鮫島校長から一通の手紙が届いた。平凡な便箋に、お元気でしょうか、というフレーズから始まる平凡な手紙だった。子供好きの中年男性らしい世間話がつらつらと並ぶ中で、異世界での一件以来別段本校では変わった事件もなく、社会から切り離された孤島らしいのんびりとした生活が戻ってきているということが記されていた。久々に目にする日本語を、ゆっくりと、一文字ずつ読み解いていく。噛み締めるように。もう殆ど触れる機会のない言語だろうが、つい数日前までは自分たちもこの細やかな言語に塗れて生活していたのだ。そう考えるとなにやら、懐かしいやら、もどかしいやらで胸が一杯になった。指先で文字を追いながら少しずつ読んでいく。真白な紙に無数に引かれた横線、その上にちょこんと乗っかっている小奇麗な文字。二つ折りになっている用紙の折れ線部を目でなぞり、下の方に視線を落としていく。最後まで平凡な手紙だなあ、と思った。それではヨハン君もお元気で、とにっこり微笑んできた気配が紙面越しに伝わってきて、思わず微笑を浮かべた。
 だが、追伸、として書かれていた一行を見て、ヨハンは今まで和やかな気分でその紙っきれを眺めていたことなど忘れて飛び上がった。横たわっていたベッドの上から跳ね起き、たった一行、数文字のその文章を凝視する。紙と自分の眼球の距離を5cmほどにまで縮めて、一語一句確かめて、これが自分の都合の良い読み違いでないことを確信する。そしてヨハンは、ベッドの上で雄叫びをあげた。
 追伸。十代君も無事に帰ってきましたよ。
 嗚呼、十代、十代!あの時、異世界のあの場所で、ただ見送るしかなかった赤い背中を脳裏に描いて、ヨハンはぐっと目を閉じた。帰ってきてくれたんだな、十代。否、信じていなかったわけではない。十代はヨハンの親友だ、自身で公言するのは多少気恥ずかしいような気もしたがこれだけは間違いなく断言して言えることだった、だからこそヨハンは十代がユベルといい形の決着をつけて無事にこちらの世界に帰還してくれることを信じていたし、それを信じようとしない他の仲間たちに内心で密やかに憤慨してもいた。留学期間の終了ということで十代の帰還自体をこの目にすることは叶わなかったのだが、この際いっそそれは構わないとする。兎に角、無事で、彼が、戻ってきてくれたということが、何よりヨハンにとって嬉しかった。抑え切れない胸の高鳴りを感じて、ヨハンは大きく深呼吸をする。そして、思い立ったが吉日とばかりに、急いで部屋を飛び出したのだった。会えたなら何を話そう。浮き足立った気分で、ヨハンが目指したのはアークティック校の校長室だった。
 握り締めたままだった手紙が掌の中でくしゃくしゃと音を立てた。



 久々に踏み締める柔らかな大地の感触を堪能する間も無く、ヨハンは走っていた。船着場から降り立ち、方角を自分の記憶の中の本島のものと一致させつつ、緩やかな上り坂を全力疾走する。何処にいるのだろう、懐かしい風景が視界の左右を過ぎ去っていく。ひとまずは、1番思い出深いともいえるあのおんぼろ寮を目指した。反り立つ崖の際に立てられた、ぎいぎいと音が鳴っているのが聞こえてきそうなほど不安定な外見をしている寮は既にヨハンのもうひとつの故郷と化していた。あの寮で過ごした日々は、短い人生を全うしてきた中でも、特にきらきらと輝きヨハンの全身を優しく満たすものだった。自分がいて彼がいて、デュエルをして、更にはデュエルの観戦者がいて、雄叫びが上がり悲鳴が上がり野次まで飛ばされ、そこは自分たちだけのデュエルスタジアムであったに違いない。心地良い空間に気心の知れた仲間たち。それは分校の仲間たちと共有する穏やかさとはまた異なる、別次元における、ヨハンの宝物だった。
