しくじった、と思ってみたところで時間というものは得てして捲き戻せないものであり、また、取り返しがつかないものであったりする。
「よお、こんなところで会うなんて奇遇だな〜!」
 肩を叩かれて振り返った先の同居人の顔は、呑み屋の薄暗い室内でもきらきらと特別に輝いていた。彼の隣にいた女の子がきょとんとした顔で見遣ってくるのに対してもすかさず「俺の同居人だぜ」と抜け目の無い返答を返している。木曜の夜は比較的人が少ないといっても、狭い店内のあちらこちらのテーブルに着いて思い思いの会話に花を咲かせている人々の声が重なり合い、ほどよい喧騒を生み出していた。室内の隅のテーブルで慎ましやかに飲んでいた自分たちは極めて影が薄いグループであったはずなのに、どうして同居人には気付かれてしまうのだろうか。否、答えなどひとつしかない。呆れを押し隠さない表情のまま「ああ、そうだな…」と返すと同居人は満面の笑みを浮かべ鷹揚に2度頷き、
「隣のテーブル、いいよな?」
決して断ったところで聞き入れてくれるつもりなどないのだろう、素早く壁側の席…通路を挟んだ十代の隣の席に腰掛けながら、にっこりとした。


 飲み会があるから今度の木曜は勝手に晩飯喰ってくれ、とぞんざいに告げた十代に同居人は、そっかーわかったーでもカレンダーに予定書き込みだけはしとけよな、とさして興味も無さそうに返してきたはずだった。月曜日の夕方の出来事だった。大学から帰ってきた十代が見たのはバイトに向かう準備をしている同居人で、ネクタイを締めながら眠そうに欠伸を噛み殺している後姿を見てふうと息を吐いた。どうやらこの日は少々寝坊をしてしまったらしく、随分と慌てている様子で居間と洗面所とを行ったり来たりしていた(職業柄なのか元からなのか同居人には足音を消して上品に歩く癖がついてしまっていたため、傍から見るとそう急いでいるようには見えなかったが目だけは必死そうだった)。急いでいる時にぱっとかけられた他人の予定なんてまあ頭に留めておけるわけないよな、と思いながら電話の横に置いてある赤いカレンダーの6月の第2木曜のところに「飲み会、××にて」とだけ書き込む。ふと気になって、自分のカレンダーの隣にある青いカレンダーを覗き込んでみたが、やはり青いカレンダーの6月の第2木曜にはバイトの予定は書き込まれていなかった。但し、「経営学・レポート・16時迄」と小奇麗な字で書きとめられていたので、大学に行く予定はあるのだろう。序でに次のオフを探してみたが、予定が出ているのか出ていないのか、第3週以降の日付には何の手も入れられていなかった。顔を上げる。と、ちょうど同居人が、背後を通り抜け様に「行ってくるな」と声をかけてきた。十代は、灰色のスーツが消えていった廊下の先を見て2度瞬きをする。やがて、扉が開閉する音が聞こえてきた。行ってしまったらしかった。
 飲み会というのは研究室の同期面子数人とのもので、最近彼女に振られてしまったらしい友人のひとりを慰めるための飲み、という名目があるらしい。メインである友人と、よくつるんでいるもうひとりの友人、そして友人の紹介でくる別の研究室の女子ふたりとで飲みに行くことを聞かされたのはそれこそ前日になってからだったが、別段異議があるということもなかったのでただ頷いて事実を受け入れた。どうせならもうひとり女の子呼べばよかったな、とにやにや笑っている友人に、合コンじゃねーだろとツッコミを入れつつ、女子ふたりの帰路を考慮して都内へと出てきた。呑み屋ばかりが続く通りから少し外れた場所にある所謂穴場となっている店に入り、改めて自己紹介のようなものをしてから話し始めた、直後に、こうだ。いったい何を狙っていたのだろうか。

