて、ぐるりと周辺を見渡した。静かだった。特にこのあたりを縄張りとしている大型の獣の姿もなさそうだった。となれば、少し早い時間帯ではあるが、今日はここで歩みを止めるべきだろう。そう考えたのは俺だけではなかったらしく、声をかけようとして隣を見た時には既に彼は履いているブーツやらズボンやらジャケットやら荷物やらすべてを太い木の根元あたりに投げ出して、湖へと駆けて行ってしまっていた。ばしゃん、という音と共に水飛沫が上がる。うひゃーつめてー!、などと喜色の滲んだ歓声を発しながらティーシャツを脱ぎ、適当に湖の淵あたりに投げ捨てる。流石に下着は穿いたままだったが、一枚しかない下着が濡れてしまってもいいものだろうか。幾ら心配してみたところで相手はあの人だ、声をかける間もなくぼしゃんと頭まで湖の中に潜ってしまった。俺はふうと溜息を吐き、自らが背負っている麻袋の中から擦り切れたタオルを取り出した。こんなものでも、無いよりはあった方がましだ。2人分の荷物をまとめ、水辺で一所に固まって浮いていた流木を拾い集める。彼がまだ楽しげに水を浴びている様を確認してから、少しだけ来た道を戻り、薪用の灌木も拾い集めた。今日は、眠っている間は火を起こしている必要が無さそうだったので集める量は少なめで済む。食べるものは昨日拾い集めた木の実や、先日街に立ち寄った時に買った缶詰がまだあったはずだ。すべての用意が整ったところで、ふと、彼が投げ捨てたティーシャツがそのままにしてあったことに気がついた。畳んでおくべきだろうと考えて水辺に歩み寄った時、「っはー、気持ちよかったー!」ざぷん、と近い場所で水面から頭を出した彼が満面の笑みを浮かべながら伸びをした。ざぷざぷと引き締まった両足で水を掻き分けながらこちらに歩み寄ってくる。「よかったです、」と笑顔で返そうとしたが、その時、俺は彼を正面から見てしまった。厳密には、彼の裸の胸板を、正面から。
 どくん、と、心臓が嫌な脈打ち方をした。
「おっ、タオル用意しておいてくれたのか。ありがとな!」
「あ、…え、ええ」
「ああっ焚火の準備まで!悪いな遊星、こんなでっかい湖久しぶりに見たからつい興奮しちまった。うーん、代わりに俺、なんか他に食べられそうなものが無いか探してくるぜ」
「……いえ、お構いなく」
 凝視しそうになり、慌てて視線を逸らした。俺の動揺には気付かず、彼は俺の腕からタオルを受け取ると何も無かったかのような素振りですたすたと隣を通り過ぎてしまった。くあああ、と大欠伸をかまして、ユベルさんに悪態を吐かれている。俺はぎこちない動作で振り返ると、何時の間に脱いだのか下着を絞って再び身につけていた彼にティーシャツを渡した。
 暫くしてから彼はユベルさんと共に、小動物を狩りに出かけてしまった。あれだけはしゃいだ後で、元気なものだと思う。俺はというと、焚火の前に座り込んで、水浴びをする気にもなれず、茫然としていた。先ほど目前にしたものが頭から離れなかった。彼の、薄く筋肉のついた滑らかな胸元。その中央、心臓のすぐ下あたりについた巨大な裂傷の痕。括れた腰の、骨盤のすぐ上。凹んだ腹部を抉るようにして存在していた幅の広い薄黒い傷痕。鎖骨のすぐ上にも鋭い切り口の刀傷のようなものが存在していた。思えば俺は、ここ数ヶ月彼とともに旅をしていても、彼の裸体を目にしたことが無かった。それはたとえば、宿で一室を取った時に別々に風呂に入っていたためや、池で水浴びをするにしても見張りをする者がいる必要があったりしたためであって、故意に避けていたような事態ではなかったのだと思う。実際、彼は裸体を隠す素振りを一切見せていなかった。だが、どうしても、見てはいけないものを見てしまったような気分が払拭出来なかった。もしあれらが本当にすべて過去についた傷であったというのならば、どれも致命傷であることは相違ないはずだ。だというのに彼はぴんぴんしている。その理由。致命傷を負っても死なないということ。致命傷を負わなければいけなかった事情、状況とは。そして、その時彼はどうしたのだろう。傷を負っても膝を折ることはなく、自らを傷つけたあれこれに立ち向かっていったのだろうか。それは想像に絶する光景であるように思えた。
『…気に病まないで欲しいのですが、私は遊星君には知っていて欲しいと思うのにゃ』
 と、不意に俺の傍らに人影が立った。彼の学生時代の恩師であるというその人の魂は、俺を見下ろして悲しそうに笑った。『見てしまったのでしょう?十代君が負った傷を』静かにそう言う。俺は静かに頷き、その人を見詰めた。その人の表情が如実に語っていた。この話の先は、傷つきたくなければ聞いてはいけないものなのだろう。俺は黙って見詰め続けた。やがて軽い溜息を吐いたその人は、すべてを諦めるように、失望するようにゆるゆると首を横に振りながら、言った。
『十代君の傷は、』
 すべて彼が助けた人間につけられたものですにゃ。