 記憶の中と寸分違わぬ四角い建物が見えてきたところになってから、ヨハンは不意に時間を確認してにこりとした。今の時間ならば、もう授業を終えて寮に戻っているはずだ。そしてまた今日も延々とデュエルを繰り返しているのだろう。彼の場に出揃ったヒーローたちに取り囲まれ、翔が涙目になっている様子が思い浮かぶようだ。よおし次は俺の番だからな!泣く泣く手札をデッキに戻した翔にそう微笑みかけてやることにして(おかしな話だ、本当にそういう光景が繰り広げられているかなどわからぬというのに、奇妙な確信を持っている自分がいた)、反射的にデッキホルダーに手を伸ばしたヨハンは思わず「あっ」と声を漏らした。
 そうだ、まだ自分は。一瞬思考が沈みかけるが、よくよく考えればそれすら今日で終わるのだと思い出してからはますます気分が昂ってきてしまった。全力のままレッド寮の階段を駆け上がり、そこで1度立ち止まってから、深呼吸をした。本当に久しぶりに会う。最後に彼の姿を見たのは、思えば、1月以上も前のことになるのだ。1月。たった1月。彼と出会ってからの半年は矢が飛ぶように過ぎ去っていったが、そうして彼を喪失した後の1月がこんなにも長いものになるとは思っていなかった。たとえ今日再会出来たとしても、自分はすぐに自分のアカデミアの方にとって返さなければならない。なれば1月どころではなく、何ヶ月も、或いは何年も会えない日々が続くことになるのだろう。それを考えると、心がへしょんと音を立ててへこんだような気がするが、だが、また会えるということがわかっている分救いはある。この1月は謂わば救いのない期間だった。だからこそこんなにも長く感じられたのだ。彼の不在がヨハンの心を重くしていた。
 ドアノブに手をかける。この扉を開け放てば、すべてが元通りになったという証拠を見ることが出来るはずだ。きっと彼は自分の姿を見つけたら、驚きに目を見開いた後、少しだけ気まずそうに笑いながら目を逸らすだろう。それから、うんとひとつ頷いて、真っ直ぐに見上げてくる。そして、「おっす…」と照れくさそうにはにかみ笑うに違いない。その仕草のひとつひとつが目に見えるようだ。ヨハンは細く息を吐いた。ドアノブを、捻り、外側へ引っ張る。
 だが。
 「あれ?」
 あると思っていたはずの姿はそこにはなかった。電気が落とされた室内は、その他の唯一の光源である窓にカーテンが閉められているせいで昼間だというのに酷く薄暗かった。決して澄んでいるとは言い難い空気が漂っている。ヨハンは2度3度瞬きをしてから、ゆっくりと室内に足を踏み入れた。ぐるりと周囲を見渡す。群青色のカーテン越しの光が視界を寒色へと染め上げていた。教科書のひとつひとつ、生活用品から小物にいたるまですべてのものに単色のグラデーションがかかっている。だが、物自体の配置とそれらが佇んでいる雰囲気自体は、ヨハンがよく見知っている部屋のそれと変わりはなかった。ただ、決定的な違いを挙げるとしたならそれは狭い部屋の中でも幅を利かせている3段ベッドの1番上が、すっきりと、片付けられていたことだろうか。見知った色のカバーが外された布団が、丸められ隅に寄せられている。もう完璧に、無人といった様子のそこ。ヨハンが留学していた頃はそこは万丈目が使用していたはずだった。万丈目は、何処に行ってしまったのだろう。
 ヨハンは目線を3段ベッドの1番上から1番下へと移した。2段目は、以前は自分が使用していた。ブルー寮の自室のだだっ広さがどうにも性に合わなくてぼやいていた自分に、彼はにっこり笑いながら「じゃあこの部屋に住めばいいじゃん。ベッドひとつ空いてるし」と呑気にそう声をかけてくれたのだ。断る理由もなくそれを受け入れてからは、本当にずっと一緒になった。毎晩寝るまでデュエルをして、朝寝坊も2人一緒で、互いに顔を見合せながら歯磨きなんかしてみたりして、只管に同じ時間をともにしていたような気がする。楽しい日々だった。もうあの時のように一日の大半の時間を共有しながら日々を過ごすことなど出来ないのだろう、だからこそ何時までもきらきらと輝いて思い出の中で圧倒的な存在感を持ち続けるのだ。どうしようもない寂寥感とともに。
