バタバタバタ、と音がした。そちらを見遣れば、恐らく3日ぶりくらいだろうか、まるで何か呪いをかけられでもしたかのようなつめたい青色をしたカラスが、錆ついてところどころ朽ち果てているベランダの手摺の隅にとまっていた。立てつけの悪いガラスを横に滑らせ窓を開けると、裸足のままベランダへと出た。人に慣れている訳ではない、むしろ警戒心はほかのカラスよりも強いだろうそいつは、しかし俺が歩み寄ってもまったく動じた素振りは見せなかった。くちばしに何かを咥えている。手を差し伸べると、掌の上にそいつを落とし、突然けたたましく哭き喚き始めた。かと思えば、ばさばさと翼を広げて飛び立ってしまった。幸せの色をした不幸の鳥は次なる幸福と不幸を乗せてどこへ向かおうというのか。どちらにしても、ここで今すべてを終える俺にはもう用はないと言わんばかりだった。思わず笑みが零れた。死を運ぶ鳥にはすべてがわかっているのかも知れない。ベランダに無秩序に散らばった瓦礫の破片を踏みしめる。鋭い痛みが無数に襲う。まるで針の上を歩いているようだった。ひどく気分がよかった。
「犯人は、現場に戻るとよく言います」
 と、不意にこの部屋の扉が開いた。ドア枠が歪んでいるため、少し開いたり閉じたりするだけで扉はギイギイと嫌な音を立てて軋む。そして、一間しかないこの部屋は、ベランダも含めて玄関口から見渡せるようになっていた。腐食して今にも崩れ落ちてしまいそうな手摺に背を預けて、俺は草臥れた背広の内ポケットから煙草とライターを取り出す。しゅぼ、と軽い音を立ててライターが小さな火を吐きだす。橙色に近い、柔らかないのちの色。一口吸った煙草の味に違和感を覚えて、ああ、と思う。俺は普段はピアニッシモなど吸わない。確か、昨日××した人間が最後まで握りしめていたものだから、そんなに美味いものなのかと興味を抱いて、箱ごと拝借したのだったか。即ち遺品だ。遺品すらすり減っていってしまう。無情な世の中だなあ、と呑気に思う。けたけたと笑う、声は、我ながら、狂ったものだった。気分の高揚の理由はいったい何なのだろうか。
 立派な革靴が、真っ白くくすんだ部屋を踏みしめる。じゃり、じゃり、と音がする。畳の上には黒く歪な灰が大量に落ちているのに、壁の白だけは最後まできれいに残った。穢れなど知らないかのようだ。ふう、と息を吐く。鼠色の吐息が立ち上ったが、灰色の空と色を同化させてすぐに何がなんだかわからなくなってしまった。そういえば、今日も曇り空だ。雨は降らない。しかし晴れもしない。ずっと、このような、停滞した天気が続いている。灰色なのは空ばかりではない。半分ほど地上に向かって倒れ掛かってしまっているベランダの手摺越しに見降ろした地面は灰色だし、打ち捨てられた廃ビルの色も灰色で、まるで生活感が無い死んだ町に相応しい色合いだった。ただ、雨が降っている方が好みだな、とも思った。
 この町から人が居なくなってしまったのはいったい何時のことだっただろうか。
「大抵の場合は、証拠を残していないかを確認すると同時に、完全に事実を隠蔽しようとするために訪れるでしょう」
 スラックスの左ポケットには小さな銃が入っている。小さいが、威力は抜群で、一発で人の心臓を潰せる。だからこそ弾は何発も必要なかった。最低限の弾だけが手元にあった。しかしそれらももう必要ない。もう銃など必要ない。ふわふわとした気持ちで、微笑みかけた。視線を向けると、俺を追ってここまで来た優秀な後輩は、くしゃりと顔を歪めた。
「しかし、あなたは違う。あなたは自らの死に場所を探して、ここへと戻ってきた」
 彼の手にはひと振りのナイフが握られていた。素晴らしく鋭い、なんでも切り裂くことの出来るナイフだ。俺は、頬に熱が集まって行くのを感じた。あのうつくしいナイフは、やはり、彼の手に収まってこそだと思う。俺の視線の意味に気付いたのか、彼が、嫌悪感で唇を戦慄かせた。
「何故、戻ってきたんですか。戻ってこなければ…」
「逃げ切れたはずだ、とでも言いたいのか?なあ、遊星」
「十代さん、」
