俺の両親はあまり家にいない人たちだった。所謂仕事人間という人種の人たちだったのだ。かといって彼らが俺の存在を軽んじていたかと問われれば、決してそのようなことはなかっただろうと断じることが出来る。彼らは有能で、部下たちに慕われる人格者であったから、必然的に会社に必要とされていただけだ。よく家を訪れる彼らの部下だという客たちが一様に俺に優しかったことがその証明だと思っているし、たまに休暇が重なった時などは先を争って俺と時間を共にしたがっていたことを覚えている。
 きっと俺は幸せだった。両親に大切にされていた俺は、幸せだった。それに、両親がいなくとも寂しくなどなかったのだ。何故なら俺には、両親が不在の間ずっと傍にいてくれる幼なじみがいた。近所に住んでいるその幼なじみも俺同様共働きの両親を持っていて、お互いの両親が不在の時にはお互いの家へと行き来しあい、たまにどちらかの両親がその日家に帰れなくなった場合にはそのまま泊まり込むこともざらではなかった。布団に潜り込んだあとに共通の趣味であるカードゲームについて夜通し語り合った記憶は鮮明だ。ひとつ年上の幼なじみはとても陽気で頼りがいのある人だったが、しかし何故か、昔から固定の友人を作ろうとしなかった。学校などで見かけても、周囲から一歩離れた場所にいた印象がとても強い。そのような人が、俺にだけ優しかったことに微かな優越感を覚えていたりもする。
 小学は同じ学校だった。しかし幼なじみは中学受験をし、結果全寮制の私立校に通うことになった。そのことを聞いたのは、幼なじみがすっかり身支度を終えてそちらに行ってしまってからのことだった。何も話してくれなかった幼なじみのことを恨めども、俺には最早どうすることも出来なかった。俺は同級生たちと共に地元の中学に進み、そのうちあの人のことを思い出すことも少なくなっていった。
 それから5年も後の話だ。


「よお、久しぶりだな」
 学校からの帰り道にて、突然肩を叩かれた。反射的に身を翻らせ相手に向き合おうとした俺の目に飛び込んできたのは、どこか見覚えのある、しかしどこで見かけたのかがわからない、少なくともここ近年で顔を合わせた記憶のない人の姿だった。その人は指の間で持った煙草の火を揺らめかせながら、懐かしそうに瞳を細めた。相手は確実に自分を知っている。恐らく自分もこの人とどこかしらで会ったことはある。だが、思い出せない。眉を顰めた俺に気付いたのか、その人はからから笑いながら「俺だよ、俺」と言った。
「昔近所に住んでただろ?よく遊んだじゃんか。忘れちまったか?」
「近所に……、まさか」
「あーあ、あんなに俺に懐いてくれてたのになぁー薄情だなあー…」
「あの、もしかすると、…十代、さん…?」
「…なーんてな。ま、云年も前の話だ。餓鬼の頃とは見た目もだいぶ変わってるし、わからなくても仕方ないよな」
 俺は遊星のこと一発で分かったけどな、と言いながらウィンクをする。その人は確かに、遠い記憶の中に存在する幼なじみのあの人と同じ顔をしていた。といえど、成長期を経たその人の姿は、小さかった頃とは激しく異なってしまっていた。しかしそれを言うならば俺も同様だったろう。だというのに彼は驚き眼を見開く俺の顔をまじまじと見つめながら、懐かしい懐かしいと何度も繰り返し鷹揚に頷いている。
「今帰りか?」
「はい」
「高校はー、結局近所の県立に進んだんだな」
「ええ。十代さんは、今は…」
 今年で高校3年となる俺のひとつ年上の彼は、高校を卒業し、就職か大学に進学するかといった年頃であるはずだ。案の定彼からは、こっちの大学に行くことになったんだ、という返答が返ってきた。
「だから引っ越しの準備で家に戻ってきてる」
「引っ越し…」
「そ」
 彼の目指す場所が生家ならば帰り道は同じだ。並んで歩く俺たちは周囲からどのように見えたことだろうか。ちらりと、眼下の彼を見下ろす。背の小ささは変わっていない(自分の背が高いというわけではないので、頭半個分ほど背が低い彼の身長が低いということになるのだろう)。特徴的な癖っ毛も相変わらずだ。しかし、快活、無邪気、天真爛漫といったような言葉こそが似合っていたその人は、短い煙草を片手に、とんでもない煽り文句が英字で書き殴られたワンサイズ大きめのTシャツを身に纏い、薄汚れたダメージジーンズを穿いている。荒んだ雰囲気を纏っていた。彼の唇から立ち上る灰色の煙が、その先を見やる上目遣いが奇妙にセクシャルで、俺を動揺させた。まるでこの人ではないみたいだ。だがこの人は確かにあの人に違いない。俺の目を見てにこりとすると、昔の面影が色濃くなる(そのまま瞳を細めて口角を釣り上げられるだけで、その表情はまったく俺に馴染みのないものへと変質してしまうのだが)。
「ようやく、ひとりで生きていける」
 誰に向けられた言葉でもなかった。彼は何の変哲もない町並みを眺めて煙を吐いていたし、俺は鞄の紐をぎゅっと握りしめることしか出来なかった。

