「遊星、ちょっとこっち来いよ」
 大学から帰宅するなり部屋に籠もってしまい、夕飯が出来たと声をかけても気の無い返事を寄越すだけだった十代が何時の間にか背後に立っていた。慌てて振り返り軽く瞠目した遊星ににこりと微笑みかけながらそのようなことを言う時には――いつもならば主語や動詞など関係なしに欲求を言葉に出す彼が、求めていることを直接的に伝えてこない時には、大抵、次の言葉にてあまり耳にしたくはない無理難題を吹っかけられる。そうとわかっているもので第一声を聞いた時点でつい渋面を作ってしまったが、最早これは条件反射のようなものだ。十代自身もそんな遊星の態度の理由がわかっているのか、面白がるように双眸を眇めて「なんだよ、何警戒してるんだよ?」と揶揄ってきた。ゆるゆると首を横に振り「いえ、」と返す。手に付着していた洗剤の泡を洗い流し、前掛けで濡れた手を拭いつつ改めて向き直ると、十代は気だるげにこてんと小首を傾げながら親指で彼の部屋を指差した。部屋でなければ駄目なことなのだろうか、それはどのようなことなのだろうか。これもまた条件反射のようについ5分後の未来のことに考えを巡らせ始め眉間に深く皺を刻ませた遊星を見てからからと笑った十代は、「いいから来いよ」と言いながら遊星の手を引いた。窺い見た横顔からは、隠し切れない、度を過ぎた悪戯のかおりを漂わせる、楽しげな雰囲気が伝わってきた。何時だって手遊びをするかのように火遊びをする彼が、こういう時に何を考えているのかわからない。一般常識の範疇では想像し得ない発想がいったいどこからやってくるのか、一度頭の中を覗き込んでみたいくらいだ。などと考えている間に遊星は十代の部屋のベッドに座らされていた。隣に腰を下ろした十代が、やけに至近距離からまじまじと顔面を眺めてくる。否、違う。彼が眺めているのは遊星の顔ではなかった。居心地の悪さに堪えかねて顔を背けるのと同時にずいと更に距離を詰められ、そうして伸ばされた指先が触れたのは、遊星の耳だった。形のいい小さな耳を撫でて、ゆうるりと笑う。その笑みの艶やかさに、背筋がぞくりとした。鳶色の瞳が獲物を射るような目で遊星を見つめる。とうとう堪えきれなくなり、「、十代さん」助けを求めるように彼の名前を呼ぶのと、十代が飄々とした声で「なあ、遊星、」と問いかけてきたのはほぼ同時のことだった。
「おまえの耳って、すげえ良い形してるよなぁ」
「は、い…」
「きれいなものほどさ、傷つけたくなる心理って…おまえ、わかる?」
「十代さ、」
 彼の左腕が、遊星の右肩に触れた。そして軽く押す。抗うことも出来ないまま、ベッドの上に押し倒された。仰向けに倒れた遊星の胸元に己の胸元を擦り寄らせぐんと距離を縮めながら、なおも十代は右手で遊星の耳元を弄る。目を見開き浅く細かく呼吸を繰り返す遊星の緊張などお構いなしだ。ちらりと十代の顔を仰ぎ見る。物欲しげに半開きにされた唇の間から漏れる細い吐息、うっそりと両目を細めての強請るような上目遣い。あまり男性らしい体格をしていない痩身のひとつ年上のこの先輩は、こうして艶かしい態度を取っていると女性でも敵わないのではないかと思ってしまうような色気を身に纏う。遊星は知っていた。彼がこの妖艶さを武器にして様々な遊びに身を投じていることを。詳しく聞いたことは無い。聞こうとは思わない。遊星と同棲を始めてからは多少は形を潜めたようだが、それでもたまにふらりとどこかにいったきり2、3日ほど帰ってこなくなることがある。気紛れな猫のように捉えどころの無い人だが、しかしその内面は外見とは正反対だった。獰猛な肉食獣、そう言ってしまっても過言では無い。狙った獲物は逃さない。じわりじわりと追い詰めて、甚振って、平らげる。実に凶悪で悪趣味な性格の持ち主でもあるのだ。その証拠に、彼が徐にジーパンのポケットから取り出したものは、明らかに遊星にとっての不利益しか生み出さないような、否、十代の好奇心と欲求を満たすためだけのものでしかなかった。それをどのように使うのか、実際に使用したことは無かったが、見れば一発で用途は知れる。そして、彼がそれを遊星の眼前に見せびらかすようにちらつかせたということは、つまり、そういうことでしかない。ところで、間違っても遊星は女性ではない。だから、女性が化粧をしてまで外見を整えようとする精神は正直理解しがたいところであった。男性としても、特別に外見に拘ろうとは思わないタイプの人間である。精々朝に目が覚めてから髪に櫛を通して整える程度のもので、ワックスを使ったこともなければ、ましてや、ピアスなど、開けていないし開ける意志も無かった。だというのに、十代は舌なめずりをしながら、それを、何処にでも売っていそうな粗雑な造りのピアッサーを、遊星の耳に宛がおうとしているのだ。何の事情の説明も無い。あまりに唐突過ぎた。