「何って、答えなんかひとつしかないだろ?」
 ご機嫌そうに告げる同居人に悪びれた様子は微塵も無い。十代は溜息を吐き、道路に転がっていた石をスニーカーの爪先で蹴り上げた。靴底がコンクリートと擦れて、じょり、と音が鳴った。まるで、味噌汁に入っていた砂が抜けきっていない貝を思い切り噛み潰してしまった時のような音だった。苦々しいが、諦めて受け入れざるをえず、しかし悔しいといったような気分。しんと静まり返った住宅街の合間の車道を堂々と闊歩するふたりの靴音だけが響いている。茫々としているが、すっかり火照ってしまった頬を撫でる風の冷たさだけが鮮明な、晴れた日の夜だ。本来ならこの道を歩いているのは自分ひとりだったはずだというのに、どうして同居人と揃って帰路を辿っているのか。
「っていうかおまえ、もしかして最初からそのつもりだったのか…?」
 わざと十代たちがいる呑み屋にまでやってくるだなんて、あまりに周到すぎる。ストーカーではないのか。流石にドン引きしたいところである。あらゆる疑念をこめつつジト目で睨めつけたが、同居人は鼻歌などを歌いながら「いや〜?」と暢気な声を出した。その余裕さに腹が立つ。
「別に、××町にいるってことだけは知ってたしさ、もしかしたら会えないかな〜程度の気分で店を選んだだけの話だぜ?」
 そうしたら本当に十代がいるんだもんな〜吃驚したぜ!と、言いながらからから笑う同居人は全く以て「吃驚した」などという態度ではない。思わず頭を抱えたくなった。
 女子ふたりを伴って店に入ってきた同居人はちゃっかりと隣のテーブルに陣取っただけではなく、さり気無くこちらの会話に加わり友人たちに好印象を与えつつとどめの一言、「あ、そういえば俺たち入れたら男女同数じゃないか?だったら一緒に話そうぜ!」と、まるでこちらのグループにひとり女子が少なく彼らのグループにひとり女子が多いという偶然の出来事を、自分たちが一緒になって呑むために予め定められていたことのように言い回し、友人たちを丸め込んでしまったのだ。十代以外の男子たちは同居人が連れている少々露出が高めの服を着た美女と言っても差し支えがないレベルの女子ふたりに興味津々であったし、女子たちは女子たちで同居人の外見のよさにあからさまに惹かれている様子だったので、反対の声が上がるはずもなくふたつのグループはひとつになることを了承した。
 口が上手い同居人の仕切りの下に、呑み会は円滑に、楽しく進んだ。だが、その中で十代だけが、同居人が連れてきた女子たちに「ねえねえヨハン君と一緒に住んでるってほんとぉ〜?」「普段のヨハン君ってどんなかんじ?寝る時とか、さ!」と、同居人に関しての質問攻めを喰らいまくり散々な目に遭っていた。視線だけで本人に助けを求めても、彼はこちらの大学の女の子たちや友人たちと喋るのに夢中になっていてちっとも助け舟を出してくれない。否、違う。あれもわざとのことだ。自分のことで十代が集中砲火を受けている様を見て、悪戯が成功した子供のような顔でくすくす笑っていた場面を何度か目撃している。その度に、やっぱりしくじった、と愕然としたが、腕を引っ張られ甘い声で話の続きを促されては男として応じないわけにはいかなくなる。内心で込み上げる怒りを抑え込みつつ女の子に微笑みかけている自分も、滑稽なものだなと思った。
 そうして、楽しいが地獄のようだった呑み会が終わった帰り道、ふたりきりになるや否やはじけたように笑い出した同居人の反応を見る限りではやはり面白がられていたようだった。まったく、なんという奴だ。他の人間の前では明るく爽やかな青年にしか見えないというのに、その本性は小悪魔のようである。はあと重々しく溜息を吐いた十代を見て、「でもさ、」にやけていた口元を引き締めて、同居人はやんわりと瞳を細めた。
「何十もある呑み屋の中からおまえがいる呑み屋を見事選び出してみせたんだから、やっぱり俺の想いってすげえよなあ…」
 十代は顔を上げて同居人を見上げた。月明かりの下で薄く微笑む同居人はひどくうつくしかったが、十代は思い切り眉間に皺を寄せてからその顔面に向かって迷わず拳を繰り出しておいた。
「あの町でお互い気に入ってる店があの店だけなんだから確率なんかほぼ1分の1だろうが!」
「あははははバレたか!」
 ひょいと拳を避けてからまた腹を抱えて笑い出した同居人は、どうやらかなり酔っ払っているらしい。だが、馬鹿馬鹿しい問答に呆れながらも、自分も相当酔っ払っているらしいことは確かだった。ああ、頬が熱い!



2009.6.2


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