物音が聞こえてきて目が覚める。それは極めて自然な覚醒であり、不快なものではなかった。開いた視界は暗闇に塗り潰されている。枕元に置いてある電子時計を確認してみれば、まだ深夜と言っても過言ではない時間帯であり、そのような時分に聞こえてきた物音とはいったい如何なるものだろうかと思う。しかし警戒すべきものではないことは確かだった。これはあくまで勘でしかないのだが、それでも18年の生の大半をサテライトで過ごしてきた自分の危険に対する感度は決して低いものではなく、かちりと意識が戻ってきて身体が随意になった瞬間に布団を跳ね除けて飛び起きるような事態になっていなかったということはそれなりの事態でしかないということだ。ゆっくりと上半身を起こし周囲を見渡す。何か違和感はあるだろうか。最初はよくわからなかったのだが、夜の黒に慣れてきた瞳が漸く物音の音源を見分けた。もとい、その抜け殻を。
 極力音を立てないようにして寝台を抜け出した。どこにいるだろうか、外だろうか、それとも厠に行っているだけだったとしたら無用な心配でしかなかったな、などと思いながらひとつひとつ彼の姿が見当たりそうな場所を探していく。そして見つけた。彼は台所にいた。流し場の前でぼんやりと立ち尽くしている。明かりもつけずに、窓から差し込んでくる微かな光に照らされる銀色のシンクを見詰めていた。彼の足元にはグラスがひとつ落ちていた。これが、遊星が聞き分けた物音の元だろうと思う。暗くてよくは見えなかったが、グラスの周囲には真っ黒な液体が飛び散っていた。
 静かに歩み寄る。「…十代さん」この夜の静寂を壊さぬようそっと声をかけると、彼は僅かに肩を揺らし、しかし振り返ることはしなかった。顎を引き、俯く。いつも快活としており、飄々とした態度を取る笑顔の人らしからぬ姿だった。だがこの姿が、彼らしくない、とは思わない。細い吐息が薄い唇の隙間から漏れる様が目に見えるようだった。彼は瞳を見開いていたように思う。病的なまでに、大きく、瞳が零れ落ちてしまうのではないかと心配になってしまうほどに。彼が、翳っていた。不安定だった。まるで夜の闇に同化しようとして、しきれずにいる、出来損ないの影のように。
 おかしな話だと思う。彼が影であるはずなどないというのに、しかしそれでも、遊星にはそう感じられたのだ。太陽の影の色を誰が知っているのだろう。
「どうして」
 やがて、ぽそりと呟かれた言葉は低く、空気を震わせた。無感情な声だった。
「どうして、遊星には精霊が見えないんだろうな」
 ゆるりと顔を上げ、微かに微笑んだ彼が何を考えているのか遊星にはわからない。自嘲気味な笑みだった。嘆き、哀しみ、遣る瀬無さ、虚しさ、憤り、諦念、どれが滲んでいただろう。あるいはすべてが綯い交ぜになって、夜の闇よりも濃く淀んだ黒を生み出したのだろうか。答えることが出来ないでいる遊星の前で彼は音も無く微笑み続けていた。唇の貼り付けられた笑みは、化石のように、彼がどれほどの年月を「そう」して過ごしてきていたのかを顕実に示していた。疲れきっている。痩せこけた老人が浮かべる笑みに似たものを覚えた。
「なあ?」
 彼が何を思ってそう問いかけたのか、遊星には、わからない。理解できるはずが無い。何故なら遊星は、彼と同じだけの年月を生きてはいない。彼と同じだけの質量の絶望を、味わってきてはいないのだから。ただ、ひとつ首を横に振り、じっとその暗色に沈んだ鳶色を見詰めると、彼はふと我に返ったかのようにぎこちなく口端を吊り上げさせ、頬の筋肉を引き締め、無表情に戻った。「悪い」と低い声で言う。遊星は「いいえ」と返した。
「眠りましょう十代さん。今度は、悪い夢を見て、起き出さないように」
「添い寝でもしてくれるのか?」
「あなたが望むなら」
 そう言うと彼はフッと笑い、「嘘だよ」と肩を竦めた。一歩踏み出した彼が、床に零れた黒い液体を右足で踏み潰す。彼は、冷たい、とも、いたい、とも言わなかった。ぴしゃり、と音を立てて彼は液体の海から足を浮かせる。金縛りにでもあったかのように何時の間にか動きを止めてしまっていた身体を無理矢理動かし、グラスを拾う。透明に透き通ったグラスは、シンクに置くと、月の光を反射して鈍く輝いた。
 どうやら床に広がっていた液体は水だったようだ。そのことに、遊星は、心の底から安堵した。



2010.6.24



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