窓の外がやけに騒がしいと思ったら案の定だ。もういっそ何も見なかったことにして資料集めに専念したかったが、明らかに本気の悲鳴が混じってしまっていることに気付いてしまった後で見て見ぬフリをすることは出来ない。がしがしと後頭部を掻き毟って、どうしようかなあと考えた末に机の上に積み重ねていた古めかしく埃臭い蔵書たちを本棚に適当に突っ込んでから、ヨハンは資料室を後にした。歴史書やここ数年間の間に発行されたジャーナルたちがずらりと並ぶ廊下を足早に通り過ぎ、ばたばたと階段を駆け降りた先の1階で、ふと気になってちらりと見た町民館の受付のカウンターの中はやはり既にもぬけの空だった。きっとあの叫び声だか怒声だかなんだかが聞こえてきた時点でもう避難を始めてしまっていたのだろうと思う。少しだけ歯噛みする。こんなことならば、せめてあの本、ようやく回り逢えた珍しい鉱物たちが載っている図鑑だけでも鞄に捻じ込んで持ち出してしまえばよかったかとも考えたが、ここで自分が本当の犯罪に手を染めてしまっては今まで只管に無罪を叫び続けてきた意味がなくなってしまう。たかが窃盗、されど窃盗だ。恐らく、この後2年は立ち寄ることがないであろう町だっただけに後ろ髪を引かれる思いではあったが、突如響いてきたずごおおおおぉぉんという物凄い爆音に我に返った。畜生め。涙目になりつつも誘惑を振り切って館の外へと飛び出した。


 快晴の青空一面を覆い尽くす黒い斑点たち。それらはギャアギャアと耳障りな鳴き声をあげながら蝿のように集団になり空から地上へと降下をし続けている。蝙蝠のような羽で空を切り、黄色い嘴を逃げ惑う獲物たちの背中へと向け一直線に突っ込んでいく。その様は宛ら統率された軍隊の突撃行動のようだった。獲物たちを仕留めるべく精密な攻撃を仕掛けてくる異形たちを前に、ただただ地上を走り逃げることしか出来ない人間たちは死に物狂いの表情で地下シェルターを目指し駆ける。だが、力ある獣たち…所謂魔獣たちの文字通り化物染みた運動能力にひ弱な二本足が敵うことはない。とある民家から逃げ出した老人がとうとうその嘴の餌食になった。鋭い嘴はとすんと軽い音を立てながら人間の柔らかな肉体を穿ち、その一突きにより人の命は儚く消える。断末魔の悲鳴をあげた老人は、獲物を捕えた魔獣が上空へと帰還すべく突撃姿勢からの角度を変え急激な上昇行動をした際に肉体を引き裂かれ周囲に内臓を撒き散らした。グロテスクな色合いをした長細いものが飛び散る。老人のすぐ前を走っていた少年が振り返った瞬間に、それは頭上へと降りかかった。少年が若い女のような声で悲鳴をあげる。ぎらつく銀の瞳にくすんだ緑色の皮膚を持った魔獣の鋭い嘴は、今にも少年を喰らわんとして眼前に差し迫って来ていた。だが。
「ったく、しつけー奴らだなっ!」
 次の瞬間、少年の目の前で異形の身体が真っ二つに折れ曲がった。羽の生えている背中あたりから、有り得ない方向へと――L字に捻じ曲がってしまっている。少年が尻餅をつくのと、異形の身体が物凄い勢いで回転しながら道なりにあった不運な民家へ突っ込み物凄い音を立てたのは同時だった。また、魔獣の代わりに、少年の眼前にひとりの人の形をした存在が降りたったのも。
 集団で行動している魔獣たちの追撃が、少年の目前に立ち塞がった人物へと向けられる。少年は咄嗟に、今度こそ駄目だと思い目を瞑った。しかし視界が閉ざされ聴覚ばかりが敏感になる世界の中で、目の前の人物の悲鳴が聞こえてくることはなかった。それどころか、ずがん、ずがあん、ずがああああん、という轟音が連続した時にはいったい何が起こったものかと現状認識が多少ぶれてしまったほどだ。轟音と共に、地響きに似た振動が左右から伝わってくる。何かが崩壊するような音も。少年はじっと目を瞑り続けていたが、やがて何も聞こえなくなるといよいよ現実を直視するしかなくなり、恐る恐る目を開いた。そして目にする。先ほどまでと同じ、腰に両手をあててどこか自慢げな様子の人物と、何時の間にか全壊してしまっている街道両脇の民家を。
 その人物は、はあと深々と溜息を吐くと、少年の方へと振り向いた。どうやら男性、のようだった。甘いチョコレートのような色合いに甘い蜂蜜のような色合いを被せた不思議な頭髪をした男性は、少年と目が合うなり悪戯っ子のようににやりと笑った。それがあまりにこの周囲の惨状と不釣合いなものだったから、少年は余計に困惑してしまった。少年が戸惑っていることを感じ取っているのかいないのか、男性は再び前を向くとやけに楽しそうにけらけらと笑った。さっぱりわけがわからない。どうやら旅人らしく、やけにポケットが沢山ついた黒い皮のコートを纏い、その裾から見える足は丈夫そうな具足で固められている。しかし奇妙なことに、彼は何も目に見える武器を手に持っていなかった。確かに、世界中を旅している旅人なら、今この町が襲撃を受けているように魔獣たちに襲われることも多くあるだろうし、それに対抗すべく強力な能力を身に着けているということもあるだろう。しかし、少年が学校で学んだ旅人の強力な能力というのは、あくまでも彼らの武器に付随されるものであって、武器を扱う人間自体は多少基礎体力などが強化された程度のものであるはずだ。いったい目の前の人はどんな武器を使ってあの追撃すべてを受けきったのか。否、あの数の魔獣たちを倒したのか。
 疑問を追及している暇はなかった。ゲアアアアァ、というけたたましい鳴き声が上がる。ハッとして頭上を見上げれば、そこには完全に隊列を整え切った魔獣たちの大群が見てとれた。仲間たちを殺されて興奮しているのか、彼らの銀色の瞳は不気味な色に発光している。まるでビームでも出てきそうだ、と思ったが、幸いこの種族の魔獣たちは目からビームを出すという能力は持っていなかったはずだ。ほっとしかけて、しかし予断を許さない状況、もっと言うならば絶体絶命の状況には変わりないことに気付き少年は顔面を土気色にさせる。ゲア、と大群のうちの一匹が強い声で鳴いた。魔獣たちが揃って、羽をピンと上向けさせ伸ばす。降下姿勢に、入った――が。
「誰に牙を向けてるかわかってねえな?」
 こりゃあ駄目だなーお仕置きだなー仕方ないなー神にでも祈っておけよ…つっても神様はおまえらのこと嫌いだから助けてくれないかもなーじゃあやっぱり諦めろ。目の前の彼が何事かをぶつぶつ呟いている。かと思えば、彼は突然、くるりとその場で一回転を、した。まるでバレリーナが軽やかに踊るかのようにだ。おどけて、腰をくねらせながら、くるんと回った彼は、左手は腰に当てたまま、右手だけを口元へと持っていった。そして、指先を唇に添え、ちゅ、と音を立てて離すと、今にも襲い掛からんとしている魔獣たちへと向けて腕を伸ばし、ぱっと、唇から吐き出した吐息のようなものを、送ったのだ。
 その動作に名前をつけるとしたら、投げキッス、という名前が適当であることは間違いない。男性がする動作では決してないことは少年にもわかる。しかし少年の瞳を極限にまで見開かせたのは、彼が唐突に魔獣へ向けて投げキッスをしたからではなかった。
 ズガガガガガガガガガガガガガガガ――――!!!!!
 無数の爆発が突如生じた。上空、魔獣たちが敷き詰められていた空間が連続して爆発を起こしている。それは、たとえば火事や爆弾によって引き起こされる爆発とはまったく異なる爆発だった。飛び散る火花は血のような赤で、爆発の源には見たことも無い紋章が浮かび上がっている。紋章は毒々しい金色に輝き、紋章の装飾であるかのような焔たちはまるで意志を持っているかのように奇怪に蠢き数十秒間上空で停滞した。消えない焔など、見たことが無い。紋章はちょうど横一列、魔獣たちが滞空していたため黒く染まってしまっていた空を埋め尽くすようにして幾つも幾つも浮かび上がっている。圧倒的な爆発音の他に、音は聞こえなかった。あの夥しい数の魔獣たちは、叫び声を上げる間すらなかった。そして紋章が消えた後の空には、塵ひとつ残っていなかった。快晴の空の青が、やけに恐ろしいもののように見えた。
 少年は動くことが出来なかった。思考だけがぎゅるぎゅると小さい頭蓋骨の中で回転していく。今のは一体なんだったんだろう。その疑問は、彼が、振り返ったことにより明らかになる。小柄な青年という言葉が似つかわしいはずの彼の背中に、見えてはいけないものが見えている、ような気がする。甘いチョコレートのような色合いの髪と同じ色だったはずの瞳が、禍々しいオッドアイになってしまっている。橙と翡翠。この2色の組み合わせについては、少年が色という概念を学ぶのと同時期に学校の先生や両親などに散々言い聞かせられていた。「邪悪」の象徴だという。何故なら、この色合いを唯一身に宿す者こそがこの世界の諸悪の根源だと謳われているからだ。そして先ほど目にしたもの。消えない焔と、紋章。あれは、間違いなく、今はもう失われてしまったはずの魔法である。人間には決して仕えないはずの魔法を使いこなし、且つ、邪悪の象徴を身に宿す者。その正体など、ひとつしかないではないか。
 少年は唇を震わせた。否、全身を震わせた。恐る恐る手を上げる、人差し指を、にこやかに微笑んでいる彼へと突きつける。
「あ、あ…あ……!」
「ん?大丈夫かおまえ」
「あ、あく、あく、あっ…!」
「大丈夫じゃないのはおまえの頭だろうがこの能無し悪魔族がっ!」
 あくま、と言おうとした少年の前で、その悪魔の顔が突然がくんと下に沈む。がす、っと鈍い音がした。そして降ってきたのは透き通ったアルトの怒声だった。少年は思わず息を呑む。彼の背後には、何時の間にかひとりの青年が立っていた。眉間に思い切り皺をよせ、明らかに怒っている雰囲気を纏ったその青年の右手は硬く握られている。恐らくその拳で、彼――悪魔の頭を殴ったのだろう。悪魔の頭を叩くなんてなんて恐ろしい人なんだ!咄嗟に少年は叫びそうになったが、それも、いってぇえええぇ〜〜!という情けない悲鳴に遮られる。見れば悪魔が顔を上げているではないか。しかしその瞳の色は、元通りのチョコレート色に戻っていた。
 悪魔が涙目になりながら背後を振り返る。
「何すんだよ!」
「それはこっちの台詞だ。つか何してんだ。おまえは本気で能無し、いや、脳味噌無しか。俺この間も言ったよな。何て言ったか覚えてるか。ええ?」
「何て言ったかって、それは、…あ〜〜……ええっと、」
「人里で魔法を使うなって言ったよな。俺は確かに言ったはずだ。ああ言ったとも。これで5回目だよなぁ十代?」
「なんでちゃっかりカウントしてんだよ〜」
「なあ知ってるか?異国の言葉でさ、仏の顔も3度まで、って言葉があるんだぜ?だけど俺はおまえのことが好きだからさ、3度じゃ仏の顔を崩さないでいてやってたわけ。で、今回5回目な。わかる?もうわかるよな?俺が何言いたいかわかるよな?」
「は、はは、悪ぃ……あの、ヨハンさん眼がマジです、滅茶苦茶怖いですから、その、」
「折角目当ての資料が見つかったってのに急いで逃げなくちゃいけなくなったから書き写す暇も無かったぜ。って、こういう展開確か前にもあったよなあ〜…?」
「そ、そうだった、っけ…」
「………今度という今度は許さねえからな覚悟しておけよ」
「っ、おまえよくもこの大魔王様に向かって、」
「あははははははお仕置きだなー、は、こ・っ・ち・の!台詞だぜじゅうだぁい…?なあぁ?」
「ヒッ」
 青年は悪魔の首根っこを引っ掴むと、茫然自失状態の少年に向かって苦笑して「悪い。俺たち捕まるわけにはいかないんだ。だからさっき見たことは君の胸にだけ留めておいてくれ。結果的には助かったんだから、な?頼むぜ」と言ってウィンクをすると、何事かをぎゃーぎゃー喚いている悪魔を半ば引き摺りながら走り出してしまった。ひとり取り残された少年は目をぱちくりさせながら、結局一体ここで何が起こったのだろう、と考える。学校の教科書では、確か、橙と翡翠の瞳を持つ悪魔族の王は残酷非道の存在だ、と書かれていたはずなのだが、何かの間違いだったのだろうか。確かめようとも、物凄い勢いで全壊した建物の影に消えていってしまった2人を追う気には到底なれなかったので、とりあえず自分が命拾いをしたということだけを実感しておこうと思ったのだった。