 こうなるともう予想していた通りだが、1番下のベッドの上は無人だった。掛け布団隅がぺらりと捲りあがり、誰かが寝床から出て行ったままの様子で放置されている。ヨハンは思わず溜息をついて、再度部屋の中を見回した。誰もいない部屋。しんと静まり返っている部屋。背筋に走る悪寒。ざわざわと、妙な胸騒ぎを感じながら、ヨハンはゆっくり踵を返した。部屋の中には誰もいない。探し人の姿はない。それならば留まる理由はない。奇妙に冷静な自分が脳内で「早く探しに行かなければ」と囁いてくる、その声に逆らわぬまま、ヨハンはレッド寮を後にした。ひどく物寂しげな様子で佇んでいる寮が、過ぎ去った記憶の中の温かなそれとはまた異なるものに見えてしまった、その違和感に、ゾッとした。



 とりあえず校舎へと行ってみたが、探し人は見つけられなかった。購買に屋上、更にはイエロー寮やブルー寮まで、彼が行きそうな場所を訪れてみたのだがやはり探し人はいなかった。おまけに、珍しいことに知り合いの誰とも擦れ違わなかったので彼の所在を尋ねることも出来なかった。いっそのこと校長室まで行って鮫島校長にでも尋ねてみようかとも考えたが、こうして自分の足で校舎を回りながら彼を探すのも楽しかったのでやめておいた。しかしそうして自分の悪癖(才能とでも呼んでしまえばいいのだろうか)を甘く見てしまったのがいけなかったのだ。校舎からレッド寮へと戻る道を1本入り間違え森の中に足を踏み入れてしまい、気がついた時には既に右も左もわからない状態になっていたのだ。所謂迷子。自業自得の挙句の結果だったので泣くことも叫ぶこともできず、ずーんと落ち込みながら足を動かした。とりあえず人気のありそうな場所へと歩き出してみる。
 どこかで得体の知れない鳥が不気味に鳴く声がする。頭上でがさがさと枝葉がこすれる音がしたかと思えば、微かな唸り声まで聞こえてきた。相変わらずこの島の生態系はどこかおかしいなとヨハンは苦笑する。だが彼らは過剰に緊張したり刺激したりしなければ基本的にこちらに見向きをすることはないので、なるべく気にかけないようにすればいい。剥き出しの大地を踏み締めながら歩く。人の気配を頼りに進んでいたはずが、何時の間にかそれは人の気配から動物の気配へとなってしまっていた。歩けば歩くほど深く迷い込んでいっている自覚自体はしているのだがかといって立ち止まったとしても誰に見つけてもらえる可能性も酷薄だというのがこの島の厳しい現実だったのでとりあえず歩くことを止めたりはしない。舗装のされていない獣道を往く。ばきばき小枝を踏みしめながら歩く。視界を閉ざす太い枝の間を掻い潜り、光が差し込む方へ方へと突き進んでいく。喋る相手もおらず、黙々とひとりぼっちの探検を続けた。何処を歩くにしても、たとえ迷っている最中だとしてもヨハンはこうして自分の足で大地を踏みしめる喜びを忘れたりはしない。心を無にして、ただただ膝をあげ、太股をあげ、前へ前へと進んでいく。歩き続ける、というのはどこか人生に似ているなと思って苦笑した。
 そんな時だ。不意に道が開け、薄暗かった視界に光が差し込んできたのは。足元を掬うように歪に伸びてきている太い枝を跨ぎ、ヨハンはそちらに爪先を向けた。耳を澄ましてみると静かに波が満ち引きする音が聞こえてきた。どうやら島の沿岸部にまで出てしまったようだ。となると、海際に建っているレッド寮からはそう離れていないのかも知れない。一度迷子になると延々とさまよい続けた挙句目的地とは正反対の方向に出てしまうのが常、という方向音痴っぷりを誇っていたヨハンだが、今回向かうべき方向自体は間違っていなかったように思える。もしや方向音痴克服の第一歩か…?とヨハンは内心ガッツポーズをして、ルンルン気分で森から外へと足を踏み出した。そこは案の定、海面から弓形に上空へと延びて岩肌を晒している切り立った崖の上だった。視界一面に広がる真っ青な海と空が水平線越しに交わっている、壮大な風景に思わず嘆息する。魅入るように暫くぼうとそこに立ちつくしていたヨハンは、だが、不意に上方に視線を向けた瞬間目に入ってきた赤い影に、全身を硬直させてしまった。