 俺は両手を広げた。大袈裟な身振り手振りで、「わかってない、わかってないぜ!」幻滅していることを示すように振る舞った。否、大袈裟などではない。俺は心底呆れ果てている。何を躊躇っているのか、おまえは人々の希望を背負ってここまでやってきたのだろう、迷うことなどひとつもないはずだ、たとえ相手がかつての先輩だったとしても。むしろ、ここで躊躇うことなど愚の極みではないか、一片の同情心も抱いてはいけない、人でなしに温情を抱くなど、甘い甘すぎる全然わかっていない。
「逃げ切れるつもりで罪を重ねてきたわけじゃないと、おまえだけはわかるはずだぜ?」
 人を殺した。かつて「ヒーロー」であった俺を頼ってきていた人を殺した。呆気ないほど、人の死は簡単に訪れた。死は生の隣人でしかなかった。扉を開けばすぐにそこには、真黒な狂気が渦巻いていた。腐った生ごみのような臭いが俺を包み込んだ。覗き込んだ絶望の先に、一縷の希望すら残されてはいなかった。同時に、ああ、そうか、と思った。希望の先には絶望があるかも知れない。絶望の先に希望はない。ならば、元から夢など見ないほうがよかったのだ。ひとりを殺すのもふたりを殺すのも、十人を殺すのも百人を殺すのも大差はなかった。当然のことながら、多くの暗殺者が俺を追った。すべて殺した。かつての親友の顔をして現れた警察官、子供のふりをして現れた正義のミカタ、すべて、すべて、殺した。俺の名前を聞くだけで、誰もが全身をがくがくと震わせた。俺はいつの間にか身も心も悪魔になり果ててしまっていた。こうして俺が住む町からは人がいなくなった。死んだ町は、静かで、静かで、まるで俺のための安らかな寝床のようだった。
「もう疲れたんだ。きっと。だから、眠らせてくれよ、おまえの手でさ」
 いろいろと考えていた。こうべを垂れて、まるで制裁を待つ重罪人のように無抵抗に首を切られるのがいいか。それとも、俺が殺した人間の数だけ痛みを受けて、全身を小指の第一関節ほどの大きさにまで切り刻まれて、死ぬのがいいか。どれもしっくり来なかった。しかし、青白い顔をしている遊星の顔を見たら、答えは自ずと出てきた。俺は指先でつまんでいた煙草を、ベランダの外に放り投げて、改めて、両手を大きく開いた。遊星に向けて。
「さあ、来いよ」
 彼は泣きそうな顔をした。駄目だなあ、それじゃあ駄目だ。俺は快活に笑い、すたすたと彼に歩み寄った。彼は後ずさろうとしたようだが、出来なかった。俺は、彼の一歩前にまで来ると、そうっとその右手を握った。ナイフの先に指先を滑らせる。少し触れただけで、それは容易に皮膚を裂いた。苦痛は微々たるものでしかない。赤が迸る。俺はますます笑みを深め、ナイフを握る手首を包み込んだ。縦だと、駄目だ。肋骨に邪魔をされる。だから、横向きで。「や、め、っ」遊星が喘ぐように何かを呟いたが、わからない。しっかりと両手でナイフを持つ手を支え、俺は、狙いを定めて、自らの胴体を、ナイフの先端へと。
「あ、はァ…っ!」
 異物が体内に潜り込むという点では、ナイフで心臓を貫くのも、男のもので膣を穿たれるのも同じようなものだと思う。ずぷ、ずぷぷ、と内部から聞こえてくる肉の切れる音に、断続的に続く痛み。それが最奥にまで辿りついた時、すべてを凌駕する刺激が走る。直に見えるわけではないというのにはっきりとわかった。深く突き刺した刃が、確実に、心臓を貫いた。瞬間全身から力が抜けて、俺は遊星に凭れかかるようにして倒れた。遊星の首に両腕を回す。驚いて両目を見開いている遊星にキスをしようとして、出来なかった。足元から闇が俺を攫いに来る。抗うことなく重力に力を任せる。落ちる。すべてが闇に溺れる前に、ズヌヌヌヌ、と刃が身体から引き抜かれる感触があった。そして、
「俺は、あなたが、……―――」
 その後のことはわからない。だが、最後に俺の耳に囁かれた言葉は、どこか幸せそうな響きを孕んでいた。
 俺の手から、すり抜けた、ひとつの弾丸が、音もなく畳に、落ちた。



2010.12.1

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