(俺が幸せであったなら、幼なじみはあまり幸せとは言えなかったのではないかと思う。彼の家は俺の家より裕福であった。望めばある程度の物質的なものは手に入った。だが、ひとつだけどうしても手に入らないものがあったのだ。それは、親の愛だった。彼の親は、仕事を愛していた。彼らの息子よりも仕事を愛していた。息子には金銭のみを渡し、自分たちのために研究に励んでいたという。確かに、俺は、彼の両親と会った回数があまりにも少なかった。お父さんとお母さんは、と尋ねる度に肩を竦めてみせた彼の孤独の一片も理解出来ていなかったのではないかと、今更になって思う。すべては後の祭りだ。何をどう悔いようとも、過去の時間は決して戻ってこないのだから。)

 荷物という荷物は特に残っていない、と彼は言った。元々残していっていなかったのだという。今回は、手続きと、自分に関する書類のあれこれを選別して持っていくために戻ってきただけだ、と。久しぶりに上がった広い家は相変わらずしんと静まり返っていた。かつて多くの時間を共に過ごした彼の部屋はすっきり片付いてしまっていて、ベッドと本棚ぐらいしか家具らしきものは見当たらない。彼は荷物を床に下ろすことなく、うろうろと部屋とリビングとキッチンを歩き回ると、一呼吸ついた。恐らく、もう2度と戻ってくるつもりが無いのだな、と思った。悲しんでいるのだろうか。名残惜しんでいるのだろうか。そっと窺い見た彼は、しかし、安らかな笑みを唇に佩いていた。
「さよならだなぁ」
 呑気な声だった。俺には何も言えなかった。ただ、ここでこの人と別れたら、もう、何処に行っても出会えないような気がした。広い家を出て、入口に施錠する。彼はその家の鍵を玄関のポストに入れた。やはり帰ってくるつもりはないのだ。大きな欠伸をして、じゃあな、と言う。呆気ないものだ、と思った。
「あ、そうそう」
 茫然と立ち尽くして彼の背中を見つめていた俺の視線に気づいてか、不意に彼は振り返ると徐に傍らにまで歩み寄ってきた。手を差し出してくる。何事かと思い目を瞬かせていると、「ほら、手!」と怒られてしまった。慌てて差し出した掌の上に、小さな鍵をひとつ、落とされた。
「これは…」
「アパートの鍵。俺の新居のな」
 一瞬何を言われたのかまったく理解出来なかった。硬直する俺を置いて、彼は「××駅の近くまできたら連絡しろよ。案内してやるから。あっでも俺おまえの連絡先知らないなーメアド交換しようぜ」勝手に話を進めていってしまう。ズボンのポケットに入っていた携帯電話を取り上げられ、数分の後に戻ってきた携帯の画面には確かに、彼のメールアドレスと電話番号とが表示されていた。それらの持ち主の名前。遊城十代。その名前を見て、やはり、この人だったのか、とようやく実感することが出来た。
「連絡してくれよな!」
 明るく笑ってそう言う。俺には、5年ぶりに再会した幼なじみのその人が何を思って俺に鍵を渡したのかが、まったくわからなかった。



2010.5.19



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