これには流石の遊星も動揺して、体幹の真上に乗り上げさせた自らの身体の重心を遊星の胸元についた左手に預けた状態で、器用にも右手に持ち替えたピアッサーを構えた十代をなんとか引き離そうともがいた。しかし、体格的には遊星に劣っているはずの十代は、自らの欠点を補う術を幾つも持っている。たとえば、鎖骨の上あたりに添えられていた親指の位置をほんの少しずらされ、両鎖骨の合間、首の付け根に移動させられてほんの少し力を籠められるだけで、こんなにも息が苦しくなってしまう。クッ、と呻くとすぐに力は弱まったが、余計なことをすればまた脅すように気道を圧迫させられるだろう。それどころか、下手をすると腕の関節やら足の関節を外されて本当に動けなくさせられてしまう。身体中の関節をすべて外されるという無様なことにはもう2度とされたくないと思うので、仕方ないが大人しくせざるを得なかった。身動きひとつしなくなった遊星を見て、十代は満足そうにからからと笑った。
「そう、じっとしててな?俺も人に穴なんか開けるの初めてだから、下手に動かれると失敗しちまうかも知れないぜ?」
 そう言いつつ十代はとうとう遊星の身体の上に完全にうつ伏せになってしまった。首のうしろに片腕を回し、しっかりと遊星の頭を固定する。吐息同士が触れ合いそうなほどの至近距離にまで近づき、驚きに目を見開き彼を凝視する遊星の前で、無機質でつめたい小さな器具で、とうとう左の耳朶を挟み込んでしまう。やめてください、どころか、まって、さえ言う暇は無かった。ばちんっ、と、それで終わりだった。しかしその瞬間の衝撃は凄まじいものだった。特に痛みは感じなかったが、異物が、皮膚を突き破り、全が一として機能している細胞の一部分を無慈悲に貫き、ひしゃげて潰れた単なる肉の断片へと貶めた瞬間の感触が生々しく伝わってきた。すぐ耳元で聞こえたのは粗末な道具の稼動音だけではあったが、内部から伝わってくる振動はシャットアウト出来るものではない。全身に震えが走ると共に首筋や腕には鳥肌が立った。咄嗟に息を詰めてしまう。と、すぐ耳元でけたけたと十代が笑った。
「怯えてるのか?遊星」
 面白がっているようでもあったし、低い声音にはまた別の意図が含まされているようでもあった。と、ピアッサーが引き抜かれる。十代は用済みとなったそれをぽいと適当に放り捨てると、遊星の左耳にずずいと鼻先を寄せた。そうして、
「っ、あ!」
「ん、ふっ」
徐にそこに舌を這わせ始めた。生温くてざらついたものが、感覚が敏感になっているそこをねっとりと舐め上げる。思わず口から甲高い声が漏れた。遊星は慌てて片手で口を塞ぎつつ、横目で十代を見た。彼は上機嫌な様子で遊星の耳に愛撫を続けた。ピアッサーの付属になっていたのであろう小さなピアスを前歯で軽く挟み、ちゅくちゅくと吸い上げる。かと思えば、軽く噛まれる。耳殻の中にまで舌を入れられた。僅かに溢れた血を舌先で舐め取られた時に、むわりと、鉄のかおりが鼻腔に届いたように思えた。遊星はきゅっと唇を噛み締めた。あまりにも官能的な舌遣いに、否が応でも身体の中心が熱を持ち始める。しかもこのような体勢で、普段ならば、こうして耳を散々甚振られた後は首筋に欝血痕を散らされ、歯形をつけられ、と続くはずなのだ。と、自然に常の情事について思い浮かべてしまっている自分がいることに気付きたまらない気分になる。なんと浅ましいことか。どうにも居た堪れない気分になり、せめてもの抵抗として十代の方を見ないように顔を彼とは反対側へと伏せた。しかし、そういった些細な反抗さえ十代は許してくれない。首の後ろへと回されていた腕がするりと頬へと滑らされ、強制的に正面へと顔の向きを戻される。そして鼻と鼻が直に触れ合ってしまいそうな距離で視線が絡み合い、にこりとされた。
「遊星のピアス処女もーらいっと!」
 陽気に告げながら十代の右手が遊星の股間をがしりと鷲掴んだ。びくんと全身を震わせた遊星になど構わず、容赦なくそこを揉みしだく。遠慮の無い愛撫に翻弄されつつ、遊星は今すぐにでも消え入りたい気分になった。耳を舐められて、感じて、はしたなくも勃起させていたことを見抜かれていた。十代が満面の笑みを浮かべているのはそういうことなのだと思うと、羞恥心で胸が塞がれるようだった。
「ああ、ピアスのラインストーンの色は赤にしておいたからな」
 遊星が顔を真っ赤にして身悶える傍らで、十代はあくまでもマイペースに遊星を追い込んでいく。ジーンズの合間から内側へと滑り込まされた掌が遊星のものを握りこみ、そして先端を指先で弾いた。
「俺の色だぜ、遊星」
 瞬間、視界が白く染まる。脱力感に遠のいていく現実の中で、確信的に落とされたその台詞だけが遊星の中にじんわりと広がっていった。



2010.11.22

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