暗闇の中で浮かび上がった白い指先が、ひどく緩慢な仕草でジャケットのボタンを外した。ぷち、ぷち、ぷち、ひとつずつ、丸く滑らかで平たいものがそれらを閉塞していた穴から解き放たれていく。下の方から、封印であるかのようなひとつが解放されるごとにしゃんと地面に向かって伸ばされていた裾がふわりと外側へと広がり、かっちりと前が止められていたことで閉ざされていたその内部が露になっていく。堅牢な印象を抱かせるジャケットの内側に隠されていたのは薄手の七部丈シャツ一枚のみだった。華奢とは言い難いが男にしては少々頼りない細い腰の線にぴったりと張り付いたシャツは随分と草臥れて皺が寄っていた。シャツの裾の下から覗くのはこれも身体の線を綺麗に映えさせる仕様になっている暗色のパンツ、小さな骨盤から太股に続くほっそりとしたシルエットが闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
 腕を抜いて完全にジャケットを脱ぎさると、片手に持ったそれを無造作に床に放り投げた。恐らく旅業の過程で必要になった身の回りの必需品あれこれを無数のポケットの中に仕込ませているのだろう、厚手のジャケットは見た目のままの重たく鈍い音を立てて地面に落ちた。何となくそれを目で追う。畳まれもせずに、本当にそのままの形で脱ぎ捨てられたジャケット。あの日から、彼がずっと愛用し続けているジャケット。旅の臭いを全て吸い込みぼろぼろになりかけている防寒具は、今は彼の足元で片腕のみを広げもう片腕はくしゃくしゃに折り曲げられたあられもない状態で打ち捨てられている。大切なものが詰まったそれを、躊躇いもなく脱ぎ捨てた、その裏に隠されている無意識であろう意志と意識領域のことを頭の隅っこの方で考えようとして、なんとなくたまらない気分になったのでやめておいた。
 視線をジャケットから本人の方へと移す。白い指先は惑う素振りのひとつも見せずに、今度はシャツの裾へと伸ばされていた。胸の前で腕を交差させ、裾に差し込んだ指先を持ち上げる。上半身を前傾させ大胆にシャツを捲し上げた。薄く割れた腹筋が、スッと1本線の入った背中が、見る見る露になっていく。闇の中でも真白く映える透き通ったその膚。東西南北、世界の各地を点々としているということはもっと健康的な小麦色に染まっていてもいいはずなのに、寧ろ以前に目にしたときよりもより中性的に木目細かくなっているように見える。その身体は少年から青年への成長期特有の瑞々しさと奇妙な色気、男性のものであるはずなのにどこか女性的な昏い艶をも含ませた圧倒的な質量のそれに思わず息を詰めた、を纏い、闇が齎す静けさに見事に調和してすらりとそこに存在していた。シャツを腕から抜き、頭から抜く、その際襟足の側から髪を逆撫でされて、鳶色の長髪がわずかに乱れた。頭の両脇に垂らされている横髪の間から垣間見えた形のいい白く小さな耳。すぐさままた髪の毛の1本1本で織り成されるカーテンによって閉ざされてしまったが、白い残像が瞳の表面に焼きついてなかなか離れてくれない。埃っぽい臭いに混じって、微かに彼の匂いがした。ぶるぶる首を振って軽い溜息を吐いた。剥き出しの肩は骨張って、掌で包み込んでしまえそうなほど薄い。すっと通る、喉から胸板、腹部へ落ちる身体のライン。不健康的にさえ見える腰の括れ。へこんでいる臍の周囲から、下腹部に、その先へと続いている見えるか見えないか際どい部分。パンツに覆われたままの股間、両足の間に出来た僅かな距離が嫌に生々しく感じられた。そこから左右に滑り落ちて柔らかそうな内股を形作る。膝を、脛を通り、やがて辿り着くのは靴を脱いだ白い足の爪先だった。
 白い指先に鷲掴みにされたシャツは、脱いだ直後の輪状に撓んだままの状態でジャケットの上に放り投げられた。まるで脱皮のようだと思う。本体から切り離された抜け殻は、気遣われることもなくその場に打ち捨てられる。そして、硬い皮を脱ぎ捨て現れたうつくしい白い裸体が、今、眼前に佇んでいた。
 両腕の白さが一層際立っていた。上半身だけを闇の中に浮かび上がらせ、更に淡々とベルトを外し、パンツの中央のファスナーを下ろし腰の半ばまで布をずり下ろしたところでぴくりと指先が止まる。伏せられていた白い顔が上げられ、その姿をずっと凝視していた瞳と視線を交わらせた。うちから光を発してでもいるようにぬらぬらと輝いていた濃い鳶色がふっと細められる。途端、目に見えてぞわりと蠢いた闇とむわりと濃度を増したこの何とも形容し難い藍色の気配に――ヨハンは息を呑んだ。


