授業終了のチャイムが鳴るのと同時に、弁当を片手に教室を飛び出すこの瞬間が1番好きだ。いや、1番ってことはないか、たとえば体育の授業を受けている最中はいつだって楽しいと思ってるし、友達とじゃれあったりふざけあったりするのはもっと好きだ。それでも、朝の1番眠たい時間帯に起き出して、面白くもない授業を3コマ分受けた後に昼休みの訪れを告げるチャイムが鳴った瞬間の解放感は、他のどの一瞬とも比類しようがないと思う。ふたつある扉のうちの後ろ側から全力で身を乗り出して、退屈と苦痛が詰まった箱から一歩外へと踏み出す。教卓の向こう側でクロノス先生が何事かを喚いているが、知ったことではない。俺の気持ちはもう天高く舞い上がって、青い空へと向かってしまっている。早く、早く、どうしても気が急いてしまう。大股で廊下を疾走し、バタバタと乱暴な音をたてながら階段を1段抜かしで跳ねるように駆け上がった。そうして辿り着いた先の、屋上への扉を、思い切り開け放った。途端に視界に飛び込んでくる一面の青。校内で最も空に近い場所だ、当然他の場所で見るよりもぐっと空を近くに感じる。俺は両手を伸ばし、ううん、と伸びをした。と、不意にくすくすと吐息のみで笑う声が聞こえてきた。俺はそちらに視線を向け、肩を竦める。
「相変わらず早いな遊星、おまえ、ほんとに授業出てるのか?いつからいるんだよ〜」
「授業にはきちんと出ていますよ。ただ、少し早めに終わる授業が多いのと、俺の教室の方が屋上に近いですからね。その差です」
「ちぇっ。今日こそ1番乗りだと思ったのに…」
 じと目で睨んでみても、くすりと微笑まれ返される。ひとつ年下の後輩である遊星は、だいぶ前からそこにいたかのようにすっかり寛ぎきった様子で、屋上のフェンスに背中を凭せ掛けて座っていた。その横には3段になった弁当箱が置かれている。俺は目敏くそれを見つけ、にやにやしながら遊星の隣に歩み寄り、腰を下ろした。視線で問うと、どうぞ、とでも言いたげに肩を竦められる。俺はにこりとして、遠慮なく弁当箱に手を伸ばした。まるで御重のような重量のそれを開ける。まず3段目には3色そぼろご飯が詰まっていた。2段目には煮物やらサラダやらといったこまごまとしたものが入っていた。そして1段目には、昨日俺が要求した通りの、ぴんと背中が伸びた美味そうな海老フライと小さなハンバーグが詰まっていた。思わず歓声を上げる。遊星は両目を細めて、くすぐったそうに微笑んでいる。
「すげー!うまそーー!!えっこれ本当に食べてもいいのか!?」
「どうぞ。十代さんのために作ってきたものですから」
「マジか!うわーーサンキュー遊星大好きだぜ!!」
「、っ」
 気の利いた妻よろしくササッと箸を差し出してきた遊星からそれを受け取りながら満面の笑みを浮かべてそう言うと、遊星は途端に頬を真っ赤にして俯いてしまった。何だろう、照れているのかも知れない、相変わらずシャイな奴だ。まあいいや。俺は迷わずに海老フライに箸を伸ばす。からりと揚がったそれにタルタルソースをつけて、口の中へと持っていく。噛むと、さくり、と音が鳴った。時間が経ってもさくさくのままの衣の中から顔を出したぷりぷりの海老と、タルタルソースの相性といったら筆舌に尽くし難いほどだ。率直に言う。美味い。夢中になって尻尾前の部分まで噛み千切って頻りに咀嚼していると、再び横からササッと弁当箱の蓋が差し出された。見ると、遊星はまだほんのりと頬を赤らめたまま、じいと俺を見つめてきている。どうやら、尻尾を置けということらしい。何もそこまでしてくれなくても平気なのに、どうしてこいつはここまで甲斐甲斐しくしてくれるのだろうか。絶対こいつ保父さんとか向いてるよな、と思いながら大人しく尻尾を蓋に置いた。遊星がやけに嬉しそうに頬を緩ませている。俺は不思議に思って、小首を傾げた。
「っていうかおまえは食べないのか?さっきからずっとこっち見てるばっかりでさ、折角俺がおまえのために作ってきたのに」
「!!た、食べます、食べますよ勿論。その、海老フライなんていつもは作りませんし、ちゃんと上手く出来ているのかが心配だっただけで、あの…」
「ああ!海老フライ、めっちゃ美味いぜ!いつもありがとな!」
「いえ……」
 やっぱり不思議な奴だ。毎日、様々なおかずをつまみ食いさせてもらっているが、どれも不味かったことなど一度たりともない。自分の料理の腕が悪くないということは知っているはずだというのに、毎回、こうやって味を確かめてくる。自分の実力に対して謙虚な奴だ。そこが遊星の良いところなんだけど、悪いところでもあるんだよなあ。いそいそと俺が渡した弁当箱の包みを解いている遊星を見ながら、そう思う。というか、遊星が作る弁当の方が余程美味いのに、どうしてわざわざ弁当交換などというものをしようと言い出したのかがわからない。俺の弁当なんか、朝、適当に残り物を再調理して、ちょびっとおかずを付け足しただけの全然手の入っていない粗雑なものなのにな。だというのに遊星は弁当箱を開いて、感激したように「十代さんの手作り弁当…!」などと呟いている。もしかすると、弁当交換ってやつに憧れてたのかも知れないな。よくよく考えてみれば、いつも俺がつまみ食いするばかりで遊星が俺の作ったものを食べたことなんか無かったもんな。
「ありがとうございます十代さん、おれ、うれしいです…!」
「おう!あんまり美味くないだろうけど、不味いってほどのものじゃないはずだぜ!」
「いえ、いいえ、そんな…!っ、…いただきます」
 何故か指先を震えさせながら箸箱から箸を出して、律義に手を合わせた遊星を、まるで我が子を見守るかのような気分で眺める。そんな大層なものではないというのに、本当に律儀な奴だ。いじらしいことこの上ない。可愛い後輩が瞳を潤ませながら俺の作ったチャーハン弁当(チャーハンと、昨日の残り物の肉じゃがと、レタスとプチトマトのサラダが乗っただけの簡素な弁当だけど)に箸をつける様を眺めながら、なんとなく、今日も平和だなーと思う。このまま昼休みが終わってくれれば、恐らく一日平和なままでいられると思うのだけれど。

 しかし、そうは問屋が卸さない、とはよく言ったものだ。

 次の瞬間、俺の前髪のすぐ手前を、ヒュンッ!と空気を切り裂きながら通り過ぎていったものの存在に、溜息を吐く。どぐぉおっ!、と何かとてつもなく硬いものが破壊されて抉れるような音がした。宙に舞う三色そぼろ、それの降り注ぐ先は、なんとまあうまい具合に調整するものだと思う、隣り合って座っているというのに俺にはまったく被害が及ばず、すべて遊星の頭上へと落下していった。突然のことに遊星は箸と弁当を片手に持ったまま硬直してしまった。黒髪の上に散らばる鳥そぼろと卵とさやえんどう。なんともカラフルなものだが、流石に居た堪れない。俺は足元に視線を移した。元々遊星が作ってきた弁当の3段目が存在していたはずの場所には、黒々と鈍く光る鉄パイプが突き刺さっており、しゅううううぅと心なしか煙を上げているように見える。屋上のコンクリートを陥没させるほどの馬鹿力でもってして弁当箱を叩き割る馬鹿など、俺が知る限りでは、ひとりしかいない。足元にやっていた視線を、恐る恐る上へと上げる。するとそこには、案の定というべきか、弁当を片手にそして鉄パイプを片手に持ち、にこにこと満面の笑みを浮かべて仁王立ちをしている、親友の姿があった。
 親友、ヨハンは、俺と目が合うと、ますます、にぃぃぃっこりとした。
「さぁて、先輩後輩によるほのぼの弁当タイムは終わりだぜええぇ??」
 素晴らしい笑顔だ。満点の笑顔だ。しかしその笑顔が、心底恐ろしい。
「ほら、十代には、お・れ・が!、弁当を作ってきたからな?もう大丈夫だぜ、そいつの弁当を無理して喰う必要はないぜ!」
「や、俺無理なんてしてねぇし、大体俺遊星が作った弁当好きだし、ってああ別にヨハンの弁当が嫌ってわけじゃないんだけどさ、ほら、昨日はヨハンが作ってきてくれたからさ、連日は迷惑かなって…」
「そんな心配おまえがする必要ないんだぜ?俺はおまえの分の弁当を作ることなんて苦ともなんとも思って無いし、俺が作ったものを毎日食べて欲しいとすら思ってるんだ。なっ?だからほら、そっちの弁当から手を離して?」
「いやいやいやいや」
「あははは遠慮するなよじゅうだ、」
 と、ぶおぅん、と耳元で鈍く空気を裂く音が響いた。その振動は直接鼓膜に伝わってきた。かと思えば、視界の端で鉄パイプが引き抜かれ、ぎいいいいいぃぃん!!、金属同士が激しく打ち合わせられた音が鋭く空気を震わせた。その衝撃の強さに反射的に腰で後ずさってしまう。咄嗟に伏せてしまっていた顔をゆぅっくりと上げると、やはりというべきか、そこは既に戦場だった。
 何時の間に持ち替えたのか(というよりはどこから取り出したのか)、その右手に箸ではなく巨大なスパナを持った遊星が、半分立ち上がりながらその凶器の先端をヨハンへと向けていた。表情は見えないが、彼が静かなる憤怒のオーラを全身に纏わせているのが視認出来るようだった。そして、明らかな殺意を持って振り翳されたスパナを鉄パイプで押し留めたヨハンの方も、先までの朗らかな雰囲気を一掃させて修羅のような表情を浮かべて遊星を睨みつけている。俺は頭を抱えたくなった。毎度のことだが、否、毎度のことだからこそ、わからない。
「十代さんは俺の弁当を食べて喜んでいたんだ。邪魔をするな」
「あ?抜け駆け野郎が調子こいてんじゃねーぞ糞が。ちょっと教室が屋上に近くて有利だからって、何でも上手くことが運ぶと思うなよ餓鬼」
「自分の行動の愚鈍さを省みろ。八つ当たりなど、幼稚すぎる。十代さんと違って、あんたはまったく尊敬出来ないな」
「へえ?この俺に喧嘩売ろうって?…いいぜ、買ってやる」
「喧嘩をするつもりなどない。十代さんに近付かなければ見逃してやる」
「ハッ!上ッ等だよおまえ!!」

 ――会えば必ずこうして殴り合いの大喧嘩になるというのに、どうしてこいつらはわざわざこうして屋上にやってくるんだろうか。


 そもそも、最初に屋上にいたのは俺だった。この高校に入学してからというもの、毎日のようにここに来ては授業をサボって昼寝などしていた。1年生の間はそうして、平和に、ひとりでのんびりと過ごしていたのだ。そんな日々に変化が訪れたのは、2年生に進級してすぐのことだった。突如現れた転校生は容姿端麗、成績優秀、文武両道という非の打ち所がまったく無い男だった。そんな優等生の中の優等生といったような相手と、落ち零れかけの俺が関わり合いになることなどないのだろうなあと思っていたが、人生というものはよくわからないものである。転校生の席がたまたま俺の隣の席だったことから、話すようになり、今では親友同士だと胸を張って言い切れるような関係にまでなった。その相手こそが、ヨハンだ。ヨハンは俺のことを必要以上に気にかけてくれて、昼休みになる度にひとりで屋上にやってきていた俺の後を追ってここに来るようになった。ふたりで馬鹿な話をして、笑って、じゃれあって、物凄く楽しかった。しかし、ヨハンはやはり優等生で、同時に人気者でもあったので、ひょんな切欠から担任に推薦されて生徒会役員になってからというもの昼休みは殆ど生徒会役員たちと過ごすようになってしまった。まあそれ自体は仕方の無いことだと思う。皆に頼りにされるヨハンは、昼休みになる度に様々な生徒から相談をされたり文化祭の企画会議に借り出されたりととても大変そうだった。俺は何も言わなかった。再びひとりに戻り、毎日屋上で昼休みを過ごしていた。そうしたら、とある日に、ひょっこりと遊星が姿を見せたのだ。
 遊星は、俺の幼馴染だ。小学校に進級する頃まで住んでいた家の、隣の家の子供、それが遊星だった。俺の家と遊星の家とは親同士の交流もあったので、子供同士もよく遊んでいた。だから一目見ただけで彼があの「不動遊星」であるとわかった。驚いて声をかけた俺のことを、遊星も覚えてくれていたようで、その日からは遊星と昼休みを共に過ごすようになった。離れて過ごしていた大凡9年間のことを語り合った。彼が今、一人暮らしをしているという話も聞いた。また、俺も今は一人で暮らしている身の上であったので、奇妙な親近感を抱いたりもした。お互いに自炊をしているということから弁当の話題にもよくなり、遊星があまりに美味そうな弁当を作ってくるものだから何度か俺の分も作ってくれないかと頼んだこともある。その度に遊星は笑って、「いいですよ」と答えてくれた。遊星と過ごす昼休みの時間は、実に有意義で、楽しいものだった。
 だが、そのような楽しい時間はなかなか長く続くものではなかった。しかし実のところ、どうしてこういうことになってしまったのかは俺にもわからなかったりする。何故なら、たった1回、その1回がすべてを分けてしまったのだ。たまたま、ヨハンが生徒会の仲間の誘いを振り切って屋上に来た時に、たまたま、俺が遊星の箸から直にものを食べている状態だったのだ。所謂、あーん、というやつ。勿論普段はそのような食べ方をしているということはない。ただ、本当にたまたま、遊星が食べようとした卵焼きが美味そうだったから、一口貰うだけというつもりで食べさせてもらっただけだった。だというのに、ヨハンは、俺と遊星のそのような状態を見た途端サッと顔色を転じさせた。普段の温厚さが嘘のように怒りの表情を顔面に貼り付けさせたかと思えば、つかつかと遊星の元に歩み寄り、その胸倉を掴み上げた。当然眉間に皺を寄せて不快感を隠しもせずにヨハンを睨みつけた遊星の鼻先で、ヨハンは叫んだ。「おまえ、誰の許可があって十代といちゃいちゃしてんだよ」と。
 いちゃいちゃ、って何なんだろうなあ、とは、今でも思っている。だが遊星はヨハンのその一言で何かを受け取ったらしく、すぐさまヨハンの腕を振り払い、「あんた、誰だ。十代さんの何なんだ」などと敵意を剥き出しにして応えた。あの遊星が、あからさまに敵対心を表に出すなど珍しいなあとその時は思っていたが、遊星の態度に神経を逆撫でされたらしいヨハンが優等生の仮面をかなぐり捨ててヤンキーも裸足で逃げ出しそうな剣幕で「そういうおまえは何なンだよッ!!」と怒号を発した時には、正直、心臓が止まるかと思った。温厚な奴ほど怒らせると怖いっていうのは本当だったんだな。尤も、ヨハンの場合は、またちょっと違うような気もするけど。
 そんなわけで、最悪な初対面をしたふたりは、半年が経てども未だ険悪な関係を維持したままである。否、関係は悪化していると言った方がいいかも知れない。最初は拳での殴り合いの喧嘩だった。それが何時からかお互いが最も得意とする武器を使っての、一歩間違えればひと一人の脳天がぐしゃりと潰れてしまうことも有り得なくは無いような、危険な喧嘩になってしまった。流石に命に関わると思い何度か止めたのだが、何度止めてもふたりはぶつかり合ってしまう。逆に相性がいいのかも知れない。そういった意味で。俺は、今日も死闘を繰り広げるふたりを横目に弁当を喰う。先ほど死守した遊星の弁当のおかず部分を食べ終えた後は、決闘に移る前にヨハンが手渡してきた彼特製の豪勢な弁当を食べる。開いた弁当の中身が多国籍、だなんて、早々あるものではない。一般的な日本料理から、今まで見たことの無いような料理まで、3段重ねの弁当の中はそれぞれ2×2の升状になっており、計12種類のおかずを楽しむことが出来る。ご飯は別盛だ。見慣れない料理を口にすることに稀に抵抗感を覚えることもあるが、外見は兎も角味は日本人の俺好みにアレンジしてくれているらしく、どれも美味い。間違いなく美味い。意図せず笑顔になってしまうくらいには美味い。だというのに、
「おら死ねゴルァ!!」
「っ、誰、がッ!」
「じゃあ十代の弁当渡しやがれくっそーーー!!」
「俺のもの、だッッ!!」
BGMがこれでは風情も何もあったものではない。俺は再度溜息を吐いた。折角ふたりともいい料理の腕を持ってるんだから、いっそのこと料理対決でもすればいいのになあ。そう思いながら口にしたさつま芋のレーズン煮は、やはりとても美味しかった。嗚呼。



2010.12.3

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