 その日、夢を見た。暗闇の中の夢だった。暗闇の中、あの人は立ち尽くしていた。ナイフを、包丁を、突き立てられ、全身を真っ赤に濡らしながら立っていた。驚いて瞠目することしか出来ない俺の前でゆるりとこちらを振り返ったあの人は、普段の彼からは想像出来ないほど緩やかに、くすりと、微笑んだのだった。果敢無げな笑み、否違う。艶やかな笑みを佩いたその人はぴちゃり、ぴちゃり、と濡れた足音を立てながらこちらへと近づいてくる。伏せられていた瞳がゆっくりと開かれる。そしてその鋭い眼光が俺の全身を射抜いた時、俺はぴくりとも動くことが出来なくなってしまった。見たことの無い、獰猛な肉食獣のような表情をした彼。真正面から見た彼の裸体には、無数の、傷が、存在しており、滾々と湧き出る水のように際限なく、血を噴出させていた。彼が口を開いた途端、こぽりと、唇の端から真っ赤な血が溢れ出した。彼の身体を染める赤。彼のトレードマークとも言える赤。それは、彼に、とてもよく映えた。こんな時だというのに、俺は何を考えているのだろう。そう、暗闇の中、浮かび上がった白を彩る赤という図が、とても、印象的だったのだ。
 闇に包まれ、血で彩られた彼は、十代さんは、とても、きれいだった。
 その感情を認識した途端、胸中を支配したのは果たして罪悪感だったのだろうか、それとも。
 彼の腕が伸ばされる。俺の頬を優しく包む。彼は笑っていた。しかし瞳はちっとも笑っていない。ずい、と鼻先が触れ合いそうな距離まで顔を近づけられる。耳元に何事かを囁かれる。低い声は、彼のものではないようだった。ぞくりと背筋が粟立った。俺の顔をぺたぺたと撫で擦った掌が、首へと回される。決して力が籠められることはない。だが、急所を、掌中に収められているという感覚は、消えない。唐突に腹を蹴り飛ばされる。何も構えていなかった身体は見事に吹き飛ばされ、俺は情けなく地面に倒れこんだ。地面に触れた指先から闇が侵食をし始める。そして俺の上に覆いかぶさってきた彼は、高らかに笑いながら、俺に触れた。狂ったような笑い声が響く。まるでノイズのようだ。哄笑というノイズに溺れる。俺は全身から力を抜き、喉元を曝け出すように少しだけ顎を上向けさせた。熱いものが皮膚の上をぞろぞろとなぞる。気色の悪いような、滑らかで心地好いような、不思議な感覚だった。敏感な部位に熱が触れる度に喘いだ。俺は彼に従順だった。抗えなかった。従順な俺に彼の掌はとても優しかった。
 だが、ふわふわと宙を浮いているかのような心地のよい幻想はすぐさま打ち砕かれる。激痛に俺は悲鳴を上げた。呼吸が出来なくて忙しなく肺を動かした。そんな俺を追い詰めるかのように喉元に手がかけられる。ゆうっくりと、真綿で締められるように、徐々に力が籠められていく。俺は薄っすらと瞳を開いた。激痛と呼吸困難の苦しさが俺を苛む。酸素が足りなくて視界が霞んだ。彼は至近距離から俺を見下ろしてきていたが、視線が合うと、にこ、と微笑んだ。
 そして言った。

おまえはまだ、闇を知らない

 その後、果たして俺は彼に絞め殺されてしまったのだろうか、それともすぐさま解放されたのだろうか。目が覚めてしまったため結末はわからなかった。我に返った時には現実に帰ってきていた。全身にぐっしょりと汗を掻いていた。俺は何度も掌で顔を拭い、震える指先で毛布を剥ぎ取った。転がるようにして寝床から湖の辺へと歩み寄り、無我夢中で顔を洗った。そうして、恐る恐るズボンの前を寛げさせた。熱を持っていたそこは、冷たい手で触れただけですぐに白濁としたものを吐瀉した。無意識のうちに下着の下、男としてのものの更に奥に存在する部分に触れそうになって、ハッとした。濡れているわけが無い。ましてや、そこから、今己の手に放ったような白濁としたものが零れ落ちることなど無いというのに。吐いた溜息が安堵のものであったのか、落胆のものであったのかは、自らにも察する術はなかった。
 水を浴びている最中に、彼は目を覚ました。眠い目を擦りながらふらふらと湖の傍まで歩み寄ってきた彼は、俺の姿を認めるなりふにゃりと笑った。おはよう、と言われて、おはようございます、と返した。何の問題もない一日の幕開けに相違なかった。水から上がった俺の裸体を見ても彼は「朝飯にしようぜ!」と言うばかりだった。顔を洗い終えた彼が立ち上がり踵を返す。その後姿には夜の余韻など、まったく感じられなかった。



2010.11.7

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -