朝、目を覚ますと同時に身体を起こす。ベッドを出ると同時に、意識せずとも既に身体に染み付いてしまっている一連の家事のために動き回り、最後の洗濯物を干し終わった後にラベンダーティーを飲みながら一息を吐く。テレビを点ければ、清々しい朝に相応しいようなクリーンなイメージを持ったタレントたちが出演している報道番組が放送している。欠かさずにチェックしている今日の占いでは、なんと一位だった。少しだけ気分をよくしつつチャンネルを回し、いつもこの時間に放送している簡単な料理コーナーを見る。おかずのレパートリーを増やすためにと見始めたものだったが、今ではすっかりはまってしまっている。今日のレシピは「簡単!和風ハンバーグ」だった。今度作ってみよう。そのようなことを考えながら朝食を摂り、家事の続きをする。茶碗を洗い、掃除をする。それから、今日の分の仕事に取り掛かる。昨日半ばほど終わらせていた電化製品の修理だ。午後には配送屋のクロウが取りに来る手はずになっている。少々てこずりはしたものの、この調子では予定した時間よりも多少早く終わりそうだ。断線していた部分を繋ぎ合わせながら多少ほっとする。長引かなくてよかった。どうしても今日の午後には買い物に行きたかったのだ。最後の線を繋ぎ合わせ、カバーを取り付け、うまく起動するかを試している最中にインターフォンが鳴った。良いタイミングだ。
「早かったな、クロウ」
「前の配達がちっと早く終わったんだよ。それより、出来てるか?遊星」
「ああ。俺も今ちょうど終わったところだ」
 まだ昼食を摂っていないというクロウに簡単なものを作ってやり、美味い美味いと騒ぎながら慌しく口にものを突っ込んでいく様を眺めながら自分はブラックコーヒーを飲む。時刻は正午を回っていた。ふ、と窓の外に視線をやれば、目映いばかりの光がコンクリートの地面に散った水溜りの上できらきらと踊っている様が見えた。昨日までの雨が嘘だったかのようにからりと晴れた金曜日、そう思うだけで心がふわふわとするような心地がする。ひとりでくすりと微笑むと、パスタを頬張っていたクロウが珍しいものを見るような目つきでこちらを見遣ってきた。「何だ?」と問いかけると、急いで口の中のものを嚥下し、奇妙に真剣な表情でこう言った。
「遊星…おまえ、今、そのぉ…本当に、幸せなのか…?」
 少しだけ気まずそうなのはどうしてなのだろうか。こちらに気を遣っているからなのだろうか。そのような必要は無いというのに。何故なら、この質問は、今まで何度と無く繰り返しされ続けてきたことだからだ。遊星は軽く笑い、深々と頷いた。クロウが表情を歪めて「だけどよ…!」と言い募りかけたのを視線で制し、ゆるく首を横に振った。
「俺は幸せだよ、クロウ。とても、幸せだ…」
 クロウは一瞬だけ泣き出しそうな顔をしたが、すぐにさっと視線を伏せて、「遊星が、そう言うなら、いいんだけどよォ…」小さく呟いた。それきり何も喋ろうとはしなかった。

 高校や大学でつるんでいた仲間たちは、度々遊星の元を訪れる度に皆同じ質問を繰り返す。「本当に幸せなのか」と。それは、遊星がこうしてひとりで日中も閉じこもって家にいることに対して、不憫に思っての問いかけなのだろう。もとい、今でこそ遊星は自宅で修理屋などというものをしているが、大学時代は機械工学科の中でもそれなりに高い評価を成績を手にしていた、将来有望な学生だったのだ。だからこそ、数ある大企業からのオファーを蹴り、就職することなく卒業をした彼に対してゼミの教授や友人たちは並々ならぬ思いを抱いているようだった。それは怒りでもあったし、心配、不安、猜疑など、あくまでも遊星を思ってのものであって悪いものはひとつとしてない。そのことはわかっている。だが、遊星は自分で決断して、就職してひとりの人間として成功を収めるという未来を自らの手で閉ざしたのだ。後悔など無ければ、現状に不満などあるわけがない。こういう状態になることを承知の上で、彼の申し出を受けたのだから。
 「同居人同士」という関係が名称を変じさせたのはつい1年ばかり前の話だ。あの日、小指を絡めあいながら彼は遊星にみっつの「お願い」をした。ひとつは、彼が家に帰る時には家にいて笑って出迎えて欲しいということ。ふたつめは、晴れの日には枕を干してふかふかにしておいてほしいということ。そしてみっつめは、何か辛いことがあればすぐにでも口に出して伝えること。黙って頷き、涙を流した遊星を、彼は優しく抱きしめてくれた。遊星には彼の願いを拒否することなど出来ないし、その必要を感じない。遊星が簡単なアルバイトではなく家でも出来るような修理屋の仕事を選んだのはそのためだ。幸いにして、家業を継いだクロウのように依頼された仕事の品を運んでくれたり、大手企業に就職してバリバリ働いているらしいブルーノのようにちょっとした仕事の仲介をしてくれたりする友人は多い。とても恵まれていると思う。幸せで無いわけがないのだ。その上更に我侭などを言っては、自分たちの暮らしのために全国各地に出張営業に出かけている彼に申し訳が立たないではないか。
 クロウを見送り、洗濯物を室内に取り込んだ後久しぶりに市街地にまで出かけた。目的は今晩と明日の夕飯の買出しだが、他にも切れかけている日常必需品を買い足しておかなければと思う。購入した商品を自前の鞄に詰め込み、デパートの中を歩く。と、不意に通りかかった服屋の店頭で、袢纏が売り出されているのを見かけてしまった。上品な紅色の袢纏はとても彼によく似合いそうだ。更にその隣に濃い藍色の袢纏を見つけてしまう。冬に向かいかけている今の時節、軽く羽織れるようなものがあっても困らないだろう。迷った末、そのふたつの袢纏と、数種類の毛糸を買った。そうだ、冬、冬がやってくる。今から何かしら編み始めれば、次の出張から帰ってきた彼に防寒具として渡すことが出来るだろうか。去年初めてマフラーを編んだ時には少し失敗してしまったのだが、彼はとても嬉しそうに笑って「ありがとう」と言ってくれた。今年は少しレベルを上げて、セーターに挑戦してみたいと思う。また、喜んでくれるだろうか。などと、女々しいことを考えてしまった自分に気付いて急に恥ずかしくなる。ほんの少しばかり熱くなった頬を隠すように俯きながら早足でデパートを出た。
 街中は様々な人で溢れ帰っていた。ティータイムを終えて帰路に就くと思わしき女性たちや、営業帰りらしく多少草臥れた背中のサラリーマンたち。かと思えば、夕飯の買出しをするべく家から出てきたばかりといったような婦人たちもいる。誰かと待ち合わせをしているのだろうか、そわそわと気忙しく時計と駅前通とを見比べている男子学生もいる。ティッシュを配る人がいる。花を売る人がいる。親の手を引き歩く子供、腕を絡ませあい歩くカップル。穏やかな日没が迫っていた。電車の中は柔らかな橙色の光で染まっていた。駅前の小さな洋菓子店で小さなケーキを2種類ずつ買った。両手いっぱいの荷物を持って帰宅した。薄暗い室内に明かりを灯し、部屋を温める。時刻は17時を過ぎたあたりだった。まだ早いだろうかと思いつつ、風呂のスイッチを入れる。食料品を冷蔵庫にしまい、夕食の準備に取り掛かった。思い切って新しくしてみた油を温め始めるのと同時にサラダ用の野菜を切った。今日の味噌汁の具は豆腐と油揚げだ。惣菜売り場で買ってきたひじきの煮つけはまた後で出すことにして、まずは海老の下ごしらえにかかる。