 ざざ、と遠くの方から波の音が聞こえる。潮騒。それは体内を流れる血液の流れにも似て、耳の奥底で響いている。ざざ、ザザ、実際に鼓膜を揺らして聞こえてくるそれと、体内から響いてくるそれ。やがてどちらがどちらなのかわからなくなり、混じり合い、矮小なヨハンの意識を飲み込んでいった。瞳の奥が痛い。目を閉じたい。そう思えど、痙攣する瞼はなかなか理性に従ってはくれなかった。本能に準じている。そして本能は、今視界を閉ざすことを許していない。ゆっくりと、息を呑む。生唾を嚥下する感覚が生々しい。同時に何か、得体の知れない緊張の塊を呑み込んでしまったようで、妙に息苦しかった。吐息を洩らす。震える唇が小さく音を紡ぎだす。その言葉を口にしていいのか一瞬躊躇ってしまったことに、自分自身動揺した。
「じゅうだい…!」
 呟いた言葉は殆ど咥内だけで掻き消されてしまうような小さなものだった。にも関わらず、赤は、ぽとりと落とされた呼びかけに応じて、振り返った。鳶色の髪が波風にさらりと揺れ、伏せられていた瞳が開かれる。そこから覗いた、髪と同色の鳶色が、ゆったりと視線をヨハンに定める。まるで寝起きのような表情をしているなと思った。ぼうとして、何も思考していないような顔。それでいながらとろんと眦を下げて、何の感情を含ませることもなく一点を凝視してくる様はどこか艶めいていて、どくんと跳ねた心臓を反射的に服の上から押さえつけた。思い切って口を開いてみる、だが、馬鹿みたいに大きくあんぐり開いた口からは、何の音も出てこなかった。会えたなら話したいことが、聞きたいことが沢山あったのに。もどかしい、という想いもすべて潮騒の中に消えていく。青い世界の中でただ彼の赤だけが鮮やかに映えて、ヨハンが立っている場所より一段高い岩の上に不安定に立っている彼は、地上に降り立った血塗られた天使のようだった。血塗られた。何故そう思ったのか、彼が赤を纏っていたからか。兎に角彼は、静かにそこに佇んでいた。決して明るいだけではない気配を纏って、海風を纏って、果敢無げな立ち姿で、ぞっとするほどのうつくしさで風景と同化して存在していた。二の腕に鳥肌が立つ感触が嫌にリアルだった。
 彼は暫く無言でヨハンのことを眺めていたが、やがて岩から飛び降りて地面に着地すると、ずかずかヨハンの前まで歩み寄ってきた。そして、動揺して目を白黒させるヨハンの前にすっと立ち何も言わぬまま懐から何かを取り出した。ぎこちない仕草でそちらに視線を落とす。するとそこには、触れずともわかる、自分の家族たちが宿ったデッキが乗せられていた。彼の白い掌の中で四十数枚のカードの束がずっしりと確かな質量感を持って、元来の持主の手によって掬い上げられるのを待っていた。家族たちの声が聞こえるような気がして無意識のうちに手を伸ばしかけたところで、ふ、と軽い吐息の音が後頭部に降ってきてハッとする。がばっと顔をあげて彼を見上げれば、彼はわかりやすく口端を歪めて笑いを堪えていた。さもおかしそうに肩を竦めながら「相変わらずだな」と言う。懐かしい、という響きがしみじみと滲んでいる声だった。
「おまえの家族たち、返すの遅くなってごめんな。こいつらのお陰で俺はなんとか生き延びられたんだ」
 ありがとな、と言いながら頷いた彼に頷き返しつつ、今度こそちゃんとデッキに手を伸ばした。あの時、全身を駆け巡る倦怠感と痛みの中なんとか意識を肉体に繋ぎとめて選んだひとつの選択肢。デュエリストにとっての命ともいえるデッキを他者に移譲するという行為は、ひとつの究極の決断だった。だがあの場でヨハンは迷わなかった、誰よりも信頼している友にデッキを預けることに何の疑念も抱かなかったし、同時に、自分がこうしなければ彼を「こちら」に繋ぎ止められないかも知れないというある種の危機感も抱いていたのだ。果たしてヨハンの予感が的中したのかどうかは実際にデュエルをした者、当事者である彼しか与り知らぬことではあったが、後に翔が自分だけに話してくれたデュエルの結果からするとあながち外れはしなかったようだった。後悔はしていなかった。彼が自分の留学期間終了までに姿を現さず、家族たちは自分の手を離れたままで、「宝玉獣のヨハン」と呼ばれる所以であるデッキを事実失うことになったとしてもヨハンは何も悔やみはしなかった。ただ、家族たちと長い間離れて過ごさなければならなかったのは少々堪えたが、それもすべて今となってはどうでもいいことだ。
 結果、自分の手にデッキは戻ってきた。今なら、彼について泥棒だ卑怯者だと悪態をつきまくっていたアークティック校の同期たちにも胸を張って「十代は本当に素晴らしい親友なんだ」と自慢することが出来そうだ。屈辱の日々など、彼が無事に帰ってきてくれて、こうしてデッキを手渡してくれた喜びに比べればなんてことはない。すべては大団円だ。熱いものが胸中を満たしていくのを感じていた。目の前には家族たちがいて、誰よりも大切な彼がいる。帰ってきてくれた。ヨハンは今になって漸く込み上げてきた再会の喜びに身を任せるまま、「十代!」デッキをフォルダーに仕舞ったその手で以て彼の掌を包み込んだ。彼の肩がびくんと震えたことになど構わず(突然大声を出されて驚かれたのだろう)、きょとんとした様子の彼に満面の笑みを浮かべた。
「おかえり十代!ちゃんと無事に戻ってこられたんだな…っていうかなんで俺に連絡寄越してくれなかったんだよっ」
「ああ、ごめん。いろいろ忙しくて、さ…」
「ったく、俺がどれほどおまえのこと心配したと思ってるんだよ…!大丈夫なのか?もう平気なのか?」
「……ああ、ごめん」
「…十代?」
 瞳を合わせようとした傍から目を逸らされた。不思議に思って視線を追えば、握っていた両手をやんわり振り解かれた。そして一歩後ずさった彼は、一瞬俯いた後、静かに顔をあげた。
 その瞬間。ヨハンはどうしようもない、眩暈に襲われた。見開いた視界が端から端から崩れていくような感覚。昂りかけていた心が強制的に凍結させられた。唖然として口を情けなく開く。目に見えるものがあまりに、非現実的すぎて、視覚から与えられたに過ぎぬ情報にここまで揺らがされているということ自体が或る意味で信じられないことだった。ただ目にしただけのものが、心に与えた衝撃。それは直感にも似た、当然受け入れるべきものをとうとう目にしてしまった絶望感そのものだったのかも知れない。
 彼は、微笑んでいた。薄く、細く、柔らかく、果敢無く、涸れそうに、ただ、静かに。弧を描く唇。何かを慈しむように細められた双眸。すっと通った鼻梁と薄い肉付きの頬。それらが、必要最低限の筋肉の動きのみで、笑みを模っている。表面上だけの笑み。まるで、雨に打たれて色を落としてしまった赤い花が、ぼろぼろになった花弁を一生懸命広げて最後の輝きを見せようとするような。もう力は残されていなくて、笑うだけの余裕すらなくて、それでも誰かを安心させたくて浮かべたぎこちない微笑からは、穏やかで優しい悲しみが滲み出ている。そうだ、彼は、悲しんでいる。どうして。
 今までこんな笑みを浮かべる彼など見たことがなかった。それは衝撃だった。衝撃は一瞬にしてヨハンの体内を駆け巡り、あっと言う間にヨハンの思考を寒色に塗り込めていってしまった。レッド寮のあの光が閉ざされた一室のように。指先まで凍てつく感覚に身震いをして、ヨハンは最大限の抵抗をした。ヨハンの思考を、身体を棒立ちにさせようとする絶望感の渦の中でもがいて、必死に手を伸ばした。彼が遠く感じられる。実際には、たった2歩、2歩足を前に動かせば届く距離に彼はいるというのに。だらりと垂れ下がっていようとする右腕を、全力で持ち上げた。小首を傾げ、ふふ、と申し訳無さそうに微笑んでいる彼に触れようと、手を伸ばす。ひどく渇いている咥内を唾液で湿らせ、真実を言及するための言葉を吐こうとする。どうして、なにが、彼をこんなにも深い悲しみの色に染め上げてしまったのだろうか。
「無事に返せてよかった。うん」
 それじゃあ、な。
 彼はもう一歩後ずさった。それから、胸の前で小さく手を振った。遠慮がちに。
 恐らくは、別れの挨拶を。
 
 …別れの挨拶だって?

「――っ十代!!」
「っ!」
 その「別れ」とやらが一時の別れではなく、永遠の別れというものを指し示すのであろうことはすぐにわかった。なんでもないような笑みを浮かべて、なんでもないように別れておきながらその実彼がもう一生ヨハンに会わないでいるつもりなのだということはすぐに伝わってきた。理由は依然としてわからない。だが、もしも今ここで彼に何も言えずに別れてしまったならばそれが紛れもなく現実の出来事となってしまうであろうことはすぐに察知することが出来た。そしてその「現実」を考えた時に、身体は勝手に動いていた。弾かれたように前脚を踏み出し、彼の細い手首に手を伸ばす。一瞬にして表情を削ぎ落とし身を翻そうとした彼の背後から、覆い被さるようにして腕を伸ばす。その細い身体を抱き締めた。放せ、と暴れる腕ごと抱き締め、露になっている項に顔を埋めた。息を吸い込めば、確かに彼の匂いがした。ああ、彼だ、彼だ、ただそのことが切なくて狂おしくてヨハンは殊更抱き締める力を強めた。彼が小さく「痛ぇよ…」と呟く。俯いた彼の、泣きそうな声。表情は窺えなかった。
「頼む、放してくれよヨハン…」
「嫌だ」
「どうして、」
「だって放したら十代は逃げる。逃げて、逃げて、俺の手の届かないところへ行こうってんだろ。そんなの駄目だ。ちゃんと話せよ。せめて何があったのかちゃんと話せ」
「ヨハン…」
「そんなに俺は頼りないか」
「違うんだ、俺は、ヨハン……ちがう…!」
「お願いだ十代。もうひとりで背負い込もうとしないでくれ。もう俺を置いていかないでくれ。俺が頼りないっていうなら、もっと、強くなる。もう嫌なんだよ…俺、何も出来ないまま十代を見送るの、もう嫌なんだよ…!」
「…俺だって、もう嫌だ…」
 彼はそっとヨハンの腕に指先をかけた。やんわりと力を籠める。ヨハンは意識しないまま、その指先にしたがって腕を下ろしてしまっていた。彼がヨハンの腕の中から一歩外へ歩み出る。そして振り返り、真っ向からヨハンに向き直った。強い意志を秘めた鳶色の双眸が、同じく強い意志で以て彼を見詰める翡翠を見上げて、眩しそうに細められた。気がつけば彼は崖のすぐ傍に立っていて、踵が大地と空間の際を踏み締めると、ざり、と音が鳴った。彼は朗らかに笑って両手を開いた。目の前に立つ人物に向けて、というよりも、吹き抜ける風を全身で受け止めるように、肩の位置まで両腕を上げた。
「俺な、ヨハン。聞いてくれよ。俺、ちょっとだけ空に近い存在になったんだ
 人よりちょっと遠くまで見渡せて、人よりちょっと遠くのものまで聞こえるようになった。まるで空みたいに、ちょっとだけ高いところから色々なものが見れる。聞ける。まあ、ただそれだけで、その他はあんまり変わらないんだけどさ。うん。でも、ひとつだけわかったことがある。それはな、俺は、もう今までと同じように大地の上から色々なものを見たり聞いたりすることは出来なくなっちまったってことなんだ。見えるようになったものを、見ないようにすることは出来ないし、聞こえるようになったものを、聞こえなくするようには出来ないんだよな。だから、その分、あんまり見たくないものとか聞きたくないものとかまで見えたり聞こえたりするのが…ちょっとだけ怖い、かな。へへっ」
「十代…」
「でもどうしようもないだろ?じゃあ目を潰せばいいとか耳を切り落とせばいいとかそういうことじゃないんだから。そういうことじゃ、ないんだから…。俺は受け入れた。この結果を受け入れて、一緒に生きていくって決めたんだ。後悔はしてない。だからもういい。もう沢山だ。俺はもう巻き込みたくない。ヨハンのことを信頼してないとかそういうことじゃなくて、俺が許せないだけだ。だからさ、もう、いいんだよ」