 天空を覆いつくしていた分厚い雲が途切れ、弱い光がおんぼろな山小屋の崩れ落ちている天井の隙間から差し込んだ。闇が和らぎお互いの表情が鮮明に窺えるようになったところで、十代は先程からぴくりとも動かず顔面を片手で押さえ込んだまま黙り込んでしまっていたヨハンのことを改めて視界に映し、小さく噴き出した。プッ、と空気交じりの吐息を耳にして我に返ったヨハンは、首筋まで真っ赤にしたままくすくす微笑む十代を慌てて睨みつける。十代はパンツを下ろそうとしていた手を首の付け根に移動させると、さもおかしそうにふふっと鼻を鳴らした。それから、首筋の線の中でぷつんと浮き上がっている尖った鎖骨をゆっくり指先でなぞりつつ小さく首を傾ける。
「なんだよ〜、何見てんだよ〜?」
「ちょ、それ俺の台詞だから!取るなって!」
「へへっ、一度言ってみたかったんだよな〜」
 十代は嬉しそうににこにこすると緩やかに両腕を開いた。ヨハンに向けて。穏やかな眼差しでヨハンを見詰め、雰囲気を和らげさせる。言外で、突っ立ってないでほらこっちこいよ、と手招きされてヨハンはなんとも言えない気分になった。久しく会った友人は、あの卒業の時からもまた随分変わってしまったようだ。大人しく歩み寄りながらヨハンは苦く思う。こんなのは、反則だ。
 1歩2歩近付き、十代が満足そうに頷いたのを視界でちらと見ながらヨハンは思い切りその身体を抱き締めた。白い裸体は触れると存外冷たかった。幼児のように体温が高かったのに、ちょっと大人になるとこうまで変わってしまうものなのか。内心でぶつぶつ呟きながら只管ひとつの思考から意識を逸らそうと努める。最も、早鐘のようにどくどく鳴っている心臓の鼓動だけは、どうしようもなかったのだが。
 ぎゅうぎゅう抱き締めあい、互いの肩口に首を乗せ暫く抱擁を堪能した。が、不意に十代はヨハンの肩を掴んで身体を引き剥がすと、物足りなさそうな申し訳なさそうな苦笑を口元に佩きながら「なあ」と珍しく甘えた声で呼びかけてきた。どくん、心臓が大きく跳ね上がり口から飛び出しそうになる。上目遣いで見上げてくる十代。十代の視線はヨハンの視線より頭半分ほど低い。この構図は多少変化したようだ。当然だ、次に再会した時に身長まで抜かされていてはたまったものではないと、ヨハンは必死にトレーニングとカルシウム摂取を続けて身長を伸ばしてきたのだから。思惑通りの身長差を手に入れられたのは願ったり叶ったりだとしても、嬉しい誤算があった。大きすぎる誤算だった。これでは心臓が、理性が保たない。
 そしてヨハンのそんな葛藤は十代にとっくに見透かされてしまっていたらしい。肩に添えられていた手がそのまま首の後ろに回る。上半身だけではなく、下腹部もぴったりとくっつけて、緩く揺する。煽るように。否、実際煽っているのだ、十代は。ぎょっとして見下ろした先で十代は可愛らしく舌をぺろりと出した。
「俺さー…ぶっちゃけ、もう、」

 我慢できないんだけどな?

 それは俺の台詞だ。言い返す代わりにヨハンはかさついた十代の唇に喰らいついた。粘膜同士を直に擦れ合わせるように首の角度を変える。十代の後頭部に手を添え、多少強引に引き寄せる。鼻先がぶつかった。ん、と鼻から抜ける吐息が漏れたのを聞いて薄く目を開いたヨハンが見たのは、その長い睫を伏せてうっとりと眦を下げる十代の喜びの表情だった。なにやら眩暈がするようだった。
 再会の余韻に浸るよりも早く交じり合う、こういったがっつく癖は2人とも直ってないな、やけに冷静な自分が現状を解析する。同時に冷静な部分は両手を頭の上に上げてお手上げのポーズをとった。完敗という意味らしい。確かに、だ。会う度に会う度に変化していく十代に、いつもヨハンは翻弄されていた。
 やがて唇を離す。視線を交わす。ふ、と優しく十代が微笑む。落ち着いた微笑みだった。ああもう!ヨハンは内心で舌打ちをしてから、もう1度十代の唇を引き寄せた。掌を彼の裸体に這わせつつ、彼が自分で脱ぎ捨てることが出来なかったパンツの内側へとしのばせる。握りこんだ中央はしとどに濡れていたが、何より、自分の方がピンチである自覚はしていた。十代はノリノリでヨハンの掌に腰を摺り寄せて来る。その一挙一動が、もう、駄目で、ヨハンは最後の理性を大人しく手放すことにした。賢明な判断だと、思った

 とりあえず、行為が一段落着いたら十代にはひとつ忠告してやらなければならないようだ。
(おまえ、えろくなりすぎだっての!)



2008.4.XX
(何時書いたかもう忘れてしまいました…)


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