今日のメインディッシュは彼の大好きなエビフライだ。しっかりと解凍を済ませ水を切った海老に衣を絡ませ、180度の油で1本ずつ丁寧に揚げていく。本当ならば2本も3本も一緒に入れてしまいたいところだが、一度に沢山の海老を入れてしまうと油の温度が下がってしまうため、我慢だ。どうしても失敗したくなかったので慎重にもなる。すべての海老が揚がったところでタルタルソースを作る。残すは盛り付けだ。食器棚から2枚の皿を取り出そうとして、ふと手を止めてしまった。胸がきゅっと小さく痛んだ。悲しみからではない。普段は1枚で済む皿を、2枚取り出すということ。普段は棚の中に大切にしまわれている茶碗を出すということ。大袈裟だとは自分でも思うのだが、止められない。嬉しくて仕方が無い。毎回、こうして、ふたり分の夕食の準備をする度に、自分がどれほどまでにこの瞬間に焦がれているかということを思い知らされるようだった。ひとつ深呼吸をしてから食器を取り出す。盛り付け用の皿も2枚。取り分け用の皿も2枚。茶碗もふたつ、お椀もふたつ。セットで買った色違いの箸置きの上に並ぶ箸も、実は色違いのお揃いだったりする。リビングのテーブルにそれらを並べ、あとは白米と味噌汁をよそうだけ、となった時に、まるで天啓のように、インターフォンが鳴った。
「はい!」
 慌てて玄関に向かった先で、彼の分のスリッパを出していなかったことに気付き慌てて棚から出した。数度深呼吸をし、覚悟を決めて玄関扉を開いた。と同時に視界に飛び込んできたのは、一面の赤、だった。
「!これ、は…?」
「ただいま、遊星」
 そしてその一面の赤を抱え込んでそこに立っていたのは、間違いなく、遊星の大切な人、十代その人だった。十代は満面の笑みを浮かべながら、手にしていた赤、薔薇の花束を、手渡してきた。呆気に取られつつそれを受け取った遊星に、照れくさそうに小首を傾げながら言った。
「今日は結婚記念日、だもんな!ちょっとベタかなとも思ったんだけどさ、お店の人に聞いたらやっぱり赤い薔薇がいいですよって言うから、ちょっと奮発しちゃったぜ」
 赤い薔薇。その花言葉を思い浮かべて息を詰まらせた遊星を、十代は、薔薇ごと抱きしめた。
「いつも一緒にいられなくてごめんな。でも、俺は、おまえのことを、」
 その続きを言いかけた唇に遊星は自分の唇を押し当てた。驚き口を噤んだ十代の肩口に顔を押し当てながら、小さな声で「おれ、うれしいです、十代さん…」と呟いた。ぽろぽろと次から次へと瞳から溢れ出すものを堪えられない。十代は暫くの間黙り込んでいたが、再び遊星の背中を抱き、「なあ、笑ってくれよ遊星。俺の「お願い」、忘れちまったのか?」と囁いた。遊星はぎゅっと瞳を瞑った。十代は酷な男だ。遊星が今どのような状態になっているか理解していながら、そのようなことを言う。しかしその声音がとても柔らかくて、それこそ泣き出しそうになってしまうほど優しかったので、ぐいぐいと目元を十代のスーツに押し当て、震える唇を一度噛んで落ち着かせてから、大人しく顔を上げた。そうして、蕩けるような笑みを浮かべてこちらを見詰めてきていた十代に、ふわり、と、微笑みかけた。
「おかえりなさい、十代さん」
 きつく抱きしめられる。視線を絡ませあい、それからどちらともなく目を閉じ、3ヶ月ぶりの再会の喜びを確かめるように唇を重ね合わせた。それだけで胸に溢れ出すものを実感しつつ、改めて遊星は思うのだ。
 ああ、俺は、幸せだ、と。



(2010.11.22←に願いを籠めた2010.11.26)


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