 ありがとなヨハン。
 すべてを諦めた笑みを浮かべた彼は本当に満足そうで、思わず納得させられてしまいそうになるほどの説得力を持ち合わせていた。しかしヨハンは唇を噛み締めて、見せ掛けの笑顔の仮面を剥ぎにかかる。その裏側で渦巻いている悲しみを露出させようと、あえて強引な手段に頼る。もしもここでヨハンが納得して伸ばした手を引っ込めてやれば、十代は安心するのだろう。安心して、離れていくに違いない。ヨハンは喘ぐように、彼の名前を呼んだ。ひとつ呼吸をする度に胸の中に沈澱していく苦しみと痛みを押さえつけて、小首を傾げた彼を今度は正面から抱き締めた。戸惑いに見開かれる瞳を真っ向から射抜いたまま、顔の角度を傾ける。片手を背中に、もう片方の手を彼の後頭部にやり、無理矢理くちびるを重ね合わせた。びくんと震える肢体。ヨハンは訴えるように、縋りつくように、彼のくちびるを求めた。
 上辺だけの余計な言葉だけを紡ぐ口は塞いでしまえ。何度も何度も触れるだけのくちづけを重ねて、彼の口を「塞いだ」。決して深いものにはせず、柔らかい感触を味わうだけの優しいキスを続ける。彼がもぞもぞと擽ったそうに腕の中で身じろぐが、やめてなどやるつもりはなかった。勘弁してくれ俺が悪かったと前言を撤回するまでこうして、甘やかして、甘やかして、甘やかしてやろうと思った。どうしようもなく切なくて、痛くて、苦しくて、そんな感情の全てが伝わればいいのにと思った。ヨハン自身、ここまで言い切って尚凄絶な笑みを浮かべる彼が最早誰かの言葉に流されて我を曲げるとは思っていなかった。だが、そうして自分の与り知らぬ所で全てを決めて、諦めて、立ち去っていこうとする彼が許せなかった。あそこまで分かち合って、ここまで心を寄せ合ったというのに、いざという時にどうしてこう一人で突っ走っていってしまおうとするのだろうか。何も変わっていない。何も変わっていない。眼球の奥が焼けるように痛くて、目を瞑れば何かが溢れ出してしまいそうだったから、ヨハンは必死に目を見開いて伏せられた彼の睫が震える様を見ていた。こんなに近いのに伝わらない、伝わっても受け取ってもらえない、分かり合えない、それが淋しかった。
 彼はやんわりとヨハンの胸元に手を置いた。慰めるようにぽんぽんと首筋を叩き、やがてそっと力を籠めた。ヨハンは必死に願う。離れたくない。しかし身体はそれに反して、彼を離してしまう。少しだけ開く彼我の距離。彼はヨハンを見上げて小さく微笑んだ。人好きのする、いつもの彼の笑みだった。
「じゅうだ、…!」
「元気でな、ヨハン!」
 え、と問い掛ける間もなかった。目前の彼の微笑みが、不意に歪んだ。否、ぶれたのだ。ずるりと、視界から滑り落ちていく。下方へと。微笑みだけではない。彼の身体ごと、彼が、下方へと、引きずり込まれていく。一瞬の出来事だった。咄嗟にその腕を掴んで引き寄せようとしたのだが、遅かった。
 彼は、一歩後ろに下がったのだ。何の躊躇いも怖気もなく、後方へ足を踏み出した。そして、落ちたのだ。
 当然の結果だった。何故なら彼の後ろに退路はなく、彼が立つ場所は崖の淵だった。空に置かれた足は重力という拘束に抗うことなく、地上へと引き込まれていく。バランスを崩した身体はそのまま片足に引き摺られ、全身を、中空へと投げ出した。物的支えを失った物質がどうなるかは言うまでもない。只管に、落ちていく。体重と引力によって落下速度を刻々と速めながら。