***



同設定のもっと穏やかな小噺が以下





 向こう側の水平線がきらきら揺らめいている。しんしんと静寂ばかりが降り積もっていく朝焼けの町を見下ろしながら空中を闊歩する。光を受けた水面が眩く波打っている。その奥の、薄く藍色に透き通った世界には足を踏み入れることが出来ない。身を切り裂くような冷たさが逆に心地よい。吐く息の白さが、白みかけている空に溶けて消えた。
 無機質なコンクリートの光と陰。小さいが確かに息衝いている様々な鼓動と、音色。無邪気な子供の安らかな寝息。光を閉ざすカーテンの群青。静まり返った町にすべてが均一に混ざりこんでいる。何かもったりとしたミルクをぶちまけたかのような、粘着質で、だが心地良い微睡みの中へ沈んでいる。白いひかりがすべてを包み込む様を見ていると、まるで、水底から静止したひかりの世界をひとりぼっちで覗き込んでいるかのような気分になる。はかなくもうつくしい。煌びやかでありつつも寂しげである。滑らかな光と闇が同居している。そういったものを客観視して溜め息を吐く自分に語り掛ける存在はなかった。
 ぼんやりとしながら夜が朝の力強さの陰に消えていく様を眺めていた。水平線の向こう側から温かな太陽が顔を出すと、惨めで臆病な夜はすぐに引っ込んでしまう。そうやって逃げる夜を追いかけて太陽はギラギラと輝くけれど、一向に闇の逃げ足に追いつけないようだった。めぐりめぐる。あの太陽が沈めば安心した夜がゆっくり世界を満たしていく。ひたひたと、満ち引きのように。1日は始まり、終わっていく。その瞬間をここでこうして見守っている。
 遠くの方で汽笛が鳴っている。のびのびと、つめたい空気の中で欠伸をするように気ままな声を上げている。くすくす微笑みながら下を見下ろすと、朝の光に誘われて町が目を覚ました様が見て取れた。静寂で埋め尽くされていた空間にざわめきが混じり出す。ぽつ、ぽつと灯りが点っていくように、あちらこちらから目覚めの声があがる。いずれ静寂はざわめきの下に覆い隠されてしまう。雑音にまみれた町はけしてはかなくはない。うつくしくもない。煌びやかというよりは雑多で、寂しさなど忘れてしまったかのようだ。しかしそこには鮮やかさがある。活気が、天にまで立ち上り、透明な空間を色とりどりに染め上げていくのだ。そういう瞬間を見守っている。いつも。ここから。
「おーーい」
 ふと、声をかけられた方に目をやると、そこにはパジャマ姿のままの世界一うつくしい魂を持った人間がいた。目を擦りながら、眠そうな声で呼びかけてくる。空中の上で掻いていた足を止め、すっと屋上に降り立つと、彼は欠伸を噛み殺しながら「相変わらず朝早いな」と半ばどうでもよさそうに言った。内心でくすりと笑む。
「この時間のこの瞬間が好きなんだ。町が目覚める瞬間が」
「ふーん…まあ俺にとっては睡眠の方が大事に思えるんだけど」
 朝飯にするから手伝えよ、と言って素っ気なく踵を返してしまった後ろ姿に続きながら、こっそりと瞳を細めた。その自然体、澄んだ気配が作り出す居心地のよさが、冷えた躯にじんわりと染み込む。優しさと言う名の温もり。無償で与えてくれる人間。
「ヨハン、」
「んあ?」
 まだ眠たげな瞳でこちらを見遣ってきた人間に、にこりと微笑みかけた。
「おはよう」
 人間はぱちりと1度瞬きをしてから、こくんと頷く。
「ああ。おはよう、十代」



↑でもこれはあしっどまんのイコールの歌詞があまりに綺麗過ぎて改めて感動したからそれで書き始めたんだったと、思う。確かね!



2009…年…の、いつか^▽^



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