 ヨハンの目前で、彼の笑顔の、掌の、赤い残像は一瞬にして消え去っていった。跡形も残さずに。



 ヨハンは呆気にとられて茫然とその場に立ち尽くしていたが、慌てて崖の際にまで寄った。何も考えられず、視界に物を映すがままにぼんやりと崖の下を覗き込んだ。崖は思ったよりも急で、ごつごつと硬い岩肌が延々と続いており、最終的には日陰になって暗く淀んだ群青色の海に飲み込まれて消えていた。硬い岩を何百年もかけて削り取っていく水の流れたちが、凶暴に白い水泡を岩肌に叩きつけ、ざざ、ザザ、と唸っているのが聞こえていた。寄せては返すその様をぼんやりと眺める。当然ながら彼の姿はそこにはなく、薄暗い青に染められたそこには赤の一点も見つけることは出来なかった。
 彼が死んだわけではない。そのことは、漠然と理解していた。あんなに前向きな彼が、今、自ら死を選ぶような真似はしない。だからこそ彼の安否は心配していなかった。だがそういうことではないのだ。
 確かに現実の彼は生きているだろう。崖から飛び降りるなどという真似をして果たして本当に無事でいられるなどとは、本来ならば到底信じられたものではないのだろうが、ヨハンはそこに一片の疑いも抱いていなかった。しかしそうではなく、彼は、ヨハンの前から、姿を眩ましたのだ。あんなに鮮やかな笑みを浮かべたまま。残酷な別れを告げてヨハンとの絆を切り捨てていった。最後の瞬間を看取らせてくれることもせず、結果だけを押し付けて自分勝手に去っていった。何も悪いなどと思っていない素振りで。ヨハンのことを、心底想って。
「…ばかやろー…!!」
 噛み締めた唇から血が流れた。固く作った拳の合間から血が流れた。全身が痛い痛いと悲鳴をあげていた。大声をあげて泣き叫びたいくらいだというのに、すべてをぶつける対象は、もういなかった。
 ヨハンは自分の非力さを悔いた。結局自分は彼に気遣われただけだった。彼の背負ったものを肩代わりすることも、半分背負うことすら出来ず、やんわりと押し留められただけだった。抗えなかった。
「ふざけんなよ…」
 地を這うような声で世界を呪った。彼を呪った。自分を呪った。認めるわけにはいかなかった。こうして引き下がるわけにはいかなかった。呪って、憎んで、恨んで、ヨハンはすべての怒りを全身に溜め込んで深く深呼吸をした。寒色に染め上げられたままだった思考を燃やし、真っ赤な暖色へと転じさせていく。ふつふつと燃え滾るものをすべて一身に抱え込んで、ふうと吐いた息はひどく熱っぽかった。
 瞼を下ろし人工的な闇を作る。もう1度深呼吸をする。そして、瞳を開く。覗いた翡翠は、怒りと熱とで爛々と輝いていた。
「ぜってーみとめねー。撤回させる。待ってろよ十代」
 ひとり呟いた言葉はどこまでも重く、固く、強く、自身への誓いとなってヨハンの胸の中へと沈み込んだのだった。




 アークティック校へ戻ったヨハンは死に物狂いでデュエルに励んだ。新しい戦術を編み出し、デッキの強化を図り、来るべき時に備えた。
 その時は遠くない未来にやってくる。童実野町覆いつくした暗雲が全世界に広がり始めた時、寄越されたひとつの小包と素気ない手紙。与えられた選択肢。ヨハンは問いかけに対し迷わずにイエスと答え、故郷を飛び出した。その先できっと危機に瀕しているであろう、親友を助け、見返してやるために。



2008年のいつか^▽^



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